時任可愛い
「でっけー市場! 人がすげぇ居んな、久保ちゃん」
「そーね」
時任の歓声に、久保田は相槌を打った。
眼前には見渡す限りの屋台が犇き合っており、その空隙を縫う様にして溢れんばかりの人間達が忙しなく動き回っている。
屋根には色取々の布帛が張られ、床店の主等が鬻ぐ物は寔に様々だ。
幾何学模様の刺繍が美しい衣装、金糸銀糸に飾り玉を商う店先では妻や娘への手土産を父親が物色し、壺屋では値切る客と店主との掛け合いが白熱している。
食糧を扱う床店が最も多く、香辛料、穀類、青果、干し肉干し魚等の原材料から、麺麭に汁物、串焼きや焼飯等の烹炊された物まで有りと有らゆる物が揃っていた。
何処かから生きたまま売られる鶏や羊の鳴声が客引きの呼声に混ざる。煮込まれた羊肉の羹から漂う芳香と、舞う埃の臭い。肌を打つ活気は是迄に訪れた町々とは比較にならぬ。
「首都が近いしね」
「へー」
久保田の言葉に上の空で頷き、群衆の中を目移りさせながら歩いてゆく。
「早く昼飯買おうぜ」
そうして時任が最初に強請ったのは、蒸した羊肉と野菜、米を炒めた焼飯だった。出来立てを皿に盛って渡される。刻んで混ぜ込まれた干杏子や干葡萄が湯気に乗って仄かに甘く香る。
次に立止まったのは平麺麭屋の前だった。店主が愛想良く笑い、割って見せた平麺麭の中には良く煮込まれた肉と野菜がぎっしり詰まっており、唾を飲込んだ。そんな久保田は一つ買い求める。そうして屋台を見て回る内に時任の持つ皿には更に馬肉の腸詰と乳酪の付いた蒸包子、羊の串焼きが山と追加された。
「一本食っていい?」
旅寓へ戻るのが待ち切れず、時任は久保田に伺いを立てる。
「いいよ」
久保田が首肯するや否や、肉汁滴る羊肉に齧り付く。焼き立ての肉は柔らかく、孜然の風味が口内に遍く広がって鼻に抜ける。
「うめー」
「良かったね」
目を細め、心底幸福そうに肉を頬張る時任を見る久保田の眼差しは、零下の砂海にて温かな焚火を眺める過客のものに酷似していた。輓近はその様な眼差しで時任を見詰めている事が多かった。
「久保ちゃん……」
串を皿に置き、矢庭に時任は久保田の外衣を掴んだ。上目遣いに久保田を見上げ、彼にしては遠慮がちに伺う。
「……西瓜も買っていい?」
既に買い求めた食糧は二人分としても充分以上、焼飯も平麺麭も久保田が持ってやっているような有様だったが、久保田は笑って点頭した。
「いくらでも仰せのままに、王子様」
「馬鹿な冗談はやめろよ」
時任がさっと顔色を変える。
王族は畏く貴い、世の下衆とは交わらざる不可侵の存在とされている。この様な人混みで奴隷を戯れと雖も王子様等と呼び、それが官吏の耳にでも入れば癲狂でない限り只では済まぬ。
だが久保田は気に留める様子もなく、存外摯実に言う。
「冗談じゃないけど。俺にとっては」
「ばーか」
時任は呆れた様に肩を竦め、憎まれ口を叩く。
時任の悪態にまた笑い、久保田は淀みない動作で左肘の下から背後へと銃口を向けた。その自然な所作に時任と背後の男以外の群衆はその凶器に気付かない。後方に立つ人物は動揺した風もなく、苦笑を乗せて久保田に声を掛けた。
「下ろせって久保田」
「相浦」
歩みを止め、背後を顧みた久保田は男の名を呼んだ。
「よッ! いやー探し出すのに苦労したぜぇ」
代赭色の外衣を纏った小柄な男が、親しげに笑う。
「そりゃご苦労様」
「……久保ちゃん、誰」
