時任可愛い
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一日歩き、その日は野宿した。白昼は灼熱の日射が遍く地表を焼き、熱砂は足元で流動し歩を妨げる。静謐な夜半は闇に触れる全ての熱を奪い、旅人の体力を殺いだ。旅は苛酷だ。
しかし時任は、あれから繰り言を言うことはなかった。疲弊の気配もなく、痩せ我慢していた訳でもなさそうだ。その体の用途から肉体労働で身を粉にすることもなかっただろうに、馬も駱駝もない窮乏の旅に耐え得るだけの体力は既に有している様だった。
そして翌日の日も中天を過ぎし頃、辿り着いた町で二人は先ず、古着屋を探した。
大都市間として存在する小さな宿場町だ。大きな商店こそないが、何処の軒先もそれなりの賑わいを見せている。だが、庸俗の店では時任の衣裳に価額を付けることも、装身具一つ購求することすらできないだろう。
「あッ」
 時任が声を上げ、久保田の外衣の裾を引く。眼鏡の表面を覆う塵埃を指で拭い指差す方に目を凝らすと、黄塵の舞う先に古ぼけた古着屋が見えた。
古い、重厚な店構え。近付くにつれ老舗の趣深い銘板や、戸板や柱の研磨された黒褐色の照りが歴史と財貨を感じさせる。
帷帳を捲り店内を打見した久保田は予覚を確信に変えると、時任を伴い中に足を踏み入れた。
「いらっしゃい」
 壮年の店主は二人を一瞥して愛想笑いを浮かべ、腰掛ていた胡牀から立ち上がる。他に客はないようだ。
 久保田は店主の前に時任を立たせると、外衣を脱ぐように促した。
「この服と装身具一式、買って欲しいんだけど」
「ほぉ……」
 外衣の下から現れた衣裳に、店主は我にも無く感嘆の声を漏らした。
緋で染做された衣には金糸で巧緻且つ鮮麗な意匠の刺繍が施されている。質の高い刺繍は黄金と取引される程の価値を持つ。また、衣と装身具に鏤められた紅玉、金剛石、柘榴石、電気石、黄玉の赫々たる輝きは一級品であることを何よりも雄弁に物語っている。
 余りに絢爛。しなやかな体躯の動きに合わせ煌き、纏う者を眩く彩る。
「本当に売っても?」
 店主がそう問うたのは、その衣装が時任を装う為に特別に誂えられた物だということが、長く衣服流通の商いをしている彼には了得できた故だ。
 酔狂だ。その言葉は口にはしなかった。客の事情に深入りする必要はない。しかし、高が奴隷にこの様な豪奢な衣裳を誂えるなど。幾ら飾り立て様とも畜生は畜生でしかないのだ。
「仕方ないやね」
「それなら買わせて頂きましょう」
 店主が提示した額は、真価の半値にも満たなかったであろう。しかし、この先の路銀としては十分な額だった。久保田が首肯したのを見て、時任は自らの装身具に手を伸ばした。
 先ず額飾り。金の細い鎖が涼しい音を立てて几案の上に置かれる。大振りの耳飾りを外して額飾りの隣に置き、二の腕に巻き付いた金の腕輪を一つずつ解いて几案に並べる。胸元の飾りを外して上着を脱ぎ、最後に腰と太腿を艶めかしく煌かせる鎖と腰巻を取り外した。
 そうしてほんの小さな下穿のみを身に着けた裸体を、久保田と店主の眼前に晒す。
 ただ細いばかりの体躯だ。陽光から隔離され生きてきた肌は砂漠地帯の住人とは思えぬ程に抜けるような白さだったが、それ以外に色を想起させる要素はない。だが、先の装いから彼が性奴隷であることが瞭然たる故か、店主は時任を眺める視線に分暁なる好色を浮かべており、それを久保田は酷く不快に感じた。
 空気は乾燥しているにも関わらず、喉から肺腑にかけて重苦しい粘つきを感じ、誤魔化す為に烟草に火を付ける。立ち上る紫煙に店主は迷惑そうな視線を寄越したが、久保田は無視した。
