時任可愛い
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ジープは花喃が雨の日に拾ってきた子犬である。
スピッツと柴犬のミックスで、真っ白な顔に愛嬌のある顔立ちをしている。
一家の主の承認を受け、立派な玄奘家の一員となっている。
餌やりと朝の散歩は花喃の担当、小屋掃除は悟浄、夕方の散歩は悟空の担当だ。
散歩のルートは決まっており、途中のコンビニで悟空は必ず肉まんを買い食いしている。
こんな時間の間食は夕飯に障りそうだが、彼の胃袋に限界はないようだった。
散歩には時任が付き合うことも多く、今日も一緒だ。
コンビニの前、肉まんに齧り付く悟空の隣でフランクフルトを齧っている。
その芳醇な香りにジープは鼻を鳴らした。
「ジープも食うか?」
「犬に人間の食いものあげちゃダメなんだって」
「そーなんだ。うまいのにな」
「なー」
食べ物を全て自らの胃の中に収めると、ごみをごみ箱に捨て、二人は歩き出した。
ジープも張り切って二人を先導する。
悟空がメロンパフェを祖父と食べにくる喫茶店、七五三の写真を撮った写真スタジオ、メンチカツを買い食いしている肉屋、祖母の行きつけだったらしいブティック、玄奘一家が大好物な寿司屋、仏花のセンスが良い花屋、祖父も認める和菓子屋。
見慣れた店が立ち並ぶ町内会を進んでいく。全て縄張りだ。そうジープは思っている。
通い慣れた道。いつもの道。
梅雨が明けたばかりの空気は夏の匂いを孕んでいる。
足裏のアスファルトの温度も温い。
もうすぐ夏が来る。ジープにとっては初めての夏だ。
ジープは嬉しくなってぴょんこぴょんこと跳び跳ねた。
「はしゃいでるな、ジープ」
「散歩好きなんだ」
ジープが急に立ち止まった。
二人が訝しく思う間もなく、初めは目眩かと思った揺れが段々と大きくなる。
「地しんだっ!」
頭を抱えてしゃがみこんだ。二人を守るように傍にピタリとジープが身を寄せる。
体感にして数秒。揺れは直ぐに収まった。
ほっと息を吐いた悟空の脳裏に、押し入れの中でパニックを起こして泣いた時任の姿が過る。
「時任、だいじょぶか!?」
「平気平気。ビックリしたな~」
あっけらかんと答えた時任に、悟空は恐る恐る問いかけた。
「……地しんはへーきなのか?」
時任のパニックの原因は、地震によって閉所に閉じ込められたことだと久保田は話した。
であれば、地震そのものもトラウマなのだろうと悟空は考えたのだ。
時任が被害にあったという、ここ十年で最悪の被害を出した直下型の地震は、震源地の都市を破壊し尽くし、死者は数千人を超えるといわれる。
震度7が適用された最初の事例と言われ、数多のビルが倒壊した揺れだ。
それを体験した恐怖は尋常なものではないだろう。
少しの揺れでフラッシュバックしてもおかしくない。
だが、平素の様子そのままの時任は大きな目をぱちぱちと瞬かせた。
「いや、ふつーにこえーけど、これくらいならだいじょーぶだろ」
不自然な態度の悟空に訝しげな視線を送る。
「そうじゃなくて……昔、おし入れでパニックになってたじゃん」
「そうだっけ……その時、くぼちゃんなんて言ってた?」
「地しんの時、とじこめられたからだろうって」
「あ~……」
時任が顔を伏せた。表情を隠すように。
「地しんのことは……覚えてねーから」
直ぐにぱっと顔を上げて歩き出す。慌てて悟空もジープを引っ張って歩き出した。
時任は悟空を振り返ると少し怒ったような表情を浮かべ、
「それより、おれがへいしょきょーふしょーなのバラすなよ!だっせーから」
「言わねーけど、おれ、あん時めっちゃビビったんだからな!」
翌日の時任は普段通りだったため悟空もそれに倣ったのだが、あのように泣かせてしまったことは悟空の心にずっと痼りを残していた。
二年も前の出来事をそれこそ、地震の揺れで直ぐに思い出す程に。
悟空の言葉に時任は、バツが悪そうに顔を逸らす。
「悪かったって。おれもあんななるとは思わなかったんだよ」
これ以上、言及して欲しくない空気を察して悟空は話題を変えた。
「もうすぐ、夏休みだな……」
「そうだな……」
「何する?」
「ゲームめっちゃする」
「それ、いつもじゃん」
「じーちゃんのふろそーじも手伝う」
「それもいつもじゃん」
「花火したりー夏祭り行ったりースイカとーアイスとーかき氷とー流しそーめんとー」
「食いもんじゃん!」
「楽しみだな~夏休み」
「そうだな」
「毎日遊ぼーな」
「あったり前だろ!プールも行こうぜ!あと、海!おれさま、つりしてみてぇ!」
