時任可愛い
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「仕事……ねぇ」
 久保田は小首を傾げた。
「絢炎で落ち合うんじゃなかったっけ」
「そっちとは別件」
 絢炎という名に時任は聞き覚えがあった。今朝久保田が口にしていた、この旅の目的地だ。
「絢炎には桂木がいるぜ。奴さんの調査をしながら首をながーくしてお前を待ってる」
「相変わらず尻に敷かれてるんだ」
「まぁな」
 相浦は照れた様に頭を掻いた。
「桂木ちゃんを置いてわざわざ来るってことは、それなりの話って訳か」
「話が早くて助かるぜ」
 相浦は手招きし同道を求める。往来で話せる様な内容ではない。久保田は首肯し、近傍の屋台を指した。
「西瓜買ってからね」
 久保田と、西瓜を小脇に抱え昼餉の盛られた皿を片手に持った時任は相浦の旅寓に請待された。通された房室の床に引敷物を広げ昼餐を並べて、腰を下ろす。時任は久保田の左隣に。相浦は二人の向かいに。
 旅荷から取り出した皿に料理を取分け手渡すと、時任は夢中で頬張り始める。久保田は短剣で西瓜を切り分けるとその面前に置いた。主人である筈の久保田が進んで世話を焼く様を呆れた様に相浦は眺める。
「相浦もどーぞ」
「お、悪いな」
 皿を受取ると、時任に恨みがましい目で見られ相浦はたじろいだ。食糧は元々二人分として購入していた為、時任にとっては取分が減り物足りない昼餐となったが、三等分したとはいえそれでも並より多い位だ。痩躯に似合わぬ大食を久保田は只微笑ましく見ている様だった。
「さっき小腹が空いて買ったんだけど」
相浦は己の旅荷から干し果物を取出して時任の眼前に並べる。手を止め、時任は当惑した様に久保田と相浦の顔を交互に見た。
「遠慮せず食っていいぜ」
 相浦は安心させる様にそう言ったが、奴隷である時任に対する相浦の態度が平民に対するそれと何ら変わらぬことに疑義を抱き、時任は己が取るべき態度を決め倦ねていた。その様を注視し、遭逢して間もない頃は己に対してもそうであったことを久保田は追思する。そしてその後、己に懐いた様に相浦に懐くことを考えると気疎く憶え、大人気なく釘を刺した。
「餌付け禁止」
「犬猫みたいに言うなよ」
 むくれる時任の口の端に付いた米粒を摘み口に運ぶ。指を舐め、久保田は相浦に目線を移した。
「で、誰を殺せばいいわけ?」
「相変わらずだな」
直截的な物言いに相浦は苦笑を零し、久保田に合わせ単刀直入に本題を口にした。
「『夜の盗賊団』がこの町に居る」
「大物だね」
「ああ。久々の特級だ」
 淡々とした久保田とは対照的に勢い込んで前のめりになり乍ら、相浦は熱っぽく弁を振るう。
「確か賞金出てなかったでしょ。国も怖がっちゃって」
「それが出たんだよ。轢氏が出した。額も大分奮発してる。こりゃ本気だな。この時期に夜の盗賊団みてぇなのに一仕事されちゃ困るんだろうが……それが吉と出るか凶と出るかはお前次第だな」
「何か訳有りみたいね」
「近く国王の代替わりがあるらしい」
「へぇ」
 正直な所、久保田にとっては気乗りがしない話だった。標的の規模が大きければその分、仕留めるのに障礙も多く手間も掛かり面倒この上ない。長期化する可能性も高くなる。
 西瓜を食齧る時任に一瞥をくれる。差向き所持する路銀でも絢炎まで旅するのに支障はない。だが節倹は免れ得ぬ。黯然たる窖しか知らぬ時任が、この先の旅路にて何に心奪われ何を強請るか皆目見当が付かぬ以上、甘やかす為にも路銀は潤沢な程良かった。
 久保田は溜息を吐いた。
「まぁ、賞金が出るならやるけど。夜の盗賊団って規模はどの程度だっけ?」
「正確な人数は分からなかったが、百は居るな。東夏陵を壊滅させた位だ、火力も腕っぷしも相当のもんだろうし、頭目も相当切れ者だ。正面切って戦えばまず勝ち目はないだろうな。でも、夜陰に乗じた奇襲なら何人居ようと久保田の敵じゃないだろ?」
 相浦はにやりと笑った。
「な、千人殺し」
「千人殺し……?」
 西瓜を食み乍ら二人の会話を黙然と聞いていた時任は顔を上げ、聞き慣れぬ剣呑な名前を鸚鵡返しに口にする。
「その呼び方しないで欲しいなぁ。恥ずかしいから」
「久保田に羞恥心があったとは驚きだな」
 二つ名で呼ばれた久保田は辟易した様に眉を顰めたが、交誼を結んで長い相浦は気にした風もない。
「久保ちゃん」
 時任は久保田の顔を見詰めた。久保田は薄く笑む。
「千人殺したから、千人殺し。そのまんま」
「こう見えても強ぇんだぜ! 久保田は」
「強いのは、知ってる」
 だが、具体的に数値化されたその千人という値は途方も無い数字だ。
「千人以上殺した俺は嫌い?」
「嫌いじゃない」