「代わりの服を見たい」
「どうぞ」
 店内に吊下げられた色取々の織布を前にし、久保田は時任に言った。
「じゃ、好きなの選びなよ」
「……え?」
 当然の様に言われた言葉に時任は当惑する。
「俺が……選ぶのか?」
「嫌?」
「嫌っていうか……ホント変な奴」
 久保田から目を逸らし、織布を見上げる。
 宛がわれるだけの人生だった。強いられる未来しかなかった。
 しかし今、眼前の狭衣が様々な色彩の選択肢として時任の目に映る。
「やっぱ、お前が選べよ」
「どうして?」
「……興味があるから」
 良くて愛玩動物、何れにせよ時任を人として扱った主はおらず、どの主の要求も変わり映えしない己の本能的な欲求の充足だった。そんな主の嗜好になど興味を抱いた事はない。
だが、時任は選択権を行使することよりも、久保田の嗜好を知ることを、それを選んだ。この底知れぬ己が主を知りたいと思った。
変なのは己だ。
「そ。じゃあどれにしようかなぁ」
 そうして久保田が選んだ衣装を身に着け、時任は豈図らんや深い溜息を吐いた。
「……お前、良い趣味してんな」
「そう?」
 意匠は凡常な男物の巻衣だ。ただ、染抜かれた色は砂漠に沈む大きな落暉の如く燃えるような紅。華美な装飾品がない分、余計に赤が映えて見えた。
「俺、赤嫌いなんだけど」
 時任の言葉には本気の嫌悪が多分に含まれていて、久保田は不思議に思う。最初の邂逅からずっと彼の印象は赤であったが故に。
燃えるような、流れる血潮のような緋。視覚に強烈に訴える色だ。生命力に色があるのなら彼の命はきっと赤い。
「でも、似合ってる」
 久保田が微笑むと肩を竦めたが、それ以上、我を通そうとはしなかった。
色合いは稍派手ではあったが、凡常な衣装に着替えた時任は、襟元より見え隠れする首の戒めを除けば、平凡な平民に見えた。奢侈に飾り立てられた先の姿よりも、この方がずっと好ましいと久保田は思う。
 衣装を選び終えたのを見、店の主人は服の代金の差額を革袋に詰めて久保田に手渡した。そして装いを改めた時任をまじまじと眺めた。
「しかしこんな見目良い奴隷、見た事ない。旦那は本当に趣味がいい」
 大して悪気があった訳ではない。他人の美しい馬を撫でる時の様な調子で時任の腰から臀部を撫上げ、尻臀を揉みしだいた。
 時任はその事に対して特に目立った反応を見せなかった。ほんの少し右手に力を込めただけだ。
 奴隷階級の人間が額づく相手は己が主人に限らない。下知を抗拒する奴隷あらば誅殺をもって報いとする権利を、法は平民階級にも保証している。無論、他人の所有物を毀損すれば器物損壊の罪には問われるがその程度、金で解決できる問題だ。
 とりたてて問題のある行為をその男が行った訳ではない。時任が抗わなかったのも当然だ。
 だが、時任に触れるその手を久保田は掴んだ。そのまま関節の可動域とは逆方向に捩じる。
枯れ木を折るような音。一拍置いて響いたのは耳障りな絶叫。
 自由な腕で久保田の手を外そうと踠くが万力の如き力は少しも緩まず、折れた骨が更に軋み男は泡を吹いて仰け反った。
「何やってんだよッ!」
 我に返った時任が制止の意を込めて久保田の外衣を掴むと、久保田はあっさりと手を離した。
「自分の縄張り荒らされたら噛み付くでしょ、動物は」
「意味分かんねぇ……お前、人間じゃん」
久保田は笑った。その笑顔の意味も、時任には分からなかった。
時任に暴力を振るう主人なら両手の指では足りぬ位に居た。しかし、時任の為に暴力を振るう主人は初めてだった。