「めっちゃいーじゃん!どっちがいっぱいつれるか勝負しようぜ!」
「いいぜ!ぜってぇ負けねぇかんな!」
まるで先ほどのことなど忘れたように、夏休みの計画について熱く議論を交わす。
引きずらないのが悟空と時任の良いところだった。
夏休みについて話す二人の顔を見ていると、ジープの心もワクワクと躍る。
心のままにぴょんこぴょんこと跳ねる。
夕日が小さな二人と一匹の影を長く長く伸ばした。
しかし、楽しい時間が終わるのはあっという間だ。
「じゃーな、また明日な!」
「おー、またな!」
彼らは銭湯の前で別れ、それぞれの家へと帰って行く。
遠ざかる背中に向かってジープはわんっ!と吠えた。

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その日は滅多に家に帰らない捲簾の大切な家族サービスの日だった。
悟空のリクエストでテーマパークに来ている。
「すみませんねぇ、親子水入らずを邪魔しちゃって」
入場口でゲートに通したチケットを懐にしまいながら、久保田は捲簾に声を掛けた。
悟空と時任は目当てのアトラクションに向かって走り出している。
園内は花が咲き乱れ、同じく遊園地をエンジョイする人々で賑わっていた。
空はからりと晴れ、絶好の行楽日和だ。
「いーや、気にしないでくれ。うちの子も時任君と一緒がいいって言ってるし」
捲簾は青空に負けない人の好い笑顔を浮かべて、久保田の肩を叩いた。
悟空と一緒に俺も遊園地に行きたいという時任の我が儘に端を発した久保田家の同行だったが、悟空も諸手を上げて賛成していたので、捲簾に否やがあろう筈がない。
「家族で遊園地って年でもねぇんだけど……」
唯一悟浄がこの場に居ることに不服顔だった。
今日何度目かの文句を零す。
「まぁいいじゃねぇか。滅多に来れないんだしよ。肩車でもしてやろうか?」
「いらねぇよ、クソ親父!」
「これが反抗期か……」
捲簾が泣き真似をすると、悟浄は露骨に嫌そうな顔をした。
「時任にも反抗期が来るのかなぁ」
二人のやり取りを眺めていた久保田はのほほんとそう零した。
一見平気そうな顔をしているが、久保田が子猫に対するが如く過保護に甘やかす様を傍で目撃している悟浄は、時任に反抗期なんて来たら久保田さんの心臓止まりそうだな、等と内心思う。
「息子の成長の証だぜ。楽しみましょうや」
「息子ね……」
その一言に妙な含みを感じて、捲簾が片眉を上げた。
しかし言及する前に、時任が大声で久保田を呼んだ。
「くぼちゃーん! 早くー!」
「はいはい、転ばないようにね」
最初に選んだアトラクションは、青空を背に鉄の蛇が蜷局を巻き、鉄の輪を幾つも作っている中々凶悪なジェットコースターだった。
「くぼちゃんはおれのとなりな」
「悟空くんと一緒じゃなくていいの?」
「くぼちゃんがこわくないように手をつないでないとだろ?」
要約すると、怖いから手を繋いでろ、だ。
「時任は優しいな~」
小さな手をぎゅっと握る。
「ごじょー、落ちるとき、バンザイしようぜ!」
「いーぜ、途中でビビッて止めんなよチビ猿」
「さるってゆーな!」
騒ぎながら乗り込み、思う存分振り回され、昇り、落ち、腹の底から悲鳴を上げる。
ジェットコースターを降りた先では写真を売っていた。
最初に落下した際に写真を撮られていたらしい。
モニターに映った自分たちの静止画を見て時任は吹き出した。
「ぎゃはははは!くぼちゃん、前がみ全部めくれてんじゃん!」
「お前もね」
時任が大笑いするのも無理はなかった。
普段と変わらない表情のまま微動だにせずに、前髪だけ全開にした久保田のその様は妙なユーモラスさを感じさせた為だ。
「ごじょー、ちょっとビビッてねぇ? バンザイなんかちっちぇし」
「ビビッてねぇよ! タイミングが合わなかっただけだ!」
「ははっ! これも思い出だな。写真買ってくか」
悟浄が止める間もなく二家族分の写真を素早く購入する。
「俺らの分まですみませんねぇ。ありがとうございます。」
「散々写真撮ってたじゃねーか。わざわざ買うなっつーの」
「こういうのは別だろ?」
しかし悟浄がそう言うのも無理はなかった。
遊園地に来る道中、そしてアトラクションの待ち時間で既に何十枚も捲簾は子供たちを激写している。
プロのカメラマンの腕を愛する息子の為だけに惜しみなく奮っていた。
対する久保田も素人ながらスマホでカメラを静かに連写している。
保護者は保護者としての楽しみを存分に満喫していた。
遊園地のキャラクター像が三体並んだフォトスポットを見つけ、捲簾が指さす。