 即答した時任を久保田も見詰める。眼界にお互いしか居らぬかの如く振舞う二人に、相浦は咳払いをした。
「……とにかく、塒は特定してる。後は上手く潜り込む方法を考えねぇとな」
「まぁ、難しいだろうねぇ」
 漸く時任から視線を外し、相浦が広げた輿図を覗き込んだ。空になった皿を置き、烟草に火を付ける。
「賞金首になったことはもう知ってるだろうしな。鼠一匹入り込む隙間もねぇだろうが……頭目と部下の分断さえできればやりようはあるんだけどな。指揮系統は頭目一人に集約されているし」
「それが難しいんでしょ、分断なんて内部からやらないとできないし。噂通りの団結力なら買収もできないだろうしねぇ」
「そーなんだよなぁ……張り付いて隙伺うしかないか……」
 沈思する久保田と相浦の耳に、唐突に時任の一言が飛び込んだ。
「俺がやる。潜り込んで、その盗賊の頭を一人にすりゃいいんだろ」
 濡らした手巾で手を拭いながら、事も無げにそう確言する。だが、久保田は即座に不許可の言葉を発した。
「駄目」
「何で! 勝算はあるッ!」
 食って掛かる時任に、久保田は膠も無い。
「危ないでしょ。理由はそれだけ。それで十分」
「下手に手を出す真似はしねぇよ。そこまで馬鹿じゃねぇ」
「接触するだけで十分危険でしょ。相手分かってる? 声掛けただけで殺される可能性だってあるんだ」
 言募る唇に指を当て、薄いそれをゆっくりとなぞるとそのまま白い首筋に滑らせる。武骨な鈍色の首輪の下に指を潜り込ませ、気管、頸動脈、急所を順に中指と人差し指を這わせた。命を愛撫するかの如く。
相浦は我知らず目を逸らした。
「これは俺の仕事。お前には関係ないから」
 久保田は明確に時任を突き放した。初めての拒絶に怯んだ様に目を瞬かせ、時任は唇を噛んだが、それでも引き下がる事無く久保田の左手を取ると両手で握った。
「俺、久保ちゃんの、何」
 硝子の奥、眸子の中、凍土の如く頑強な情意を、それを凌駕する熱情で溶融させるかの様に見詰める。
「奴隷じゃねぇんだろ、じゃあ何なの」
 久保田は答えない、否、答えられなかった。関係性に重きを置かぬ久保田にとって、己にとって時任が何なのか料簡する事もなく、望む関係もまたなかったが故に。
「俺、久保ちゃんの……相方になりたい。手伝わせろよ」
 二人は暫時、言葉なく見詰め合った。
 この時が初めてであった。時任が久保田の意思ではなく己が意志を通そうとし、真の意味で奴隷として振舞わなかったのは。
 久保田は深く嘆息した。折れたのは久保田の方であった。
「殺されない?」
「殺されない」
「絶対?」
「絶対」
 握られた左手に力を籠め、久保田は痛い程に握り返した。
「じゃあ……頼んだ」
「うしッ!」
 時任は笑顔を輝かせた。屈託のない幼い笑顔、そんなもの一つで胸に垂下する鬼胎が減軽される己を久保田は自嘲する。
 その後、時間を掛けて盗賊団が訪れる場所、塒となる幕屋の位置関係、久保田が夜襲を開始する時間等、細かく認識を合わせた。
「気を付けてよ」
「久保ちゃんこそ」
「何かあったらいつでも逃げていいから」
「塒の傍に森がある。やばくなったらそこへ逃げ込め」
「大丈夫だって」
 時任は二人の憂慮を破顔一笑、一蹴した。
「朝までには迎えに行く」
「ん。……待ってる」
 久保田が時任の意志を優先させたのは、彼の事を大切にしているが故だ。旅中も極力彼の冀求を聞き、それを優先し叶えてきた。それが大切にするという事だと久保田は思為していた。だが、何故それ程までに大切にするのか省察することはなかった。
時任は状況に応じて決めると言い、目的を遂げる為の具体的な手立てについて終ぞ口にしなかったが、そのことに久保田が思い至らなかった筈はない。了得した上で久保田が見誤っただけだ。己の執着の度合いと執心の種類を。
久保田が慮るべきは時任の命だけではなかったのに。
時任はあの短剣を宿に置いて、出て行った。

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「でっけー市場! 人がすげぇ居んな、久保ちゃん」
「そーね」
 時任の歓声に、久保田は相槌を打った。
 眼前には見渡す限りの屋台が犇き合っており、その空隙を縫う様にして溢れんばかりの人間達が忙しなく動き回っている。
 屋根には色取々の布帛が張られ、床店の主等が鬻ぐ物は寔に様々だ。
 幾何学模様の刺繍が美しい衣装、金糸銀糸に飾り玉を商う店先では妻や娘への手土産を父親が物色し、壺屋では値切る客と店主との掛け合いが白熱している。
 食糧を扱う床店が最も多く、香辛料、穀類、青果、干し肉干し魚等の原材料から、麺麭に汁物、串焼きや焼飯等の烹炊された物まで有りと有らゆる物が揃っていた。