己が殴打されれば勿論苦しい。しかし、己の為に人が害されても痛いのだと初めて知る。だが、肺腑を満たす苦楚を凌駕する感情もまた自覚していた。
 心痛の様な、喜悦。
 無感情な眼でのたうつ男を見下ろしたまま動かない久保田の手を引いて、時任は足早に店を出る。それは極めて賢明な判断だったと言えよう。あの男が時任に何をしようとそれは罪にならない。だが、久保田が賞金首以外の人を害せば罪になる。
 遁逃する如く町を出て、その後行くべき道途が分からず途方に暮れた時任は立ち止まって久保田を振り仰いだ。非難の意味ではない。時任に手を引かれるがままの久保田に逕路の指示を望んだが故だ。
久保田は時任の手を離して、別の物を掌に置いた。
「これ、持ってて」
 それは漆黒の短剣だった。柄も鞘も黒檀造りで、刀身までもが黒塗りであった。闇夜に煌かぬ為の、暗殺用の短剣。
「俺の縄張り、お前も守ってよ」
 久保田の言う縄張りとは己が身の事だと、その事は時任にも理解できた。己が身を守れ、その体に触れる他人を怺えるな、と。その体は久保田のものなのだと。
しかし時任に抗拒の選択肢などないことを久保田こそ事解しているのだろうか。
「……分かった」
 それでも時任は点頭し、黒い鞘を握った。それを見、久保田は含笑して漸く歩き出した。
「回し蹴りしてもいいけど」
「次はそうする」
 並んで歩きながら巻衣の内懐に挟み込むように短剣を仕舞う。肌に固く当たるそれが久保田が容易には見せぬ情意の一端の様に思え、時任は外衣の上からそっと撫でる様に触れた。
 天に玉桂が冴え冴えと照る頃、二人は湖畔に辿り着いた。
 旅で水場との遭逢は僥倖だ。革袋に水を汲み、時任が集めた枯枝に久保田は火を付けた。
「また野宿か」
「ごめんね?」
「別にいいけどさ……」
 古着屋での一件がなければ得た入前は宿代に当てられていただろう。しかし時任の口調に非難の色はなかった。寧ろ何処と無く嬉しげでさえあった。
 二人は別々に水浴し、共に夕餉を口にした。二日間同じ糧食であることに時任が不平を言い、久保田が温和に笑って詫びた。焚火に照らされた二人の影絵が暗夜の水辺に伸び縮みする。
「もう寝ようぜ」
 夕餉を終え、片付ける久保田に向かって時任はそう言った。野宿には危険が多い。火を絶やさず周囲を警戒する不寝番が必要で、旅に慣れた久保田は己がその役目を負う、そのつもりだった。
 時任は久保田の膝に手を置いた。見上げる様に目を合わせる。
「なぁ……寝よう?」
 黒曜石の表面に焚火の赤が反射しちらちら蕩揺していた。この瞳は己が内面に容易く漣を起こす。その是非を久保田はまだ判断出来なかった。
「折角買った服、もう脱がしていいの?」
 時任が笑った。久保田の前で時任が笑うのは二度目であったが、同一人物の笑みとはとても思えぬ。細めた瞳は肉食獣宛ら。燃え盛るのは淫靡な欲望。獲物の獣欲を引きずり出し、火を付ける。
 誘われるまま体を引き寄せる。
 体だけ求め合った。心を欲するなど、この時の二人には思いもよらぬことであった。

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売春窟を出たその足で、引換所に向かい、首と賞金とを交換する。真夜中に叩き起こされた引換所の主は当初不機嫌そうであったが、久保田の面体を見た途端、卑屈なまでに愛想良く応対した。
痩躯長身。面差しや態度は飄々としており、他人に恐れを抱かせるような要素はない。威名馳せる人物なのかもしれない。生業は賞金首狩りの様なので、人殺しとして。久保田と引換所の主のやり取りを見ながら時任はそう考えた。