「おっ、そこに三人で並べよ」
「まだ撮るのか……」
呆れたように溜息を吐きながらも悟浄は素直に従う。
その隣に悟空と時任が並んだ。
ハマっている戦隊のポーズをとる悟空と時任を、
「いーねいーね!」
等と褒めちぎりながらシャッターを切りまくる捲簾。
半分我を忘れていた。
そんな捲簾の肩を叩いたものがいた。
「お子さんと写真は如何ですか?」
振り返ると、着ぐるみのキャラクターとカメラを持ったスタッフが立っていた。
「おー、サンキューな」
深く考えず、三人に手招きする。
「カッコいいお父さんねぇ」
駆け寄ってきた時任にスタッフの女性が声を掛けた。
時任が捲簾の息子だと疑っていないようだった。
苦笑して、捲簾が訂正しようとする。
「いや、ち……」
「仲良し親子ですねぇ」
雷に打たれたように背中がびくりと強張った。
どっと汗が噴き出る。
戦場で銃口を向けられた時以来の冷や汗だった。
言葉の主は直ぐに分かったが、そちらに顔を向けることは何故か憚られた。
「いや、あんたらの方がな、めっちゃ親子だって、全然!」
しどろもどろに言い訳しながら横目で伺い見た久保田の顔は静かな笑顔を湛えていた。
……いや、怖ぇって。
二人のやり取りでスタッフは自らの誤りに気付いた。
親子には見えない久保田と時任を交互に見比べる。
「あら、ごめんなさい……」
「いえ」
短く応えを返した久保田は元の雰囲気に戻っていた。
時任が肘で悟空を突く。
「父ちゃんととってもらえよ」
「親父!」
「悟浄、悟空、一緒に撮ってもらうか」
着ぐるみの前にしゃがみ、捲簾が大きく手を広げる。
前に立った息子二人の肩に手を置く。
悟浄はそっぽを向き、悟空は満面の笑みを浮かべている。
完璧な親子の構図に見えた。
「おれたちもとってもらおーぜ」
「そうね」
入れ替わりに着ぐるみの前に立ち、時任は両手のピースを大きく掲げる。
久保田はその隣に立った。
「ハイチーズ」
フラッシュが光る。
スタッフからポロライドの写真を受け取った時任は満足げにそれ眺めると、久保田に手渡す。
「久保ちゃんもってて」
視線がつやつやとした紙の表面を滑る。
自嘲気に呟やかれたそれを捲簾は聞き逃さなかった。
「……似てないなぁ」
吐息に乗せた掠れた一言は、薫風に攫われすぐに掻き消える。
結局その後、ジェットコースターに五連続で攻めた辺りで捲簾が根を上げた。
「ちょっと休憩させてくれ、マジで……」
満身創痍でベンチにへたり込む。
時には戦場を駆け回る生活をしている捲簾は体力には自信があると自負していたが、育ち盛りの男子には完敗だった。
絶叫一択。
観覧車やメリーゴーランドなんて可愛らしいものには目もくれない。
最初は何のかんのと文句を言っていた悟浄も楽しんでいるようである。
まだまだ子供なのだ。
「子供は元気だ~」
「俺たちは年ですからねぇ」
「いや、あんたは若いだろ」
しかし、久保田の年齢を知っている訳ではなかった。
二十代だろうと思う。
だが、四十代と言われても違和感のない落ち着きがある。
隣近所になって何年も経ちこうやって家族ぐるみの付き合いをしているのに、依然として彼は謎の多い男だった。
「くぼちゃん、ポップコーン食いてぇ!」
「いいよ。買っておいで」
「おれもおれも!」
「買ってこい買ってこい。悟浄は?」
「俺はフランクフルト」
お小遣いを渡すと、彼らは大はしゃぎで買いに走った。
残された大人は揃って煙草を火を付ける。
暫く黙って煙を燻らせた後、捲簾は口を開いた。
「さっきは何か、悪かったな。もしかして地雷踏んじまった?」
捲簾は写真を見た時の久保田の表情が、零した言葉が気になっていた。
久保田は薄く笑う。
「うんにゃ、別に。俺は実際、時任の父親でも兄でもないですし」
ちょっと嫉妬しちゃいましたけどね。時任と家族に見られたことないんで。
冗談めかして言う久保田に違和感を覚える。
殆ど直観に近い。
だが言葉にするほど、久保田が時任の親に見られたいと思っているようには見えなかった。
「……なぁ、ホントはあんた、何になりたいんだ?」
まいったな、と捲簾は思う。
まさか平和な日本で地雷原を進むスリルを味わうことになるなど。
「そうだなぁ……恋人とか?」
何気ないように放たれた言葉に捲簾は噎せた。
息を整えながら真剣に、児相への通報案件かと思案する。
時任はまだ小学校四年生だ。
そういう扱いをしているなら虐待になる。
だが、仮にそうだとしたらこの場で馬鹿正直に匂わせるようなことを口にするだろうか?