 何処かから生きたまま売られる鶏や羊の鳴声が客引きの呼声に混ざる。煮込まれた羊肉の羹から漂う芳香と、舞う埃の臭い。肌を打つ活気は是迄に訪れた町々とは比較にならぬ。
「首都が近いしね」
「へー」
久保田の言葉に上の空で頷き、群衆の中を目移りさせながら歩いてゆく。
「早く昼飯買おうぜ」
そうして時任が最初に強請ったのは、蒸した羊肉と野菜、米を炒めた焼飯だった。出来立てを皿に盛って渡される。刻んで混ぜ込まれた干杏子や干葡萄が湯気に乗って仄かに甘く香る。
次に立止まったのは平麺麭屋の前だった。店主が愛想良く笑い、割って見せた平麺麭の中には良く煮込まれた肉と野菜がぎっしり詰まっており、唾を飲込んだ。そんな久保田は一つ買い求める。そうして屋台を見て回る内に時任の持つ皿には更に馬肉の腸詰と乳酪の付いた蒸包子、羊の串焼きが山と追加された。
「一本食っていい?」
 旅寓へ戻るのが待ち切れず、時任は久保田に伺いを立てる。
「いいよ」
久保田が首肯するや否や、肉汁滴る羊肉に齧り付く。焼き立ての肉は柔らかく、孜然の風味が口内に遍く広がって鼻に抜ける。
「うめー」
「良かったね」
 目を細め、心底幸福そうに肉を頬張る時任を見る久保田の眼差しは、零下の砂海にて温かな焚火を眺める過客のものに酷似していた。輓近はその様な眼差しで時任を見詰めている事が多かった。
「久保ちゃん……」
 串を皿に置き、矢庭に時任は久保田の外衣を掴んだ。上目遣いに久保田を見上げ、彼にしては遠慮がちに伺う。
「……西瓜も買っていい?」
 既に買い求めた食糧は二人分としても充分以上、焼飯も平麺麭も久保田が持ってやっているような有様だったが、久保田は笑って点頭した。
「いくらでも仰せのままに、王子様」
「馬鹿な冗談はやめろよ」
 時任がさっと顔色を変える。
 王族は畏く貴い、世の下衆とは交わらざる不可侵の存在とされている。この様な人混みで奴隷を戯れと雖も王子様等と呼び、それが官吏の耳にでも入れば癲狂でない限り只では済まぬ。
 だが久保田は気に留める様子もなく、存外摯実に言う。
「冗談じゃないけど。俺にとっては」
「ばーか」
 時任は呆れた様に肩を竦め、憎まれ口を叩く。
時任の悪態にまた笑い、久保田は淀みない動作で左肘の下から背後へと銃口を向けた。その自然な所作に時任と背後の男以外の群衆はその凶器に気付かない。後方に立つ人物は動揺した風もなく、苦笑を乗せて久保田に声を掛けた。
「下ろせって久保田」
「相浦」
 歩みを止め、背後を顧みた久保田は男の名を呼んだ。
「よッ! いやー探し出すのに苦労したぜぇ」
代赭色の外衣を纏った小柄な男が、親しげに笑う。
「そりゃご苦労様」
「……久保ちゃん、誰」
 形だけの労いの言葉を口にして銃を仕舞った久保田に、時任は渋面を作り、低い声でそう問い掛けた。
 一見すると不機嫌そうなそれが時任の緊張の表れであることに、今猶彼の右手が外衣を掴んだままであることから看取し、久保田は安心させるかの如く時任の肩を抱いた。
「俺は情報屋兼周旋屋の相浦。久保田の仕事仲間……かな?」
 自ら名乗った相浦に久保田は時任を紹介する。
「こっちは時任。うちの猫」
「猫じゃねぇっつーの!」
 戯れる様な二人の掛け合いを眺める相浦の胸中は、喫驚に満ちていた。無論、外衣の際から見え隠れする頸輪を観取しては居たが、相浦にとって時任が奴隷であるという事は一驚に値するような事ではなく、彼の吃驚はもっと単純な事実に所以していた。
 久保田と云う男は、己自身を含めあらゆることに執着せず、また牢乎たる牆壁で以て己の疆域に他人が立入ることも拒絶していた。凍えそうな深潭の中に一人佇みながら、己が飢餓の猛りを只傍観していた。相浦や他の同輩はそんな彼を憂慮し、半ば諦観していた。
 しかし今、眼前にて連れ合いとして紹介した青年を見る久保田の眼差しは熱を含み、明白に彼を求めていた。国を出、賞金稼ぎとして各地を彷徨う様な久保田の旅に意味はあったのかもしれないと、相浦は胸懐にて思う。
 時任が奴隷であることに対し相浦が侮蔑と嫌厭の情を抱かなかったのは、久保田と同じ理由に依る。
「で、用件は?」
「冷てーなぁ、数ヵ月ぶりに会うダチだろ。久闊を叙そうぜ」
「そんなに久しぶりだっけ?」
「お前な……」
 惚けた久保田の態度に肩を落としたものの、直ぐに気を取り直して笑みを浮かべ、こう言い放った。
「仕事だ」

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目を開ける。
 天蓋。天井。敷布。窓掛け。壁掛け。絨緞。その全てが赤い。どちらを向いても滴るような真紅。己の体を覆う衣服も赤。赤い服を纏い、赤い部屋で、赤い寝台に横臥している。