 久保田が宿に戻る気配はなく、それどころかその足で町を出ようとしている。周囲は既に家屋も疎らで、道と曠野の境界も曖昧中、僅かな月明かりを頼りに歩を進める。微光に照る場所だけが仄かに青白く、他は墨で塗り潰した如くだ。時は夜明けも近いような夜半。
 夜明け前が最も暗い。次の町へと続く荒野には乾いた大地と僅かな植物の他、何もない。砂に消され足跡すらも残らない道を歩いて行こうというのだろうか。
 それまで黙って付随っていた時任は、その背に問いを投げ掛けた。
「宿は?」
 久保田は立ち止まって彼の奴隷を振り返った。
己の換えの黒い外衣を着せた時任は、全身黒闇に溶け込んだ様で、目深に被った外衣の隙間から覗く肌だけがぼうと仄白い。時任も歩みを止める。
「まさかこのまま行く気じゃねぇよな。馬車もなしに」
 奴隷らしからぬ気随な言様の時任を久保田は注意深く観察した。不躾な口調は彼の立場からすれば考えられぬものだ。そこだけ切り取れば凡そ奴隷らしからぬといえよう。
 だが、時任は久保田の隣に並ぶ気配はない。三歩下がった距離で久保田の答えを待っている。元の通り背を向け、久保田は歩き出す。背後の気配は着いて来るようだった。
「せめて馬とか駱駝とか。丸一日歩き通しとか冗談じゃねぇよ」
 悪態混じり要求と、対照的な随順。久保田は気付いた。これは虚飾の気随だ。
恐らく、我儘を言うように、躾けられて居るのだろう。態と我儘を言わせ、時にそれを聞いてやり、時にそれを叱咤する。飼猫の相手をするように。世の中にはそういう趣向の人間もいないではない。故に、彼の言葉は本心を含まぬ放言の筈だ。
しかしそれでいて、どこか素の我を見せるところに久保田は興味を惹かれた。
矢張り面白い。久保田の口角が上がる。飼猫よりも野良猫の方がずっと興趣が尽きぬ。皮を剥いだ下に潜むは猫か虎か、手に負えぬ化け物か。
だからこそ時任が、逃亡の素振りを見せないことが久保田には意想外だった。
 背を向けたまま久保田は時任に答えた。
「次の仕事までは間があるし、暫くは節約しないとね」
 腰の革袋を軽く叩く。膨らみも重さも以前の倍以上だが、価値は比較にもならない。
「小物だったからなぁ。もっと大物の首があればよかったんだけど」
「……お前、金持ちなんだよな?」
 久保田の物言いに、時任は訝しげな表情を浮かべる。その気配を読み取って、また歩みを止め久保田は革袋を差し出した。一瞬の躊躇の後、時任はそれを受け取る。中を見るように促され、革紐を解き覗き込む。月色に照る銀の光。
「元ね。今はこれが全財産」
「……はぁ?」
 時任は唖然とする。
 久保田が差し出した革袋の銀貨は、先程賞金首との引き換えに得た物だ。つまり、時任と引き換えに渡したあの金剛石はあの時点での久保田の全財産だったということだ。
「なんでッ!」
 理解の範疇を超えた久保田の行動に時任は我を忘れ、食って掛かる。道楽や一瞬の衝迫としては法外な代価だ。冗談であればいい。しかし本気であるのなら。
「路銀さえ足りればね。別に欲しいものもなかったし」
 久保田の言葉は冗談とも本気とも判別付かなかった。何も感じない。金面への執着も、何も。
「……欲しいもん何て色々あるだろ」
 久保田に革袋を突き返し、時任は口を尖らせる。
「例えば?」
「美味い食い物とか、面白いもんとか、格好いい武器とか」
自由とか。
「んー」
「ないのかよ……」
 久保田は明確な答えを口にはせず、時任を見た。
 欲しい物等ない。必要ないと思い生きてきた。今もそう思っている筈だ。では、目の前のこれは何だ。