それに、息子の悟空はほぼ毎日のように時任と一緒に過ごしていると言っている。
何かあれば敏い悟空が気付いているだろう。
今そうでないのなら、変に騒ぎ立てる必要はないと捲簾は判断した。
時任が成長した後、彼らがどのような関係を選ぶかは彼らの自由なのだから。
「……いいんじゃねーの。そりゃ、今どうこうなっちまったら犯罪だけど……あんた、あの子の父親でも兄でもないんだろ? 何にだってなれるさ」
捲簾の言葉は久保田にとって予期しないものだったようで、細い眼を少しだけ見開く。
咎められると思っていたのだろう。
あるいはそれを望んでいたのかもしれなかった。
「……そうかな、そうかもね」
顔を伏せ、長さの残る吸い殻を携帯灰皿に捻じ込む。
独り言ちるように、
「本当は何だっていいんですけどね、傍に居れるなら。でも、決めるのは時任だから」
どういう意味か捲簾が問おうとした時、キャラメルの甘い匂いと共に息子たちが駆け戻って来たため口を噤む。
子供たちの前でこの話題を続けることは憚られた。
大人たちの微妙な空気を他所に、時任はバケツのようなポップコーンバケットを抱えて得意そうにニコニコしている。
悟空は既にポップコーンで頬を一杯にしていた。猿ではなくて栗鼠だと隣の悟浄が視線で語っている。
「くぼちゃーん!ポップコーン食おーぜ!」
「はいはい」
「食い終わったらもう一回ジェットコースターな」
「仰せのままにー」
彼らのやり取りは保護者と庇護者のそれで、色を含んだ空気はない。
けれど、久保田が時任に向ける眼差しは、その対象が恋人だと言われても違和感がない程の甘さに満ちていた。
既視感がある。こういうのをなんというんだったか。
……ああ。
捲簾は青空を仰ぐと、ため息のような白い煙をぷかぁと吐き出した。
「光源氏計画か……」
「何言ってんだ親父」

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金蝉の定位置はダイニングか日本間の縁側で、大抵は、友達と遊ぶ孫を見ている。
亭主は家よりも銭湯に居る時間の方が長い。
長男も次男も跡を継がなかったので、三蔵が今でもずっと殆ど一人で切り盛りしている。
花喃はまだ学生の身であり、一手に引き受けた家事に手いっぱいで店を手伝う余裕はなかった。
長年従事してきた銭湯業のため今は一人で問題なさそうだが、年が年だけにいつ体が言うことを聞かなくなるかわからない。
特に腰が、最近湿布を貼る回数が増えてきたように思う。
三蔵の腰がイカれる前に良い跡取りでも見付かればいいのだが。
期待を込めてダイニングテーブルに座る小さな孫を見やる。
孫の悟空は、いつも遊んでいる隣の家の時任という子と、今日何をして遊ぶか相談していた。
二人とも体を動かすことが好きらしく、腕白で、走れば転び、木に登れば落ちるので金蝉は目が離せない。
真面目な顔で話し合い、二人の意見が妥結した時だった。
「たでーまー」
ランドセルを背負ったもう一人の孫、兄の悟浄が帰宅した。
今日の帰宅は随分と早い。
悟空と違い、悟浄は放課後にそのまま遊びに行ってしまうことが多い。
ダイニングを覗き込み、弟とその向かいに座る時任をちらりと見たが、特に何も言わない。
時任が家に居るのは既に日常と化しているので、最早「いらっしゃい」の一言もない。
そのまま二階の自分の部屋に向かおうとした兄に、悟空はおかえりと声を掛けた。
「ごじょーもかくれんぼする?」
悟空の提案に、悟浄は顔をしかめる。
「ガキの遊びにつきあうかよ」
素気無く断った。
天真爛漫で年相応の弟と比較して、悟浄は少々悪ぶったところがある。
悪い叔父の影響かもしれない。
祖父も決して柄が良い訳ではないのだが。
来年の中学デビューと同時に不良デビューもしそうなのが心配だった。
悟空は兄の素っ気ない態度に気にした風もなく、時任と顔を見合わせて肩を竦める。
「ごじょー、弱そうだもんな」
「だな」