 視覚を抉る暴力的な深紅に脳の奥が軋む。
 思わず目を覆う。閉ざされた視界の代わりに外界の音を拾ったのは聴覚。寝台の軋む音。思わず瞼を開いてそちらを振り向く。こちらに手を伸ばすのは赤い服を纏った男。その顔はどこか懐かしいような、全く知らないような、その感覚が酷く隔靴掻痒で。
 視界が更なる赤に覆われる。
 赤い寝台。赤い部屋。赤い空間。赤い世界。

 俺の、世界。
 ……だから、赤は、嫌いなんだ。

 

「起きて、時任」
「……んぁ……」
 耳元で響く低い声に、愚図る様な声を上げる。睡魔に揺蕩う意識は、眼瞼を上げて目覚めることを強固に拒んだ。夢の残滓がちらつく。想起されるのは深紅と、その鮮烈な色への忌諱の感情のみであったが。予てより幾度も覚えのある感覚だ、今更気にもならぬ。
 睡魔が引くにつれ相対的に目蓋に掛かる重力は軽減していき、薄く目を開く。思いの外久保田の顔が間近にあり、時任は一驚にぱちりと大きく目を見開いた。
「おはよう」
 睫毛が触れ合う様な距離で暫しお互いの眸子に見入る。常住硝子に隔てられている虹彩と瞳孔が剥き出しで此方を向き、その中に浮揚しては沈降する何かを追う様に熱を込めて覗き込む。ふと久保田の笑う気振りを感じ、時任は我に返った。
「……何」
「何でもないよ」
「……いい加減離せよ」
 久保田の腕の中で身動ぎする。裸出した肌が擦れ合った。
「何で?」
「何でって……」
 そう問われ、言葉に詰まる。確かに久保田には時任を腕の中から解放する理合はないのだろう。だが、情事後の余韻すら疾くに消散した朝旦の陽光射し込む部屋の中、触れる体温は居心地悪く、優しく懐抱する腕にもまだ慣れてはおらず、只目を伏せた。
「夜はあんなに情熱的に絡みついて来た癖に」
「ばッ……いちいちそういう事言うなッ!」
 掛けられた言葉に憤慨し、その胸元を強く押すとあっさり解放された。
上体を起こし久保田を睨む時任の頬を紅潮させている感情は、瞋恚よりも羞恥が占めているようだった。
「服着るッ!」
 久保田に裸の背を向け、臥榻の下、乱雑に脱ぎ捨てられた衣の中から己の下穿と緋の衣を探して身に着ける。
「別にねぇ……今更?」
「今更言うなッ! てか見るなよッ!」
 肩越しに着衣する手元を覗き込むと頭を叩かれ、久保田は苦笑して時任から目線を外し、土煉瓦の壁の方を向く。
 昨夜、共だって寝台に入り、衣を肌蹴させ久保田の男根に手を伸ばして来たのは時任の方だった。扇情的な振舞いに聊かも羞恥を見せず、其れ処か挑発的に笑ってさえいた。
昼夜で皆色異なる面様を時任は見せる。何れが彼の正真か等、己には看取出来ぬだろうと久保田は考えていたが、それでも照れた顔が素の彼の姿である様に思えた。
「お前も服着ろよ……」
 着衣の素振りを見せぬ久保田に、時任は呆れた声音でそう言い眉宇を顰めた。
「いいんでない? 俺とお前しかいないんだし」
「そーゆー問題じゃねぇだろ……」
「ま、それよりもさ」
 衣服ではなく臥榻の側の卓子に手を伸ばし、荷から烟草の入った布袋と丸められた犢皮紙を取り出す。
「今更だけど、今後の行先について聞きたくない?」
 そう借問され、時任はぱちりと一つ瞬いた。
久保田と旅路を歩み、幾週間は経とうか。しかし、久保田が何を目的とし何処へ行こうとしているのか時任は知らなかった。久保田が口に上らせなかったが故に、そしてそもそも国名や地名を聞いた所で何一つ分からぬが故に。時任は己が今居る国の名すら知らぬ。性奴に知性を必要とする主など在る筈もない。地下の施錠された房室で時任が教え込まれたのは性技と恥辱のみだ。
主の途方等、従僕が知ったところで何の意味もない。だが、時任は首肯した。
「……聞きたい」
 久保田は微笑を浮かべると、銜えた煙草に火を付け乍ら、片手て犢皮紙を広げた。それに描出されていたのは一帯の地理地形が描き記された輿図だった。
「ここが今居る『轢氏』ね。俺達が向かってるのは『絢炎』」
 久保田の指が粗い紙面上を右から左、東から西に滑る。
 寝台に横臥し頬杖を付いて、時任は久保田の指の動きに見入り、久保田の声に耳を傾けた。
「絢炎で仕事頼まれてて。それ終った後、どうするかは考えてないんだけどねぇ」
「何でこっち通らねぇの?」
 時任は浮揚した疑問を口にする。地図上には『轢氏』と『絢炎』に囲繞される如く小さな三つの国が描かれており、久保田が指し示した経路はその三国を避ける様に『轢氏』内の国境沿いを大きく迂回していた。
「そっちの三国は同盟国じゃないから。関所の検問が厳しくて無理かな」
「同盟国?」
 鸚鵡返しに問う。疑問を抱いた事柄は何でも久保田に問うてくる時任の様子を胸懐にて可愛く思いながら、久保田は答えた。