「確かに、何が欲しくなるか分かんないもんだねぇ。初めてだ」
 長い前髪の間から覗く硝子越しの瞳は、好奇を帯びて光り、枯渇に滑り、注視に冷たく、幾何かの執着を彼に向けている。
 冷たくもありながら熱ぽっさも感じる。居心地の悪い視線に身動ぎし、時任は困惑した。久保田が己に何を欲しているのかが分からない。しかし出来ることは限られている。
「してぇの?」
 顎を上げ、喉元の外衣をずらす。夜気に晒される白い首筋。
「なら今すぐすっきりさせてやるぜ? 場所、選ばねぇし」
 無論、久保田が場所を選ばぬことが前提ではあったが。
 久保田の表情に然したる変化は見られなかった。彼は一言こう言った。
「えっち」
「はぁッ?」
 意想外の言葉に頓狂な声を上げた時任に、久保田は先程から胸裏に抱いていた疑問を投げかける。
「ねぇ、何で逃げないの?」
売春窟を出て直ぐに手は放した。元より鎖は握っていない。しかし時任は従順に久保田の三歩後ろを着いてきた。
逃げたい、と彼が言ったら己はどうするのだろう。
逃がしたいという平明な意思が久保田に在る訳ではない。ただ、垣間見た身体能力から、時任が全力で駈走れば追付くのは容易ではないだろうと考えただけだ。加えて辺りは暗闇。逃亡には絶好の環境。
そもそも、逃げた猫を己は追うのだろうか。
「……」
初めて欲したのは事実だ。だが、そこまでの執着が己に存在することが信じられない。自身の衝動でさえ定かではない久保田の心中を、勿論時任は知る由もない。しかし、久保田の言葉が本気か否か等、時任には関係なかった。
「お前、奴隷のこと何も知らねぇのな」
浮かべたのは呆れの情。この奴隷は惜し気もなく躊躇いもなく実に色々な感情を表出して見せる。
右手で首の頸輪を指す。
「この首輪に鍵はない」
 華奢な首筋に嵌る、鍵穴のない武骨な鉄の輪。一度嵌めれば内部の凹凸が複雑に噛み合い、永劫その軛から解放されることはない。
「それに、この右手……」
拳を握る。黒い皮手袋の下には皮膚に刻まれた墨の紋様があった。通常、奴隷の主となった者は、自らの奴隷に刺青か焼鏝で所有の証を刻む。家畜と同様に。
首輪も文身も、生ある限り逃れられない隷属の符牒だ。
「お前殺して逃げたって、奴隷じゃなくなる訳じゃねぇんだよ」
「そっか」
「俺が生き延びる為に出来る唯一の事は、お前に抱かれることだけだ」
 抱かれる、そう言いながら外衣を脱ぎ払った手の動きは力強い。
生きる意志を見せる時、彼の瞳の奥は焔々と燃上がる。闇に慣れた目で直視などしたら焼き潰される、そんな光だ。
そっか。
久保田は得心した。
時任は生に拘泥している。何よりも生きる事を主眼に置いている。だから逃げなかった。
そして、だから惹かれた。
言葉を交わせば交わす程、知れば知る程、この奴隷と己は違う。生への執着は何よりも己に欠遺しているものだ。欠けているから欲しくなった。
久保田はそんな風に納得した。
 地平線が白み始める。黒が藍に変わる暁闇に転ずる。
 夜気に晒された肌は矢張り白く、艶めかしく、触れる掌と舌を待っている。
「やっぱえっちだね、お前」
「茶化すなよ」
「甘いなぁ」
 距離を詰める。久保田を見上げる顔に落ちる影。暁天を背に立っている為か暗く、間近でも不明瞭な面貌の中、時任を映す眼睛は夜明け前の暗晦より尚暗い。
「俺が自分の性欲解消する為だけにお前の事、買ったと思ってるの?」
ごくりと唾を飲み込む。
時任は自分の値を知っている。代価として積まれた金貨の山を知っている。久保田はその十倍を支払ったと言った。そしてそれは自分の全財産だと。
何の為に?
