同盟国大法より。
『奴婢永代隷属法』:奴隷とし生まれし者、奴隷に転じたる者は、永代、上位階級(奴隷階級以外の全階級)に隷属する。この法律は、同盟国の支配階級(王族・貴族)以外の全ての民に適用される。
時任は膝を抱えて座り、空漠と広がる夜空を一人眺めていた。既に体は湖水で清め、着衣もしている。倦怠感だけが情事の残り香として纏わり付いている。
不寝番をしている訳ではなかった。久保田は、不寝番は要らないと言った。そして横臥し、腕の中に時任を抱き込んだ。事後の一人寝に慣れ切った時任に懐抱の温もりは居心地が悪いものでしかなく、そして妙に涙腺を刺激した。久保田の寝息が落ち着いたのを見計らい、時任はそこから抜出した。
鏤めた宝石の如く瞬き煌く星々。その中でも一際眩く紅い星芒を見詰め続ける。
流涕する己など許せぬ。流涕は己と世界への敗北に等しい。しかし堪えられぬ時は顔を上げ、天を振り仰いだ。
洞の底から見上げても星など見えやしなかったけれど。
嗚呼、しかしあの時も。
「眠れない?」
不意に傍らから声を掛けられ、時任はそちらに顔を向けた。
「……起きてたのか」
腕を枕にし、久保田は時任の方を見ていた。声遣から今寝醒めた訳ではない様だった。
「寒くない?」
「別に」
手近にあった小枝を焚火に投入れる。体温を奪う静謐な夜の帳も、燃え盛る炎の傍近には寄ろうとしない。ぱちぱちと火中にて小枝が罅ぜる音と烟る臭いが闇の中漂い、二人の間を沈黙が臥す。
須臾、焔に照らされる横顔を眺めていた久保田は静かに名前を呼んだ。
「時任」
「なんだよ」
「とーきーとー」
「だからなんだよ」
気の抜けた呼び方をされ乱暴に久保田を振り返った時任は、存外摯実な眼差しと交錯し、怯んだ様に目を瞬かせた。
「いい加減、名前呼んでくれないかなぁ」
「……」
口付けの最中にもそう言われた。何を酔狂なと、時任は本気にしていなかったが、こうして蒸し返すということは単なる睦言ではなかったということだろう。
「命令じゃなくて、お願いなんだけど」
何も言えず俯いた時任に、久保田は幾許か視線を和らげる。
「お願いされるのは嫌い?」
好きも嫌いもない。命令以外、下付されなかった。況してや主の名前を呼び捨てにする様に等と。
「……呼び難い」
「そっか」
どこか決まり悪げな様子に、久保田は微笑を浮かべた。
「じゃあ呼び易い名前、考えて」
無頓着にそう言い放った久保田を、時任は不可解な物を見るかの如き目で見た。
「……」
時任は久保田を信じていなかった。時任を対等に扱おうという態度を見せるが、畢竟上辺だけのものだろうと。だが、言動のみならずそれらに包含される熱や色と云った一切が、余りに久保田は他と違った。
真実、異なるのではないかと、信じてしまいそうになる。
「なんで……あんた、そんな風なんだ」
「そんな風って?」
久保田は笑い、体を起こすと時任の前に蹲む。炎の温もりを感じる頬に手を当てると、ゆっくりと掻撫でた。狷介固陋な心を解き解そうとするかの如く。通俗的な情愛を模倣する様に。
「優しくされるの、怖い?」
時任は首を横に振った。しかし久保田には、事実そうであったとしても、時任が己の鬼胎を容易には諾わぬだろうことが看取できた。そして、時任が頑迷な態度を見せる度、旅人に焦れる太陽の如く分厚く着込んだ衣を情愛の熱で全て脱がせてしまいたいという思いに駆られた。
「ご主人様と奴隷じゃつまらないでしょ。色んなお前が見てみたいだけ」
頬を撫でていた手を項に回し、引き寄せる。
「奴隷の時任だけじゃなく、ね」
真裸にしその素膚に触れる事を阻礙する最も分厚い衣は、時任の奴隷という身分であるという久保田の認識は、決して的外れな物ではなかった。しかし、久保田の言葉に黙然と瞼を閉じた時任が、敢えて嚥下した言葉までは看破できてはいなかった。
奴隷じゃない俺なんて、どこにもいねえよ。
唇が触れる寸前、二人は同一の方向に同時に目線をやった。粘つく視線と表皮を刺突する空気の源に。
だが久保田はそのまま顔を寄せ口付けた。啄む様に甘露の唇を貪り細い首筋を舌でなぞって、そして睦言の様に耳元で囁いた。
「荷物お願い」
体を離して素早く立上がると、時任から距離を取る。対手の視線と意識が全て己に向かったことを確認した久保田は、そのまま背を向けて黒闇の中へ駈出した。
「くぼ……ッ!」
同時に不穏な気配が消散し、周囲の闇に静謐さが戻る。兇手は全て久保田を追躡したということだ。時任は逡巡する。久保田の後を追掛けたかったが、荷を託された以上、荷の警守こそが絶対の最優先事項。時任はその場の旅荷を掻き集めると、全て背負って久保田の消えた方へ向かった。荷は託されたが、待っていろと命じられた訳ではないのだ。