「……その手にゃあ乗らないぞ」
年下コンビの息の合った挑発にピクリと眉を動かすも、ぐっと堪える。
しかし、悟空は更に畳み掛ける。
「しょっかく見えちゃうもんな」
「なー」
「触覚じゃねぇよ!」
長い癖毛を揺らして悟浄が抗議する。
長男のその特徴的な癖毛はある虫の触覚に似ているのだった。
今度はとりなすように時任が悟空に言葉を投げた。
「たまにはいっしょにごじょーと遊びたいよな、ごくー」
「うん」
思春期に差し掛かった兄があまり構ってくれなくなり、悟空が寂しく思っていることを時任は知っていた。
弟の愁傷な態度に思わずたじろぐが、
「たまにはだけどな」
あっけらかんと言い放たれ、悟浄はずっこけた。
ため息を吐き、前髪をかき上げる。
「……一回だけだぞ」
金蝉は微笑んだ。
何だかんだ面倒見の良い優しい子なのだ。
「やりぃ!ごじょーがオニな」
「へーへー」
ダイニングの床にランドセルを投げ捨てると、テーブルに顔を伏せる。
「数えるぞ。いーち、にー、さーん」
二人はバタバタと二階に上がると、一転、足音を立てないように注意しながら下りてくる。
音で攪乱させる作戦だろう。中々本気度が高い。金蝉は感心した。
悟空は隠れる場所を最初から決めていたようだった。
迷いなく和室に向かうと、押し入れを指した。
普段は布団がみっちりと詰まっていて隠れるスペースなどないが、今日布団は外に干している。
悟浄の盲点だと考えたのだろう。
そっと扉を開け、体を滑り込ませると時任を手招いた。
何故かそれに躊躇うような素振りを見せるも、大人しく悟空の隣にちんまりと座る。
悟空が扉を閉めた。
異変は、それから数秒後に起きた。
「うぁあああああ!!!!!!!!」
押し入れの奥から劈くような悲鳴が上がる。
「どうした!?」
血相を変えて部屋に飛び込んだ悟浄が見たのは、押し入れの前で呆然と立ち竦む弟と、蹲って震えながら泣く時任の姿だった。
「おし入れしめたら、ときとーが大きい声でさけんで……」
「押し入れを閉めただけ……?」
それにしては尋常な様子ではなかった。
何かから守るように体を丸め、頭を抱え、身を振り絞るようにわぁわぁと大声で泣いてる。
時任は幼いなりにプライドの高い少年だったので、泣くことだって滅多になかったのだ。
「待ってろ、久保田さん呼んでくる!」
飛び出した悟浄は、直ぐに久保田を伴って戻ってきた。
「時任」
久保田は時任を抱え上げ、ぎゅうと抱きしめた。
時任は泣き止まない。
頭をゆっくりと撫で、宥めるように背中をぽんぽんと叩く。
「……地震の日、狭くて暗いところに閉じ込められちゃってね。それでかな?」
隣の二人は、三年前の大地震で住む家がなくなって引っ越してきたのだと、祖父が言っていたことを思い出す。
時任の家族はその時に亡くなり、時任一人が生き残ったのだと。
耳元に唇を寄せ、つぶやくように久保田が囁いた。
「外だよ、時任」
泣き続ける時任には久保田の声も聞こえていないようだった。
「ごめんな、ときとー……」
「悟空くんもビックリしたよね、ごめんね?」
しょんぼりと謝る悟空に向き直り、久保田は微笑んだ。
その微笑が酷く疲れて見えて、悟浄はぎくりとした。
悟浄より圧倒的に大人である久保田が見た目以上に途方に暮れてるように見えたのだ。
あるいは三蔵なら適切なフォローができたのかもしれない。
だが、その場には年端もいかぬ子どもがいるだけだった。
「悟浄くんも呼びに来てくれてありがとう。今日はお暇するね。また明日遊んでやって」
時任を抱えたまま久保田は立ち上がると、軽く会釈をして部屋を出て行った。
泣き声が遠ざかり、消える。
後味の悪い静寂だけが残った。
「おれがおし入れにかくれようって言ったから……」
「しょげるなって」
見るからに気落ちした弟の頭を慰めるようにぽんぽんと叩いた。
「ゲームでもしようぜ」
覇気のない弟が見ていられないのだろう。
何だかんだ弟思いの優しい兄なのだ。
悟浄がゲーム機を引っ張り出してセッティングする。
