目を開ける。
天蓋。天井。敷布。窓掛け。壁掛け。絨緞。その全てが赤い。どちらを向いても滴るような真紅。己の体を覆う衣服も赤。赤い服を纏い、赤い部屋で、赤い寝台に横臥している。
視覚を抉る暴力的な深紅に脳の奥が軋む。
思わず目を覆う。閉ざされた視界の代わりに外界の音を拾ったのは聴覚。寝台の軋む音。思わず瞼を開いてそちらを振り向く。こちらに手を伸ばすのは赤い服を纏った男。その顔はどこか懐かしいような、全く知らないような、その感覚が酷く隔靴掻痒で。
視界が更なる赤に覆われる。
赤い寝台。赤い部屋。赤い空間。赤い世界。
俺の、世界。
……だから、赤は、嫌いなんだ。
「起きて、時任」
「……んぁ……」
耳元で響く低い声に、愚図る様な声を上げる。睡魔に揺蕩う意識は、眼瞼を上げて目覚めることを強固に拒んだ。夢の残滓がちらつく。想起されるのは深紅と、その鮮烈な色への忌諱の感情のみであったが。予てより幾度も覚えのある感覚だ、今更気にもならぬ。
睡魔が引くにつれ相対的に目蓋に掛かる重力は軽減していき、薄く目を開く。思いの外久保田の顔が間近にあり、時任は一驚にぱちりと大きく目を見開いた。
「おはよう」
睫毛が触れ合う様な距離で暫しお互いの眸子に見入る。常住硝子に隔てられている虹彩と瞳孔が剥き出しで此方を向き、その中に浮揚しては沈降する何かを追う様に熱を込めて覗き込む。ふと久保田の笑う気振りを感じ、時任は我に返った。
「……何」
「何でもないよ」
「……いい加減離せよ」
久保田の腕の中で身動ぎする。裸出した肌が擦れ合った。
「何で?」
「何でって……」
そう問われ、言葉に詰まる。確かに久保田には時任を腕の中から解放する理合はないのだろう。だが、情事後の余韻すら疾くに消散した朝旦の陽光射し込む部屋の中、触れる体温は居心地悪く、優しく懐抱する腕にもまだ慣れてはおらず、只目を伏せた。
「夜はあんなに情熱的に絡みついて来た癖に」
「ばッ……いちいちそういう事言うなッ!」
掛けられた言葉に憤慨し、その胸元を強く押すとあっさり解放された。
上体を起こし久保田を睨む時任の頬を紅潮させている感情は、瞋恚よりも羞恥が占めているようだった。
「服着るッ!」
久保田に裸の背を向け、臥榻の下、乱雑に脱ぎ捨てられた衣の中から己の下穿と緋の衣を探して身に着ける。
「別にねぇ……今更?」
「今更言うなッ! てか見るなよッ!」
肩越しに着衣する手元を覗き込むと頭を叩かれ、久保田は苦笑して時任から目線を外し、土煉瓦の壁の方を向く。
昨夜、共だって寝台に入り、衣を肌蹴させ久保田の男根に手を伸ばして来たのは時任の方だった。扇情的な振舞いに聊かも羞恥を見せず、其れ処か挑発的に笑ってさえいた。
昼夜で皆色異なる面様を時任は見せる。何れが彼の正真か等、己には看取出来ぬだろうと久保田は考えていたが、それでも照れた顔が素の彼の姿である様に思えた。
「お前も服着ろよ……」
着衣の素振りを見せぬ久保田に、時任は呆れた声音でそう言い眉宇を顰めた。
「いいんでない? 俺とお前しかいないんだし」
「そーゆー問題じゃねぇだろ……」
「ま、それよりもさ」
衣服ではなく臥榻の側の卓子に手を伸ばし、荷から烟草の入った布袋と丸められた犢皮紙を取り出す。
「今更だけど、今後の行先について聞きたくない?」
そう借問され、時任はぱちりと一つ瞬いた。
久保田と旅路を歩み、幾週間は経とうか。しかし、久保田が何を目的とし何処へ行こうとしているのか時任は知らなかった。久保田が口に上らせなかったが故に、そしてそもそも国名や地名を聞いた所で何一つ分からぬが故に。時任は己が今居る国の名すら知らぬ。性奴に知性を必要とする主など在る筈もない。地下の施錠された房室で時任が教え込まれたのは性技と恥辱のみだ。
主の途方等、従僕が知ったところで何の意味もない。だが、時任は首肯した。
「……聞きたい」
久保田は微笑を浮かべると、銜えた煙草に火を付け乍ら、片手て犢皮紙を広げた。それに描出されていたのは一帯の地理地形が描き記された輿図だった。