「俺は流れ者だからあんま関係ないんだけどね。『轢氏』『萼厥』『緑青』『絢炎』の比較的大きな四国は貿易と、互いの牽制の為に同盟結んでいる。通れないのが『瑙螺』『零脱』『豼泪』の三国。こっちもこっちで同盟結んでて、近隣の強国『轢氏』とかとの均衡保ってる訳。だから、同盟を結んでいない国同士の行き来に関して検問も制限も厳しい」
「でも、久保ちゃん関係ないんだろ? 自分でそう言ってんじゃん」
「まぁ、俺は」
 久保田は言明を避け、含んだ言様をした。
「……俺か」
 上体を起こし、時任は小さく呟いた。
 久保田は敢えて淡々と事由を伝えた。
「奴隷って平時下は労働力になり、戦時下は戦力となる、つまり重要な国力じゃない。だから、特に厳しく制限されてるんだよねぇ」
「……そっか。わり」
 伏し目がちに時任は詫びの言葉を口にした。その謝罪には単純に久保田をさせている事だけではなく、もっと別の趣意があった。
常並の奴隷であれば、主人のあらゆる雑事をこなす程度の伎倆を保持している。だが、主に閨にて奉仕することを役儀とする性奴として閨房術こそ会得すれども、己が起居の世話すら他の奴隷に託していた身に、旅中の主の世話等何をすれば良いのか見当すら付かぬ。精々荷運びの加功だが、担う荷は久保田の方が多い程だ。
畢竟、時任を伴にする事は、性欲処理が手軽にできる程度の利しか久保田にはないと言っても良く、況してや遠回りが生じるのであればその程度の利はないも同然だ、そう時任は見做していた。
「謝らないでよ」
 煙草を灰皿に押付けると、久保田は左手で時任の頬辺に触れた。
「俺、関所嫌いだしね。面倒臭い関所を何度も通るよりは、多少遠回りでも一回で済む方が良いから」
 指の背で輪郭を鷹揚になぞり、顎の下を猫の子にする様に掻い撫でると、擽ったそうに笑って時任は顎を引いた。しかし、逃げた体を久保田は引き寄せ右手を後頭部に回すと、唇の柔い感触を確かめる様に薄い粘膜を何度も擦り合せる。
それに応じた時任は、久保田の唇を舌先で舐り、薄く開いた釁隙から差込んだ舌と舌を絡ませて唾液と共に吸った。水音が生々しく響き、口腔の熱さと粘膜接触の刺激は快楽を媒体として、物質という外殻を纏ったままでの一体感を煽る。お互いの舌を吸い、絡め、愛撫することに傾注すれば芯の火照りは抜き差しならぬ程に高まり、唇を離した久保田は時任の顔中に口付けを落としながら、彼が先刻身に着けたばかりの衣に手を掛け、紐を解いてゆく。
「今日は市場連れてってくれるって言ってたじゃん」
 悪戯っぽく笑いながら久保田を譴責する様な事を言う時任に、口付けで応える。耳朶を舐り甘く囁いて、その先は言葉を必要とせぬ行為を続けた。
「後で、ね」
臥榻の下に落下し、最早見向きもされぬ犢皮紙の輿図上、『萼厥』と『絢炎』の東に隣接する国が描かれていた。
その国は『轢氏』『萼厥』『緑青』『絢炎』の同盟四国全ての面積を合わせたのと同等の強大な国土を持ち、建国以来他国の侵略を許さぬ苛烈で精鋭無比の軍隊を持ち、肥沃な大地と豊富な水源、殷賑な貿易にて富める国帑を持つ、諸国で唯一の奴隷制を布かぬ大国、名を『朔辰』という。
『朔辰』について、久保田は意図的に口にしなかった。

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「さて……」
 硝煙の臭いが鼻に付き、反射の様に懐の煙草に手を伸ばす。だが、一服にはまだ早い。
月影に淡く浮かぶ曠野に臥すのは疾うに死歿した屍の群れだ。全部で四体、銃痕と弾け飛んだ血肉、脳漿を外気に曝している。
そして、腹部に風穴を開け血に塗れながらも、辛くも呼吸をしている男が一人。だが、これから行われることを彼が事前に感知していたなら、己の禍患を悲歎する余り、呼吸を止めていたかもしれぬ。
「心当たりは幾らでもあるんだけど、だからこそ理由を聞いておかないとねぇ」
 久保田の口調は飄々としており、殺伐さはなく暢気ですらある。故に、方今男は骨の髄まで恐怖に震え上っていることだろう。黒衣のこの男が飄々とした風情のまま転瞬の間に兇手を肉塊に変えたのは、つい先刻だ。
「何で俺を狙った?」
 そう問うて、久保田は烟草の代わりに取り出した短剣を男の右手の甲に突き立てた。襲う鋭利で勁烈な痛みに引攣しながらも、男は悲鳴を堪えた。
 だが無論、久保田の暴力はそれで終いではない。
「俺の名前、知ってる?」
 知らぬ事など尋ねずとも了知していた。久保田の名を知っていれば、この程度の人数で挑むことが如何に無謀で自殺に等しい愚挙だということが言うまでもなく理解できていたであろう。
「誰の差し金?」