形だけの労いの言葉を口にして銃を仕舞った久保田に、時任は渋面を作り、低い声でそう問い掛けた。
一見すると不機嫌そうなそれが時任の緊張の表れであることに、今猶彼の右手が外衣を掴んだままであることから看取し、久保田は安心させるかの如く時任の肩を抱いた。
「俺は情報屋兼周旋屋の相浦。久保田の仕事仲間……かな?」
自ら名乗った相浦に久保田は時任を紹介する。
「こっちは時任。うちの猫」
「猫じゃねぇっつーの!」
戯れる様な二人の掛け合いを眺める相浦の胸中は、喫驚に満ちていた。無論、外衣の際から見え隠れする頸輪を観取しては居たが、相浦にとって時任が奴隷であるという事は一驚に値するような事ではなく、彼の吃驚はもっと単純な事実に所以していた。
久保田と云う男は、己自身を含めあらゆることに執着せず、また牢乎たる牆壁で以て己の疆域に他人が立入ることも拒絶していた。凍えそうな深潭の中に一人佇みながら、己が飢餓の猛りを只傍観していた。相浦や他の同輩はそんな彼を憂慮し、半ば諦観していた。
しかし今、眼前にて連れ合いとして紹介した青年を見る久保田の眼差しは熱を含み、明白に彼を求めていた。国を出、賞金稼ぎとして各地を彷徨う様な久保田の旅に意味はあったのかもしれないと、相浦は胸懐にて思う。
時任が奴隷であることに対し相浦が侮蔑と嫌厭の情を抱かなかったのは、久保田と同じ理由に依る。
「で、用件は?」
「冷てーなぁ、数ヵ月ぶりに会うダチだろ。久闊を叙そうぜ」
「そんなに久しぶりだっけ?」
「お前な……」
惚けた久保田の態度に肩を落としたものの、直ぐに気を取り直して笑みを浮かべ、こう言い放った。
「仕事だ」
「そーね」
時任の歓声に、久保田は相槌を打った。
眼前には見渡す限りの屋台が犇き合っており、その空隙を縫う様にして溢れんばかりの人間達が忙しなく動き回っている。
屋根には色取々の布帛が張られ、床店の主等が鬻ぐ物は寔に様々だ。
幾何学模様の刺繍が美しい衣装、金糸銀糸に飾り玉を商う店先では妻や娘への手土産を父親が物色し、壺屋では値切る客と店主との掛け合いが白熱している。
食糧を扱う床店が最も多く、香辛料、穀類、青果、干し肉干し魚等の原材料から、麺麭に汁物、串焼きや焼飯等の烹炊された物まで有りと有らゆる物が揃っていた。
何処かから生きたまま売られる鶏や羊の鳴声が客引きの呼声に混ざる。煮込まれた羊肉の羹から漂う芳香と、舞う埃の臭い。肌を打つ活気は是迄に訪れた町々とは比較にならぬ。
「首都が近いしね」
「へー」
久保田の言葉に上の空で頷き、群衆の中を目移りさせながら歩いてゆく。
「早く昼飯買おうぜ」
そうして時任が最初に強請ったのは、蒸した羊肉と野菜、米を炒めた焼飯だった。出来立てを皿に盛って渡される。刻んで混ぜ込まれた干杏子や干葡萄が湯気に乗って仄かに甘く香る。
次に立止まったのは平麺麭屋の前だった。店主が愛想良く笑い、割って見せた平麺麭の中には良く煮込まれた肉と野菜がぎっしり詰まっており、唾を飲込んだ。そんな久保田は一つ買い求める。そうして屋台を見て回る内に時任の持つ皿には更に馬肉の腸詰と乳酪の付いた蒸包子、羊の串焼きが山と追加された。
「一本食っていい?」
旅寓へ戻るのが待ち切れず、時任は久保田に伺いを立てる。
「いいよ」
久保田が首肯するや否や、肉汁滴る羊肉に齧り付く。焼き立ての肉は柔らかく、孜然の風味が口内に遍く広がって鼻に抜ける。