「ここが今居る『轢氏』ね。俺達が向かってるのは『絢炎』」
久保田の指が粗い紙面上を右から左、東から西に滑る。
寝台に横臥し頬杖を付いて、時任は久保田の指の動きに見入り、久保田の声に耳を傾けた。
「絢炎で仕事頼まれてて。それ終った後、どうするかは考えてないんだけどねぇ」
「何でこっち通らねぇの?」
時任は浮揚した疑問を口にする。地図上には『轢氏』と『絢炎』に囲繞される如く小さな三つの国が描かれており、久保田が指し示した経路はその三国を避ける様に『轢氏』内の国境沿いを大きく迂回していた。
「そっちの三国は同盟国じゃないから。関所の検問が厳しくて無理かな」
「同盟国?」
鸚鵡返しに問う。疑問を抱いた事柄は何でも久保田に問うてくる時任の様子を胸懐にて可愛く思いながら、久保田は答えた。
「俺は流れ者だからあんま関係ないんだけどね。『轢氏』『萼厥』『緑青』『絢炎』の比較的大きな四国は貿易と、互いの牽制の為に同盟結んでいる。通れないのが『瑙螺』『零脱』『豼泪』の三国。こっちもこっちで同盟結んでて、近隣の強国『轢氏』とかとの均衡保ってる訳。だから、同盟を結んでいない国同士の行き来に関して検問も制限も厳しい」
「でも、久保ちゃん関係ないんだろ? 自分でそう言ってんじゃん」
「まぁ、俺は」
久保田は言明を避け、含んだ言様をした。
「……俺か」
上体を起こし、時任は小さく呟いた。
久保田は敢えて淡々と事由を伝えた。
「奴隷って平時下は労働力になり、戦時下は戦力となる、つまり重要な国力じゃない。だから、特に厳しく制限されてるんだよねぇ」
「……そっか。わり」
伏し目がちに時任は詫びの言葉を口にした。その謝罪には単純に久保田をさせている事だけではなく、もっと別の趣意があった。
常並の奴隷であれば、主人のあらゆる雑事をこなす程度の伎倆を保持している。だが、主に閨にて奉仕することを役儀とする性奴として閨房術こそ会得すれども、己が起居の世話すら他の奴隷に託していた身に、旅中の主の世話等何をすれば良いのか見当すら付かぬ。精々荷運びの加功だが、担う荷は久保田の方が多い程だ。
畢竟、時任を伴にする事は、性欲処理が手軽にできる程度の利しか久保田にはないと言っても良く、況してや遠回りが生じるのであればその程度の利はないも同然だ、そう時任は見做していた。
「謝らないでよ」
煙草を灰皿に押付けると、久保田は左手で時任の頬辺に触れた。
「俺、関所嫌いだしね。面倒臭い関所を何度も通るよりは、多少遠回りでも一回で済む方が良いから」
指の背で輪郭を鷹揚になぞり、顎の下を猫の子にする様に掻い撫でると、擽ったそうに笑って時任は顎を引いた。しかし、逃げた体を久保田は引き寄せ右手を後頭部に回すと、唇の柔い感触を確かめる様に薄い粘膜を何度も擦り合せる。
それに応じた時任は、久保田の唇を舌先で舐り、薄く開いた釁隙から差込んだ舌と舌を絡ませて唾液と共に吸った。水音が生々しく響き、口腔の熱さと粘膜接触の刺激は快楽を媒体として、物質という外殻を纏ったままでの一体感を煽る。お互いの舌を吸い、絡め、愛撫することに傾注すれば芯の火照りは抜き差しならぬ程に高まり、唇を離した久保田は時任の顔中に口付けを落としながら、彼が先刻身に着けたばかりの衣に手を掛け、紐を解いてゆく。
「今日は市場連れてってくれるって言ってたじゃん」
悪戯っぽく笑いながら久保田を譴責する様な事を言う時任に、口付けで応える。耳朶を舐り甘く囁いて、その先は言葉を必要とせぬ行為を続けた。
「後で、ね」
臥榻の下に落下し、最早見向きもされぬ犢皮紙の輿図上、『萼厥』と『絢炎』の東に隣接する国が描かれていた。
その国は『轢氏』『萼厥』『緑青』『絢炎』の同盟四国全ての面積を合わせたのと同等の強大な国土を持ち、建国以来他国の侵略を許さぬ苛烈で精鋭無比の軍隊を持ち、肥沃な大地と豊富な水源、殷賑な貿易にて富める国帑を持つ、諸国で唯一の奴隷制を布かぬ大国、名を『朔辰』という。
『朔辰』について、久保田は意図的に口にしなかった。