 短剣の柄に足を乗せ、ゆっくりと前後に揺動させながら体重を掛ける。男の手の皮、肉、筋を激痛と共に切り裂きながら短剣が砂の大地に沈んでいく。絶叫が男の口から奔波となる。だが、口を割る素振りは見せなかった。
「俺、早く戻りたいんだけど」
 久保田の声色は苛立ちを包含してはいなかった。相変わらずの気散じな暢気極まる調子で、男の左手に向けて黒い拳銃の引金を引いた。耳を劈く銃声と同時に男の左腕が肘から吹飛んだ。激痛と呼ぶには生易しい痛苦に男は我にもなく叫喚する。涙と涎を垂れ流してのたうち、久保田の銃口が己の右足に向けられているのを見るや到頭口を開いた。
「あッ……あの奴隷を、連れ、戻せ……と……ッ!」
「……時任を?」
 久保田は明瞭に分かる程、声調を低くした。それは久保田がこの場で初めて見せた感情の片影だった。
「何で?」
「知らねぇッ! 俺は、ただッ……」
「だろうねぇ」
 ここ迄拷訊し、最早虚言を弄する事等できぬだろう。久保田は男の眉間を撃抜いた。また、硝煙の臭いが鼻に付く。
 月下、骸ばかりの酸鼻の地で一人、久保田は思議する。時任奪掠の過程として久保田の命を狙ったのであれば、本来の目的は陽動の可能性もある。時任の元へも追手の手が伸びているのであれば、寸刻の間も惜しい。だが久保田は殺めたばかりの兇手の右手から短剣を抜取ると、死身の前に屈み込んだ。
 眼球を抉り取り、鼻と耳を削ぐ。舌を根元から切り離し、刮いだそれらを纏めて口の中に詰込む。両手両足の爪は一つ残らず剥ぎ取り、肩から指先までの骨を徹底的に粉砕した。そして腹を裂き、中の臓物を全て引き摺り出す。
 砂漠の乾燥した空気が血の温さを感じる程、辺りに充満する尋常ならざる死臭。
 久保田が機械的な作業を終えた頃には、その赤黒い肉塊は人の形をしてはいなかった。久保田は、死体の冒涜的破壊行為を終えると、体液で汚れた指先を濡らした手巾で拭い、手巾を捨てその場を後にする。
久保田のその作業に憎悪や忿懣、快楽等の情感が伴っていた訳ではない。切断した首に防腐処置を施すのと同様、必要な作業だったというだけだ。刺客の屍骸への、人の形を留めぬ程の徹底的な破壊が。
この残骸を見るであろう彼らの主が、久保田の縄張りに手を出そうと努々思わぬ様に。
「確かに、売れないって言葉は本当だったのかもなぁ」
 兇手は全て首に鉄輪を嵌めていた。蓋しあの売春窟の主が擁する奴隷だったのだろう。
 久保田が売春窟の主に支辨した対価は充分であり、取引は至当だった。久保田の二つ名を知っていたのだ、危険性も認識していただろう。それにも関わらずあの男は、久保田を敵に回し法を犯してまで時任強奪を選んだ。
「傾国の何とやら、か」
 久保田は独り言ち、足を速めた。一度対峙し、尠少ながらも拳を交えた故に時任の強さは了知していたが、追手が如何なる手段を取るか分からぬ以上、既に捕縛されているやもしれぬ。
 だが、久保田は然程焦慮してはいなかった。仮令時任が既に捕縛済みだとしても、駱駝や馬の気配はなかった為、移送は人の手と足に依るだろう。人の速度なれば追付くのは軽易だ。逃す程、甘くはない。奪掠された猫を追う、その程度の執着心は既に自覚していた。
荒涼の丘の影に見た光景は、久保田が予期したものではなかった。
立っているのは時任一人だ。だが、淡い月影の中、遠目にも瞭然な程、彼の白い肌は赤黒く汚れていた。心臓が焦燥に一際強く拍動する。我にもなく駆け寄った久保田が見たのは、咽喉を裂かれ絶命した骸と、切裂かれた罔罟と、漆黒の短剣を右手に握り全身を返り血で染做した時任の姿だった。
久保田に気付き、ゆっくりと振向いた瞳子の中に炎の紅を見る。久保田が彼に聯想したのはその赤であり、紅血の赤ではない。しかし今時任を染めるこれもまた彼の色だった。
「ちゃんとお前の縄張り守ってやったぜ」
 月明に照らされ彼は確かに笑っていた。
「……久保ちゃん」
 久保田の翹望した、衣を一枚脱ぎ捨てた時任の姿がそこには在った。

 

何故、売春窟の主人がそれ程まで時任に固執したのか。久保田はそれを潜考しなかった。久保田にとって彼が特別であったが為に、そして誰よりも久保田自身が彼に固執していた為に、他者にとって彼がそうであろうとも不思議には思わなかった。
彼が特別な理由。
久保田がそれを既知であったなら、この旅はもっと別のものとなっていただろう。

 

天蠍の紅い心臓が、二人と、数多の屍を見下ろし、笑った。

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同盟国大法より。
『奴婢永代隷属法』:奴隷とし生まれし者、奴隷に転じたる者は、永代、上位階級(奴隷階級以外の全階級)に隷属する。この法律は、同盟国の支配階級(王族・貴族)以外の全ての民に適用される。

 