一通りの理不尽は経験してきた。だが、奈落の底のような目を見せるこの男が何を要求してくるのか、時任にも想像もできなかった。
「言ったでしょ、初めて欲しくなったものだって」
そう。抱かれるだけ、なんてそんな事を目の前の存在に求めた訳ではないのだ。何に対しても感興そそられぬ無味乾燥な生を貪ってきた己を、生きる意志、炎の様な強さのそれのみで惹き付けた存在に求めていることはもっとずっと沢山ある。
最初の要求は。
「先ずは、隣を歩いて欲しいかな」
 ぱちり、ぱちりと何度も瞬きをする。拍子抜けしたように肩を下げた時任の表情が緩み、口から力のない悪態が漏れる。
「……ばーか」
暁紅く、陽光、空を白々と染め始める。
「変な奴ッ!」
時任が初めて見せた笑顔は、燃える暁の赤光に炙られ生娘の恥じらいの様に驚くほど初心な表情に見えた。
心臓が震える。
今まで己の搏動すら曖昧模糊たる白昼夢の中を生きてきたのに、鮮烈な赤に文字通り目が覚める思いがした。
「酷いなぁ」
頬を撫でる。手を下に滑らせて首筋を、鎖骨を、胸元を、現実の膚触を確かめるかの様に触れる。薄布の上から、己が所有だという体を大きく乾いた掌でゆっくりとなぞった。
 擽ったそうに身を捩り、時任は纏っている紅い絹衣を掴んで言った。
「なぁ……この服、売れば?」
「なんで?」
「足りねぇんだろ、路銀」
「似合ってるのに? それ。勿体ないやねぇ」
 幾多の宝石が縫い付けられ金糸が燦然と眩い緋の衣は、時任が富貴なる者を対象とした夜伽の道具で、それ相応の装いを必要とされたことを物語っていた。
「どの道、こんな恰好じゃ旅なんてできねぇじゃん」
 悪戯っぽく時任は続ける。
「これからずっと、歩いて行くんだろ」
 隣を。

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 薄暗い階段を下りる足音は一人分だ。狭い空間に反響し、固い音を立てている。壁の燭がやや俯きがちな男の横顔を照らしている。階段を下りた先にはさして広くもない部屋。廊下と呼ぶには少しばかり余裕のある空間と、両側の土煉瓦壁には無数の扉。男の足取りは止まらない。
木の扉に書かれた文字を頼りない光源で一つ一つ確かめ、目的のものを見つけたのか、ある扉の前で立ち止まった。
 禿げかかった塗料の上に記されているのは花の名前のようだ。
 痩せた無骨な手が鉄の取っ手に触れた、その時。ひたりと首筋に触れる冷たい鉄の感触。背後にある筈のない気配。階段を下りてきたのは確かに男一人だった筈。隠れる場所もなかった。降って湧いたような気配に男が疑問を巡らす暇もなかっただろう。地下室に銃声が殊更大きく響いた。
揺らめく影のような黒衣。崩れ落ちた肉体は最早只の肉塊と化し、その衝撃で床の砂ぼこりを舞わせた。恰も影が具現したかの様な黒衣の男は骸に手を伸ばすと、髪を持ち上げ首を晒し、躊躇いなく首を切り落とす。短剣が肉を裂き骨を断つ、生々しい音。頭部を失った躯は再び地に臥す。蝋燭に血溜まりが赤黒く光った。地下の空間を満たす嘔吐くような血臭にも、黒衣の男は何も感じていないようだった。眼鏡の奥の瞳は、硝子同様に無機質だ。
掴んだ首から血が抜け切ると、口腔や耳孔等に布を詰め、防腐の薬草を散らしその上から更に布を巻いていく。手際が良い。手馴れている。そうして処置した首を大きな革袋に首を収め、何事もなかったかの様に赤黒い惨状に背を向けた。
男の足が止まる。
幾多の扉の向こうに息を潜める気配を幾つも感じる。だが、殺気を放つのはただ一人。
男の歩みが止まったことに気配の主も気付いたのだろう。微動だにせず、空気の流れ、匂い、音、その全てでお互いを探り合う。