久保田の真意が汲めぬほど浅慮ではない。時任は敢えてそれ目を背けた。
刹那、猫の俊敏さで体を翻す。だがそれの対象範囲は広く、獲物の逃遁を許さなかった。投網に搦め捕られ、地面に引き倒される。纏わり付く罔罟から逃れようと踠く時任の身体に黒い影が馬乗りになって身動きを封じる。
「初めましてだな、時任」
掛けられた言葉に抗拒を止め、顔を上げる。月影を背にした面貌に見覚えはない。しかし、その首に嵌る鈍色の鉄輪は嫌という程知っている。
奴隷だ。
「お前は知らないだろうが、次の相手は俺だったんだ」
何の相手か時任には直ぐに察せられた。
ほんの数日前までいた売春窟での話だ。ある客の男が居た。その男は夜伽の一環として、闘技場にて時任を拳闘士と剣戟させることを所望した。
時任を半ば隠秘する如く扱っていた売春窟の主をどう説服し、どう交渉したのか時任は知らぬ。
性奴隷が拳闘士の相手をさせられること自体は特別希覯なことではなかった。拳闘士もまた奴隷だ。性奴は剣を持ち、闘奴は素手で相対する。性奴は闘奴の殺傷を許可されているが、闘奴が性奴を損なえば、両腕を切落とされ生きたまま虎の餌食にされた。だが、非力な性奴が例え剣を持とうとも、日々死闘に生きる闘奴に打勝つ可能性など万に一つもなかった。組伏せられた性奴はその場で犯された。
奴隷と奴隷の決闘。片や負ければ殺され、片や負ければ犯される。
身の丈の倍はあろうかという大男の浅黒い体に抑え付けられ、厭らしく弄られながら痴態を晒し、巨大な男根に貫かれ、身を裂く激痛に叫び、のた打ち回り、嬲られる。
気位高く振舞う時任が公衆の面前でその様に辱められる様は、さぞかし観衆と、客の男の下劣な興奮を煽ったに違いない。
だが時任は対敵した全ての闘奴を殺し、己の矜持を守った。
時任は負けることが出来なかった。耐えられなかった。凌辱がではない、敗北がだ。敗北を堪忍すれば瀬戸際で守り抜いてきた柱石を喪失し、己がぐにゃりとした軟体動物の如き何かに成果てそうで恐ろしかった。
闘奴相手に制勝することは決して生易しいことではなかったが、隙を突き卑怯な手練手管を弄する無様な勝利でも、それでも敗北と比すれば余程ましだった。
「戦っていれば、お前に殺されてたかもなぁ。でも、お互い素手でお前は網の中。こうなったらどうすることもできねぇだろ」
幾人も仆し、その度に紅血を浴びた。血濡れた体を客の男は気が狂った様に抱いた。
――性奴の己が、己が矜持と身体の為に殺傷するなど本当に無意味で馬鹿馬鹿しいことだった。
「必ず無傷で連れて帰れと命じられた」
時任の特別な待遇について、少なくともあの売春窟と闘技場の奴隷は遍く知っていたであろう。その時任が、性奴が、己の賤しい身体の為に同じ立場の奴隷を殺せば、湧起るのは苛辣な娼嫉と忌諱。惨酷な生に差異はないにも関わらず、同じ境遇同士の連帯感や共感の輪に時任は居なかった。
「でも、ご主人様はお前を連れ戻すのに手段は選ばなくていいとさ。それって何しても良いってことだよな」
しかし、宿因に抗する如く剣を振るう姿に、欽慕を抱く者も中には居た。
「時任」
名前を呼ばわる声は熱情を孕み、布越しに男の怒張した陰部を押し当てられる。
「ずっと見てた。お前が男共を殺すところ。次はきっと俺の番だろうって思いながらな。お前に殺される瞬間を何度も思い描いた」
誰も彼も勝手な虚像を押付け、手前勝手に愛玩し、嫌厭し、讃仰し、淫情する。脱がすつもりで其実僻見の衣を着せている滑稽さ。主も奴隷もそれは何も変わらぬ。
「そんなお前がご主人様にはどんな色目使って腰振って善がってるんだろうって考えていつも抜いてた」
久保田も例外ではない。きらきらと燦爛たる緋の衣をその手で着せておいて、そんな物は脱いでしまえと優しく諭しているのだ。その矛盾撞着に久保田は気付いていない。
しかし、久保田の着せた緋の衣は心地良かった。
「それがまさかな、こんな機会が巡って来るなんてな」
それが本当の己とは思えぬが、纏う内に己が身となるやもしれぬ。
そんな風に思惟したのは初めてのことであった。
「人生、何があるかわかんねぇな」
其れ迄、黙したまま独白を聞いていた時任は初めて口を開き、掠れた声でそう囁いた。
その言葉をどう解釈したのか奴隷の男は口元を笑みの形に歪めると、上体を屈め、網越しに獲物の下半身を弄った。
「時任……ッ!」
男の背後に視線を向ける。
初めて人を殺した時。
その頸動脈を細い刀剣で掻っ捌き、全身に熱く不快な血潮を浴びて立ち尽くした時。
嗚咽と込み上げる涙を噛み締め、堪え、振り仰ぎ、見開いた目に映ったのは、こんな星空だった。