最初は言葉少なだった悟空も、対戦が白熱するにつれて元の元気を取り戻していった。
金蝉はテレビゲームに興じる兄弟の背中を見守っている。



いつも見守っている。例え、声が届かなくとも。

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信人にとって、あまりマトモとは言えない職に就いてから疎遠な実家への、母親の葬式以来の帰省だった。
「ノブにぃだ~~!」
向日葵のような満開の笑顔で信人を迎えたのは、よちよち歩きをしていた頃から随分と大きくなった甥っ子だ。
その隣に立つ小柄な影を目にして、さしもの信人も驚愕した。
玄関先で立ち竦み、驚きの言葉を零す。
「甥っ子が増えてる……」
甥っ子は二人の筈だが、もう一人は悟空より四つほど年上で、髪も派手な赤色をしている。
今、悟空と並んで立っているのは悟空と同じくらいの男の子で髪も黒だ。
逃げようとする体を抱き上げ、まじまじと見つめた。
年の頃は悟空とさほど変わらない。
睫毛の長い勝ち気な目が捲簾に良く似ている。
兄嫁は悟空を産んですぐに亡くなっている為、後妻との子ということになる。
お互い家に根を張れない質のためすれ違うことも多く、何年もマトモに顔を会わせた覚えがない兄弟だが、再婚も甥の誕生も自分だけ知らされていないというのは存外ショックだった。
「兄貴も水臭いな……再婚したなら言ってくれりゃいいのに」
「やぁね、隣の子よ」
廊下の奥から顔を覗かせた妹の花喃が呆れたように笑う。
「隣……?」
「去年、越してきたの」
「なるほどな……」
三人目の甥っ子が自分の早とちりであったことを知って、信人は安堵した。
「悪かったな、名前は?」
ぶすっとした顔で、少年は名乗った。
「ときとー」
どうやら抱っこされたことがお気に召さないらしい。
猫か。
「ノブにぃ、ときとーはなせよー!」
子猿のような本物の甥っ子の方は、小さな足でけりけりと信人の脛を攻撃し始めた。
「悪い悪い。悟空も大きくなったな」
「ノブにぃもおっきくなったぜ!」
「ははっ、だといいがな」
時任を下すと、廊下の奥に素早くぴゃっと逃げられる。
警戒されてしまったらしい。
その背中を悟空が追いかけ、そのまま追いかけっこを始めた。
信人のことなどもう忘れたように、二人できゃらきゃらと笑いながら廊下を走り回っている。
古く、広さだけが取柄の家も、幼い子供には格好の遊び場らしい。
「ノブ兄、おかえりなさい」
久しぶりに家に帰ってきた兄に対して、花喃は律儀にそう声を掛けた。
洗濯籠を抱えている。
信人と兄が好きに生きることができるのもこのしっかり者の妹の存在が大きいため、頭が上がらない。
「ああ。親父は?」
「浴槽の掃除をしてたけど。呼んでくる?」
「いい、どうせどやされるだけだ。お袋に線香あげたら直ぐに帰るよ」
「ゆっくりしていけばいいのに」
妹の言葉には答えず、話を逸らすように、遊ぶ甥っ子達に視線をやる。
「悟空と同い年か?」
「ええ。クラスも同じなのよ。毎日一緒に遊んでるわ」
花喃はにこりと微笑むと、二人に優しく声を掛けた。
「二人とも、お外に行きましょ。あんまりうるさくすると天ちゃん先生が起きちゃうわ」
花喃に誘われ、二人はとてとてと大人しく庭まで付いていく。
まるでカルガモの親子だな。
そんな感想を胸に抱き、部屋の入り口から庭先を眺める。
庭に面する和室の障子も雨戸も大きく開け放たれ、さっぱりとした日差しが部屋に満ちている。
吹き込んだ風から金木犀の甘い香りが微かに漂う。
一歩引いて眺めているせいか、窓枠に四角く切り取られた光景は、まるで一枚の絵のようだった。
物干し竿に洗濯物を干す妹と、その周りで無邪気に鬼ごっこをして遊ぶ子供たち。
牧歌的で微笑ましい絵だ。
どこにでもあるありふれたモチーフかもしれないが、信人にとってはルーブルのどんな名画にも勝る。
永遠に変わらずここにあるように思えるし、そうであって欲しいとも思う。
