「さて……」
硝煙の臭いが鼻に付き、反射の様に懐の煙草に手を伸ばす。だが、一服にはまだ早い。
月影に淡く浮かぶ曠野に臥すのは疾うに死歿した屍の群れだ。全部で四体、銃痕と弾け飛んだ血肉、脳漿を外気に曝している。
そして、腹部に風穴を開け血に塗れながらも、辛くも呼吸をしている男が一人。だが、これから行われることを彼が事前に感知していたなら、己の禍患を悲歎する余り、呼吸を止めていたかもしれぬ。
「心当たりは幾らでもあるんだけど、だからこそ理由を聞いておかないとねぇ」
久保田の口調は飄々としており、殺伐さはなく暢気ですらある。故に、方今男は骨の髄まで恐怖に震え上っていることだろう。黒衣のこの男が飄々とした風情のまま転瞬の間に兇手を肉塊に変えたのは、つい先刻だ。
「何で俺を狙った?」
そう問うて、久保田は烟草の代わりに取り出した短剣を男の右手の甲に突き立てた。襲う鋭利で勁烈な痛みに引攣しながらも、男は悲鳴を堪えた。
だが無論、久保田の暴力はそれで終いではない。
「俺の名前、知ってる?」
知らぬ事など尋ねずとも了知していた。久保田の名を知っていれば、この程度の人数で挑むことが如何に無謀で自殺に等しい愚挙だということが言うまでもなく理解できていたであろう。
「誰の差し金?」
短剣の柄に足を乗せ、ゆっくりと前後に揺動させながら体重を掛ける。男の手の皮、肉、筋を激痛と共に切り裂きながら短剣が砂の大地に沈んでいく。絶叫が男の口から奔波となる。だが、口を割る素振りは見せなかった。
「俺、早く戻りたいんだけど」
久保田の声色は苛立ちを包含してはいなかった。相変わらずの気散じな暢気極まる調子で、男の左手に向けて黒い拳銃の引金を引いた。耳を劈く銃声と同時に男の左腕が肘から吹飛んだ。激痛と呼ぶには生易しい痛苦に男は我にもなく叫喚する。涙と涎を垂れ流してのたうち、久保田の銃口が己の右足に向けられているのを見るや到頭口を開いた。
「あッ……あの奴隷を、連れ、戻せ……と……ッ!」
「……時任を?」
久保田は明瞭に分かる程、声調を低くした。それは久保田がこの場で初めて見せた感情の片影だった。
「何で?」
「知らねぇッ! 俺は、ただッ……」
「だろうねぇ」
ここ迄拷訊し、最早虚言を弄する事等できぬだろう。久保田は男の眉間を撃抜いた。また、硝煙の臭いが鼻に付く。
月下、骸ばかりの酸鼻の地で一人、久保田は思議する。時任奪掠の過程として久保田の命を狙ったのであれば、本来の目的は陽動の可能性もある。時任の元へも追手の手が伸びているのであれば、寸刻の間も惜しい。だが久保田は殺めたばかりの兇手の右手から短剣を抜取ると、死身の前に屈み込んだ。
眼球を抉り取り、鼻と耳を削ぐ。舌を根元から切り離し、刮いだそれらを纏めて口の中に詰込む。両手両足の爪は一つ残らず剥ぎ取り、肩から指先までの骨を徹底的に粉砕した。そして腹を裂き、中の臓物を全て引き摺り出す。
砂漠の乾燥した空気が血の温さを感じる程、辺りに充満する尋常ならざる死臭。
久保田が機械的な作業を終えた頃には、その赤黒い肉塊は人の形をしてはいなかった。久保田は、死体の冒涜的破壊行為を終えると、体液で汚れた指先を濡らした手巾で拭い、手巾を捨てその場を後にする。
久保田のその作業に憎悪や忿懣、快楽等の情感が伴っていた訳ではない。切断した首に防腐処置を施すのと同様、必要な作業だったというだけだ。刺客の屍骸への、人の形を留めぬ程の徹底的な破壊が。
この残骸を見るであろう彼らの主が、久保田の縄張りに手を出そうと努々思わぬ様に。
「確かに、売れないって言葉は本当だったのかもなぁ」
兇手は全て首に鉄輪を嵌めていた。蓋しあの売春窟の主が擁する奴隷だったのだろう。
久保田が売春窟の主に支辨した対価は充分であり、取引は至当だった。久保田の二つ名を知っていたのだ、危険性も認識していただろう。それにも関わらずあの男は、久保田を敵に回し法を犯してまで時任強奪を選んだ。
「傾国の何とやら、か」
久保田は独り言ち、足を速めた。一度対峙し、尠少ながらも拳を交えた故に時任の強さは了知していたが、追手が如何なる手段を取るか分からぬ以上、既に捕縛されているやもしれぬ。
だが、久保田は然程焦慮してはいなかった。仮令時任が既に捕縛済みだとしても、駱駝や馬の気配はなかった為、移送は人の手と足に依るだろう。人の速度なれば追付くのは軽易だ。逃す程、甘くはない。奪掠された猫を追う、その程度の執着心は既に自覚していた。
荒涼の丘の影に見た光景は、久保田が予期したものではなかった。
立っているのは時任一人だ。だが、淡い月影の中、遠目にも瞭然な程、彼の白い肌は赤黒く汚れていた。心臓が焦燥に一際強く拍動する。我にもなく駆け寄った久保田が見たのは、咽喉を裂かれ絶命した骸と、切裂かれた罔罟と、漆黒の短剣を右手に握り全身を返り血で染做した時任の姿だった。
久保田に気付き、ゆっくりと振向いた瞳子の中に炎の紅を見る。久保田が彼に聯想したのはその赤であり、紅血の赤ではない。しかし今時任を染めるこれもまた彼の色だった。
「ちゃんとお前の縄張り守ってやったぜ」
月明に照らされ彼は確かに笑っていた。
「……久保ちゃん」
久保田の翹望した、衣を一枚脱ぎ捨てた時任の姿がそこには在った。
何故、売春窟の主人がそれ程まで時任に固執したのか。久保田はそれを潜考しなかった。久保田にとって彼が特別であったが為に、そして誰よりも久保田自身が彼に固執していた為に、他者にとって彼がそうであろうとも不思議には思わなかった。
彼が特別な理由。
久保田がそれを既知であったなら、この旅はもっと別のものとなっていただろう。
天蠍の紅い心臓が、二人と、数多の屍を見下ろし、笑った。