「うめー」
「良かったね」
目を細め、心底幸福そうに肉を頬張る時任を見る久保田の眼差しは、零下の砂海にて温かな焚火を眺める過客のものに酷似していた。輓近はその様な眼差しで時任を見詰めている事が多かった。
「久保ちゃん……」
串を皿に置き、矢庭に時任は久保田の外衣を掴んだ。上目遣いに久保田を見上げ、彼にしては遠慮がちに伺う。
「……西瓜も買っていい?」
既に買い求めた食糧は二人分としても充分以上、焼飯も平麺麭も久保田が持ってやっているような有様だったが、久保田は笑って点頭した。
「いくらでも仰せのままに、王子様」
「馬鹿な冗談はやめろよ」
時任がさっと顔色を変える。
王族は畏く貴い、世の下衆とは交わらざる不可侵の存在とされている。この様な人混みで奴隷を戯れと雖も王子様等と呼び、それが官吏の耳にでも入れば癲狂でない限り只では済まぬ。
だが久保田は気に留める様子もなく、存外摯実に言う。
「冗談じゃないけど。俺にとっては」
「ばーか」
時任は呆れた様に肩を竦め、憎まれ口を叩く。
時任の悪態にまた笑い、久保田は淀みない動作で左肘の下から背後へと銃口を向けた。その自然な所作に時任と背後の男以外の群衆はその凶器に気付かない。後方に立つ人物は動揺した風もなく、苦笑を乗せて久保田に声を掛けた。
「下ろせって久保田」
「相浦」
歩みを止め、背後を顧みた久保田は男の名を呼んだ。
「よッ! いやー探し出すのに苦労したぜぇ」
代赭色の外衣を纏った小柄な男が、親しげに笑う。
「そりゃご苦労様」
「……久保ちゃん、誰」
形だけの労いの言葉を口にして銃を仕舞った久保田に、時任は渋面を作り、低い声でそう問い掛けた。
一見すると不機嫌そうなそれが時任の緊張の表れであることに、今猶彼の右手が外衣を掴んだままであることから看取し、久保田は安心させるかの如く時任の肩を抱いた。
「俺は情報屋兼周旋屋の相浦。久保田の仕事仲間……かな?」
自ら名乗った相浦に久保田は時任を紹介する。
「こっちは時任。うちの猫」
「猫じゃねぇっつーの!」
戯れる様な二人の掛け合いを眺める相浦の胸中は、喫驚に満ちていた。無論、外衣の際から見え隠れする頸輪を観取しては居たが、相浦にとって時任が奴隷であるという事は一驚に値するような事ではなく、彼の吃驚はもっと単純な事実に所以していた。
久保田と云う男は、己自身を含めあらゆることに執着せず、また牢乎たる牆壁で以て己の疆域に他人が立入ることも拒絶していた。凍えそうな深潭の中に一人佇みながら、己が飢餓の猛りを只傍観していた。相浦や他の同輩はそんな彼を憂慮し、半ば諦観していた。
しかし今、眼前にて連れ合いとして紹介した青年を見る久保田の眼差しは熱を含み、明白に彼を求めていた。国を出、賞金稼ぎとして各地を彷徨う様な久保田の旅に意味はあったのかもしれないと、相浦は胸懐にて思う。
時任が奴隷であることに対し相浦が侮蔑と嫌厭の情を抱かなかったのは、久保田と同じ理由に依る。
「で、用件は?」
「冷てーなぁ、数ヵ月ぶりに会うダチだろ。久闊を叙そうぜ」
「そんなに久しぶりだっけ?」
「お前な……」
惚けた久保田の態度に肩を落としたものの、直ぐに気を取り直して笑みを浮かべ、こう言い放った。
「仕事だ」
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