だから尚のこと、長居してはならないという思いを強くした。
「お邪魔しま~す」
信人のセンチメンタルな気分を引き戻したのは、玄関先から呼びかけられた間延びした声だった。
「俺が出るよ」
花喃にそう声を掛けて、玄関に向かうと、戸を開けた。
「どちら様?」
立っていたのは眼鏡をかけた若い男だった。
年は信人と変わらなそうだ。タッパも同じくらいある。
「隣の家の者です。うちの子を迎えに来ました」
うちの子とは時任のことだろう。
しかし時任の親にしては若く、兄弟にしては年が離れすぎている。
いや、気になるのはそんなことではない。
「オタク、堅気の人?」
同じ深みにいる人間は臭いで分かる。確信めいて発した言葉だったが、対峙する男は茫洋とした空気を崩さなかった。
「クリーニング屋です」
「掃除屋……?」
「洗濯する方」
「洗濯する方」
こんな風貌のクリーニング屋がいるのだろうか。俄かには信じ難い。
念のため店を確認しようかとまで考えて、急に疑うことが馬鹿馬鹿しくなった。
去年から信人の家族は彼らと近所付き合いをしているのだ。
彼らを疑うのは、自分の家族の見る目を疑うことに等しい。
「変なことを聞いて悪かったな。俺は悟空の叔父だ」
謝罪するが、特に気にした風もなく、今度は男が脈絡のない言葉を口にした。
「おたく、打つ人?」
「まぁ、それなりには」
「じゃ、今度皆さんで打ちに来てください。うちのクリーニング屋、地下が雀荘なんで」
「は……?」
信人は自分の勘が正しかったことを知る。クリーニング屋の地下に雀荘を構えるなど、発想が堅気ではない。
だが、信人も堅気ではなかった。
ニッと笑いかける。
「賭け禁止なんて野暮なことは言わないよな?」
「勿論」
「久保田さんとっても強いんだから。ノブ兄、身ぐるみ剥がされないようにね」
時任と悟空を伴って庭先から現れた花喃がそう口を挟む。
「花喃さんが参加するなら身ぐるみ剥がされるのは俺の方ですけどね」
久保田の言葉が世辞や誇張ではないことを信人は知っている。
事あるごとに卓を囲む一族の中で、最強は間違いなくこの妹だった。
「ときとー、お暇するよー」
呼びかけられ、時任はいやいやと頭を振った。ぎゅっと悟空の腕を掴む。
「やだ!もっと、ごくーとあそぶ!」
「俺とはもう遊んでくれないの?」
久保田はワザとらしく悲しげな声を出した。
途端にバツの悪そうな顔をして、時任は無言で久保田の足に抱き着いた。
その体を抱き上げて、機嫌を取るように背中をぽんぽんと叩く。
「後でお風呂入りに来よう」
ん、と頷いて、猫の子のように胸元に頬をすり寄せる。
保護者の抱っこはお嫌いではないらしい。
「お邪魔しました」
「またなー!」
「またね、時任君」
久保田の肩越しに小さな手を振り返す時任の姿が門扉の影に消える。
正直、久保田という男は得体が知れなかったが、父親が何も手を打っていないということは危険人物ではないのだろう。可愛い孫の親友に絆されているのでなければだが。
「そういや、あの二人、名字が違うんだな」
「あんまり詮索しちゃ駄目よ」
おっとりとした妹に、肩を竦める。
マトモには生きられないことを悟ってから、足が遠くなっていた実家。
何も変わらないと思っていたが、案外そうでもないようだ。
次の法事に兄が帰ってきたら、兄妹と変わった隣人を交えて卓を囲むのも悪くないと信人は思った。

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美柴鴇がその二人を常連だと認識したのは今から半年程前のことだった。
「こんにちは~」
「いらっしゃい」
カランという鐘の涼やかな音と共に扉が開き、のっそりと長身が姿を現す。
概ね、咥え煙草。この酷暑でも長袖。そして眼鏡。
特徴といえばその程度だが、妙に存在感のある男だった。
そしていつも通り彼の足元からひょっこりと小さな影が姿を見せる。