 時任は膝を抱えて座り、空漠と広がる夜空を一人眺めていた。既に体は湖水で清め、着衣もしている。倦怠感だけが情事の残り香として纏わり付いている。
 不寝番をしている訳ではなかった。久保田は、不寝番は要らないと言った。そして横臥し、腕の中に時任を抱き込んだ。事後の一人寝に慣れ切った時任に懐抱の温もりは居心地が悪いものでしかなく、そして妙に涙腺を刺激した。久保田の寝息が落ち着いたのを見計らい、時任はそこから抜出した。
 鏤めた宝石の如く瞬き煌く星々。その中でも一際眩く紅い星芒を見詰め続ける。
 流涕する己など許せぬ。流涕は己と世界への敗北に等しい。しかし堪えられぬ時は顔を上げ、天を振り仰いだ。
 洞の底から見上げても星など見えやしなかったけれど。
 嗚呼、しかしあの時も。
「眠れない?」
 不意に傍らから声を掛けられ、時任はそちらに顔を向けた。
「……起きてたのか」
 腕を枕にし、久保田は時任の方を見ていた。声遣から今寝醒めた訳ではない様だった。
「寒くない?」
「別に」
 手近にあった小枝を焚火に投入れる。体温を奪う静謐な夜の帳も、燃え盛る炎の傍近には寄ろうとしない。ぱちぱちと火中にて小枝が罅ぜる音と烟る臭いが闇の中漂い、二人の間を沈黙が臥す。
 須臾、焔に照らされる横顔を眺めていた久保田は静かに名前を呼んだ。
「時任」
「なんだよ」
「とーきーとー」
「だからなんだよ」
 気の抜けた呼び方をされ乱暴に久保田を振り返った時任は、存外摯実な眼差しと交錯し、怯んだ様に目を瞬かせた。
「いい加減、名前呼んでくれないかなぁ」
「……」
 口付けの最中にもそう言われた。何を酔狂なと、時任は本気にしていなかったが、こうして蒸し返すということは単なる睦言ではなかったということだろう。
「命令じゃなくて、お願いなんだけど」
 何も言えず俯いた時任に、久保田は幾許か視線を和らげる。
「お願いされるのは嫌い?」
 好きも嫌いもない。命令以外、下付されなかった。況してや主の名前を呼び捨てにする様に等と。
「……呼び難い」
「そっか」
 どこか決まり悪げな様子に、久保田は微笑を浮かべた。
「じゃあ呼び易い名前、考えて」
 無頓着にそう言い放った久保田を、時任は不可解な物を見るかの如き目で見た。
「……」
時任は久保田を信じていなかった。時任を対等に扱おうという態度を見せるが、畢竟上辺だけのものだろうと。だが、言動のみならずそれらに包含される熱や色と云った一切が、余りに久保田は他と違った。
真実、異なるのではないかと、信じてしまいそうになる。
「なんで……あんた、そんな風なんだ」
「そんな風って?」
 久保田は笑い、体を起こすと時任の前に蹲む。炎の温もりを感じる頬に手を当てると、ゆっくりと掻撫でた。狷介固陋な心を解き解そうとするかの如く。通俗的な情愛を模倣する様に。
「優しくされるの、怖い?」
 時任は首を横に振った。しかし久保田には、事実そうであったとしても、時任が己の鬼胎を容易には諾わぬだろうことが看取できた。そして、時任が頑迷な態度を見せる度、旅人に焦れる太陽の如く分厚く着込んだ衣を情愛の熱で全て脱がせてしまいたいという思いに駆られた。
「ご主人様と奴隷じゃつまらないでしょ。色んなお前が見てみたいだけ」
 頬を撫でていた手を項に回し、引き寄せる。
「奴隷の時任だけじゃなく、ね」
 真裸にしその素膚に触れる事を阻礙する最も分厚い衣は、時任の奴隷という身分であるという久保田の認識は、決して的外れな物ではなかった。しかし、久保田の言葉に黙然と瞼を閉じた時任が、敢えて嚥下した言葉までは看破できてはいなかった。
 奴隷じゃない俺なんて、どこにもいねえよ。
 唇が触れる寸前、二人は同一の方向に同時に目線をやった。粘つく視線と表皮を刺突する空気の源に。
 だが久保田はそのまま顔を寄せ口付けた。啄む様に甘露の唇を貪り細い首筋を舌でなぞって、そして睦言の様に耳元で囁いた。
「荷物お願い」
 体を離して素早く立上がると、時任から距離を取る。対手の視線と意識が全て己に向かったことを確認した久保田は、そのまま背を向けて黒闇の中へ駈出した。
「くぼ……ッ!」
 同時に不穏な気配が消散し、周囲の闇に静謐さが戻る。兇手は全て久保田を追躡したということだ。時任は逡巡する。久保田の後を追掛けたかったが、荷を託された以上、荷の警守こそが絶対の最優先事項。時任はその場の旅荷を掻き集めると、全て背負って久保田の消えた方へ向かった。荷は託されたが、待っていろと命じられた訳ではないのだ。
 久保田の真意が汲めぬほど浅慮ではない。時任は敢えてそれ目を背けた。