扉の向こうの気配が消えた。同時に男が動く。背後で扉の軋む音がし、振り返り様に銃口を向ける。
目の端に捉えた影はまるで猫だった。
「賊か?」
耳元で鋭く問い掛けられると同時に、気管が圧迫される。紐ではない、金属の感触だ。鎖だろう。男の初動よりも、背後に張り付いた気配の主の方が敏速であった事に男は少なからず驚嘆していた。このまま鎖に体重を掛けて絞められれば成す術もないであろう。男以外であれば。
一歩足を出し、首に掛かる腕を掴んで勢い良く上体を前に振ると、背後の気配は宙に放り出される。しかし投げ飛ばした感触は軽かった。猫の様に危な気なく床に着地した姿が、男の眼前に初めて晒された。
それは猫ではなかったが、人でもなかった。
身に纏う衣装は豪奢。暗がりの僅かな光に縫い付けられた金糸や宝石が眩く光っている。
対照的に鈍く光る首元の鉄輪は逃れられない隷属の重し。
王族、貴族、僧侶、軍人、平民、全ての身分の最下層、人でありながら人でなく、家畜と同様に扱われることを運命付けられた身分、奴隷。人が奴隷に身を堕とす理由は肉親による売却、人狩りによる俘虜等様々であったが、理由に限らず全ての奴隷から未来永劫、自由が剥奪される。未来永劫、そして子々孫々に至るまで。
そして、売春宿で美しく飾り立てられた奴隷の用途など一つしかない。
着地した姿勢のまま動かない奴隷に向かって銃を構えた男の胸にあったのは、慈悲に似た感情だった。彼が得られる自由なら一つだけある。死ねば、生きる苦界から解き放たれる。
銃の先を向けられ、その奴隷に怯えた様子は見えなかった。立ち上がる。手足についた万鈞の枷と鎖が触れ合って高い音を鳴らす。先程、男の喉元を絞めたのは両手首の枷を繋いでいる鉄鎖だろう。
男は小首を傾げた。
目の前の奴隷が臨戦態勢を取ったことの意味が分からなかった。
足を狙って撃つ。弾は石畳の表面を弾き、飛び上がった奴隷は壁を蹴るとその勢いのまま男の顬を狙って蹴りを繰り出した。男は腕で止める。重い。一撃を止められ奴隷は素早く間合いを取った。
男は問いかける。
「なんで抵抗するの?」
二人の間にあるのは血溜まりと首のない骸。
奴隷は答えなかった。質問の意味が分からなかったのかもしれない。
「死んだ方がましなんじゃないの」
 怒気が肌を打つ。奴隷が怒り等という感情をまだ持ち合わせている。その事実だけでも稀有な存在だといえた。奴隷は口を開いた。
「死んだ方がましかそうじゃねぇかは、俺が生きて俺が決めることだろ。てめぇに殺されるなんて冗談じゃねぇ」
賊かもしれない、銃を持つ相手に一人向かってきたのは自暴自棄故の行動ではなかったということだ。賊かもしれないからこそ、敢えて先に仕掛けた。先手必勝。確かに、生き残るための行動だ。
「……へぇ」
暗くて表情も良く見えない中、目だけが野生動物の様に光っている。蝋燭の光で赤く、燃えるように。
「根性あるなぁ」
男は、煙草を銜えた唇の端をゆっくりと吊り上げる。久々に浮かべた笑みだった。心臓が熱くなる感覚は、生まれて初めてだ。彼の炎が移り火したのかもしれない。
野生動物のような生命力に、首の枷は余りにも不似合であった。
「お前さ」
 男が何かを言い掛けた、それを遮るかのように階上から囂しく誰かが階段を下りてくる気配がした。姿を現したのは売春窟の主だ。
「殺さないでくれ! そいつは旦那の標的じゃないだろう!」
 奴隷の姿を背に隠すようにして男と対峙するも、男への恐怖からか一歩下がる。その後ろ足が滑る。足元に広がる血に気付くと顔を強張らせた。
「汚して悪いね」
「そんなことはいいんだ。その分の金は貰ってる」
 媚びた様な引き攣り笑顔には隠し切れない焦燥と不安が旁魄している。