大きな猫目が印象的な、小柄な少年だ。恐らく未就学児だろう。男のスラックスにしがみ付く様にして立っている。
彼らはいつも日曜日のおやつ時に現れる。
夏休みに入ってからは水曜日もだ。
鴇が店先に立つのは学校のない日だったので、以前から水曜日にも訪れている可能性はあった。マスターに確認したことは別段ないが。
彼らは店内の冷気に安心したようにほぅと一息吐いた。
男が美柴に目を向け(いつ見ても細い目だ)口角を上げる。
「今日もマスターのお手伝い、偉いねぇ」
労いの言葉に無言で会釈を返す。
男と美柴のやり取りには興味なさげに、少年は窓際の奥の席に迷いなくとてとてと向かい、ソファによじ登るようにして腰かけた。
男はその向かいに座り、メニューを差し出す。
「時任、どれが食べたい?」
差し出されたメニューを抱え、うんうんと唸るように悩む顔を男は楽しそうに覗き込んでいる。額に浮かぶ汗をハンカチで拭ってやるなど、その様は随分と甲斐甲斐しい。
そんな二人の前に水とおしぼりを並べながら、男が少年を時任と呼ぶ度に、美柴の胸にはいつもの違和感が影を差していた。
親兄弟、肉親なら彼のことを姓では勿論呼ばないだろう。
親戚でもだ。
例え血の繋がりがなくても、家族なら。
だが、男は少年を時任と呼ぶ。
そして美柴も詮索しない。
彼らとの関係は単なる客とウェイターだからだ。
やがて時任が紅葉の様に小さな手で指したメニューに頷き、男は美柴を呼んだ。
注文票を片手に、テーブルの傍に立つ。
「珈琲とプリンアラモード二つ、オレンジジュースも」
おや、と美柴は首を傾げた。
先週までの注文はずっと珈琲とクリームソーダだった。
恐らくブームが去ったのだろう。
時任のマイブームのサイクルは大体二週間のようだった。
久保田も食べるらしいのは予想外だったが。甘党なのだろうか。
注文を書き付け、奥のマスターに伝える。
オレンジジュース、珈琲、プリンアラモードを出来た順に小さな盆で一つずつ運ぶ。
マスターが一杯ずつ丁寧に豆を挽いて淹れる珈琲目当ての常連は多かったが、プリンアラモードの味も中々だ。
プリンはイタリア風味でやや固め。プリンもバニラアイスもマスターのお手製で、フルーツもふんだんに盛られている。
目にも華やかなおやつに時任は目を輝かせ、丸い頬を上気させた。
分かりやすくご機嫌な様子に、表情を動かさないものの、美柴は内心で微笑ましく思う。
マスター自慢の一品が喜ばれるのは美柴にとっても嬉しかった。
時任はにこにこしながら右手にスプーンを握る。
そしてプリンのてっぺんに乗った赤いつやつやのさくらんぼを、男のプリンにそっと並べて乗せた。
この頃は保護者の好物を譲っているものと思い、なんて出来た子だろうと感心していたものだが、それが勘違いであったことはずっと後に知ることになる。
なんせ長じてこの喫茶店を溜まり場とする彼はプリンアラモードをさくらんぼ抜きで注文するようになるのだから。
二人が最初の一口を含んだのを見届けて、美柴は宿題を広げたままの彼の指定席へと向かった。
接客の合間に、涼しい店内で自由に過ごすことをマスターから許されていた。
活気はあれど小さな商店街の喫茶店。
彼らの他に客は居ない。
落ち着いた空気とオルゴールの甘い音、珈琲の香りが空間に満ちる。
時折、男の落ち着いた声が店内にぽつりと転がるが、耳障りなものではなく、全てが調和を保っていた。
スプーンとガラスの器が触れ合う音すらも。
時任の体に対してやや大きいように思えるおやつを二人は時間をかけて完食した。
「ごちそうさま」
勘定を済ませ、満腹からか眠そうに眼を擦り始めた時任を男は抱き上げた。
男の広い胸元に頬をすり寄せ、腕の中で小さく丸まる様はまるで猫の子だ。
カランという音がして、扉の向こうに二人の姿が消える。
今はまだ、常連の男の名を美柴鴇は知らない。

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