 刹那、猫の俊敏さで体を翻す。だがそれの対象範囲は広く、獲物の逃遁を許さなかった。投網に搦め捕られ、地面に引き倒される。纏わり付く罔罟から逃れようと踠く時任の身体に黒い影が馬乗りになって身動きを封じる。
「初めましてだな、時任」
 掛けられた言葉に抗拒を止め、顔を上げる。月影を背にした面貌に見覚えはない。しかし、その首に嵌る鈍色の鉄輪は嫌という程知っている。
 奴隷だ。
「お前は知らないだろうが、次の相手は俺だったんだ」
 何の相手か時任には直ぐに察せられた。
ほんの数日前までいた売春窟での話だ。ある客の男が居た。その男は夜伽の一環として、闘技場にて時任を拳闘士と剣戟させることを所望した。
時任を半ば隠秘する如く扱っていた売春窟の主をどう説服し、どう交渉したのか時任は知らぬ。
性奴隷が拳闘士の相手をさせられること自体は特別希覯なことではなかった。拳闘士もまた奴隷だ。性奴は剣を持ち、闘奴は素手で相対する。性奴は闘奴の殺傷を許可されているが、闘奴が性奴を損なえば、両腕を切落とされ生きたまま虎の餌食にされた。だが、非力な性奴が例え剣を持とうとも、日々死闘に生きる闘奴に打勝つ可能性など万に一つもなかった。組伏せられた性奴はその場で犯された。
 奴隷と奴隷の決闘。片や負ければ殺され、片や負ければ犯される。
身の丈の倍はあろうかという大男の浅黒い体に抑え付けられ、厭らしく弄られながら痴態を晒し、巨大な男根に貫かれ、身を裂く激痛に叫び、のた打ち回り、嬲られる。
気位高く振舞う時任が公衆の面前でその様に辱められる様は、さぞかし観衆と、客の男の下劣な興奮を煽ったに違いない。
だが時任は対敵した全ての闘奴を殺し、己の矜持を守った。
 時任は負けることが出来なかった。耐えられなかった。凌辱がではない、敗北がだ。敗北を堪忍すれば瀬戸際で守り抜いてきた柱石を喪失し、己がぐにゃりとした軟体動物の如き何かに成果てそうで恐ろしかった。
 闘奴相手に制勝することは決して生易しいことではなかったが、隙を突き卑怯な手練手管を弄する無様な勝利でも、それでも敗北と比すれば余程ましだった。
「戦っていれば、お前に殺されてたかもなぁ。でも、お互い素手でお前は網の中。こうなったらどうすることもできねぇだろ」
 幾人も仆し、その度に紅血を浴びた。血濡れた体を客の男は気が狂った様に抱いた。
――性奴の己が、己が矜持と身体の為に殺傷するなど本当に無意味で馬鹿馬鹿しいことだった。
「必ず無傷で連れて帰れと命じられた」
 時任の特別な待遇について、少なくともあの売春窟と闘技場の奴隷は遍く知っていたであろう。その時任が、性奴が、己の賤しい身体の為に同じ立場の奴隷を殺せば、湧起るのは苛辣な娼嫉と忌諱。惨酷な生に差異はないにも関わらず、同じ境遇同士の連帯感や共感の輪に時任は居なかった。
「でも、ご主人様はお前を連れ戻すのに手段は選ばなくていいとさ。それって何しても良いってことだよな」
 しかし、宿因に抗する如く剣を振るう姿に、欽慕を抱く者も中には居た。
「時任」
 名前を呼ばわる声は熱情を孕み、布越しに男の怒張した陰部を押し当てられる。
「ずっと見てた。お前が男共を殺すところ。次はきっと俺の番だろうって思いながらな。お前に殺される瞬間を何度も思い描いた」
 誰も彼も勝手な虚像を押付け、手前勝手に愛玩し、嫌厭し、讃仰し、淫情する。脱がすつもりで其実僻見の衣を着せている滑稽さ。主も奴隷もそれは何も変わらぬ。
「そんなお前がご主人様にはどんな色目使って腰振って善がってるんだろうって考えていつも抜いてた」
 久保田も例外ではない。きらきらと燦爛たる緋の衣をその手で着せておいて、そんな物は脱いでしまえと優しく諭しているのだ。その矛盾撞着に久保田は気付いていない。
 しかし、久保田の着せた緋の衣は心地良かった。
「それがまさかな、こんな機会が巡って来るなんてな」
 それが本当の己とは思えぬが、纏う内に己が身となるやもしれぬ。
 そんな風に思惟したのは初めてのことであった。
「人生、何があるかわかんねぇな」
 其れ迄、黙したまま独白を聞いていた時任は初めて口を開き、掠れた声でそう囁いた。
 その言葉をどう解釈したのか奴隷の男は口元を笑みの形に歪めると、上体を屈め、網越しに獲物の下半身を弄った。
「時任……ッ!」
 男の背後に視線を向ける。
初めて人を殺した時。
その頸動脈を細い刀剣で掻っ捌き、全身に熱く不快な血潮を浴びて立ち尽くした時。
嗚咽と込み上げる涙を噛み締め、堪え、振り仰ぎ、見開いた目に映ったのは、こんな星空だった。

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