 男がこの売春窟で暗殺を行う際、主に協力を求めた時はもっと鷹揚としていた。つまり、この焦燥と不安は奴隷の命が脅かされた為だ。
 奴隷一人の生死は、特にこういう立場の人間の感情を微塵も動かす事はない筈だ。男は僅かな違和感を抱く。主は肩越しに奴隷を見やる。
「部屋に戻ってろ」
 奴隷は無言で、しかし主人の命に従ってその場から去ろうとした。今度は無警戒に黒衣の男に背を向ける。主人が止める間もなかった。
音もなく距離を詰め、奴隷の腕を掴んだのは黒衣の男だった。抵抗のない体を腕に中に引き寄せて、その目を覗き込む。
赤く燃えていると思った瞳は、夜の湖のように黒く澄んでいた。自分の顔が写り込んでいる。
初めて真面に見た顔は、想像よりもずっと整っていた。
「欲しい」
 目を覗き込んだまま囁く。奴隷は、吃驚した様に切れ長の猫目を真丸にした。
「一夜をご所望で?」
 床の死体を避けて二人に近付く主の浮かべた表情は、安堵に近かっただろう。手巾で汗を拭い、
「こいつは特定の客しか取らない。だが、高名な旦那になら特別に」
「んにゃ、身請けしたい」
 早口で捲し立てられる言葉を男は遮った。
「売れない」
 それに対する主の返答も早かった。短く、強い拒絶だった。
「売れないし、例え売り物だったとて、旦那には買えやしないだろうさ。こいつは法外な値で買った」
主人が口にした値段は確かに法外だった。男を畏怖しながらも、粗末な服装を侮っているのは確かだろう。刺繍の一つもない男の衣服は腕に抱く奴隷の物よりも遥かに安価な物だ。主の纏う外衣には奴隷の物とは比較に成らない程の金糸銀糸が煌びやかに刺繍されている。
「買った時に積み上げた金貨は山を作っただろう。売る時は、その三倍は付けるつもりだ」
主人が語った言葉に嘘はなかった。嘘を吐く必要がなかったからだ。そして、男にも、その言葉が嘘か本当かを見極める必要はなかった。
男は奴隷の体を離す。腰に無造作に下げている小さな革袋を取り外すと、主に黙って手渡した。受け取って中を覗き込んだ主人の体が瘧に懸ったように震え始める。
より嵩張らずより高価な物に換金して旅の炉銀とするのは旅人には良くあることだ。
しかし、皮袋一杯の金剛石。桁外れの富だった。人の慾が抗う事を拒む程の。
「それで足りるかな。さっき言ってた額の十倍はあると思うんだけど」
最早、主の口から言葉は出て来なかった。
「枷は外して」
言われるがまま主は数多の鍵が垂下した束から一つを摘むと、未だ震える手で奴隷の手足から桎梏を外す。そして首輪に付いた鎖を差し出した。
だが、男はその鎖を受け取らなかった。代わりに、手を差し出す。
呆然と奴隷は黒衣の男を見た。差し伸べられた手。反対の手には首を詰めた革袋。死神が存在するとしたら、この男の様な形をしているのだろう。
「一緒に来てくれる?」
奴隷は答えなかったが、躊躇いがちに手を握り返した。
死神の行く先は地獄かもしれない。しかし今はこの手の温もりを信じたかった。
主人の手から滑り落ちた鎖が鎖同士ぶつかり合って甲高い悲鳴を上げる。
鎖の音を引き摺った奴隷と、黒衣の男と。
「楽しい余生を」
 そう別れの言葉を告げられた売春窟の主は、二人をただ見送ることしか出来なかった。
 黒衣の男が一瞥もしなかった、そして男の物となった奴僕が振り返りもしなかった彼の部屋の扉にはこう刻まれていた。
 紅の蓮、と。
 扉に刻まれた花の名は、その部屋の奴隷を指す符牒だ。
 しかし、赤い蓮に如何なる含意があるのか、二人はまだ知らない。

「俺は久保田誠人。お前は?」
「時任。……時任稔」

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