時任可愛い
売春窟を出たその足で、引換所に向かい、首と賞金とを交換する。真夜中に叩き起こされた引換所の主は当初不機嫌そうであったが、久保田の面体を見た途端、卑屈なまでに愛想良く応対した。
痩躯長身。面差しや態度は飄々としており、他人に恐れを抱かせるような要素はない。威名馳せる人物なのかもしれない。生業は賞金首狩りの様なので、人殺しとして。久保田と引換所の主のやり取りを見ながら時任はそう考えた。
久保田が宿に戻る気配はなく、それどころかその足で町を出ようとしている。周囲は既に家屋も疎らで、道と曠野の境界も曖昧中、僅かな月明かりを頼りに歩を進める。微光に照る場所だけが仄かに青白く、他は墨で塗り潰した如くだ。時は夜明けも近いような夜半。
夜明け前が最も暗い。次の町へと続く荒野には乾いた大地と僅かな植物の他、何もない。砂に消され足跡すらも残らない道を歩いて行こうというのだろうか。
それまで黙って付随っていた時任は、その背に問いを投げ掛けた。
「宿は?」
久保田は立ち止まって彼の奴隷を振り返った。
己の換えの黒い外衣を着せた時任は、全身黒闇に溶け込んだ様で、目深に被った外衣の隙間から覗く肌だけがぼうと仄白い。時任も歩みを止める。
「まさかこのまま行く気じゃねぇよな。馬車もなしに」
奴隷らしからぬ気随な言様の時任を久保田は注意深く観察した。不躾な口調は彼の立場からすれば考えられぬものだ。そこだけ切り取れば凡そ奴隷らしからぬといえよう。
だが、時任は久保田の隣に並ぶ気配はない。三歩下がった距離で久保田の答えを待っている。元の通り背を向け、久保田は歩き出す。背後の気配は着いて来るようだった。
「せめて馬とか駱駝とか。丸一日歩き通しとか冗談じゃねぇよ」
悪態混じり要求と、対照的な随順。久保田は気付いた。これは虚飾の気随だ。
恐らく、我儘を言うように、躾けられて居るのだろう。態と我儘を言わせ、時にそれを聞いてやり、時にそれを叱咤する。飼猫の相手をするように。世の中にはそういう趣向の人間もいないではない。故に、彼の言葉は本心を含まぬ放言の筈だ。
しかしそれでいて、どこか素の我を見せるところに久保田は興味を惹かれた。
矢張り面白い。久保田の口角が上がる。飼猫よりも野良猫の方がずっと興趣が尽きぬ。皮を剥いだ下に潜むは猫か虎か、手に負えぬ化け物か。
だからこそ時任が、逃亡の素振りを見せないことが久保田には意想外だった。
背を向けたまま久保田は時任に答えた。
「次の仕事までは間があるし、暫くは節約しないとね」
腰の革袋を軽く叩く。膨らみも重さも以前の倍以上だが、価値は比較にもならない。
「小物だったからなぁ。もっと大物の首があればよかったんだけど」
「……お前、金持ちなんだよな?」
久保田の物言いに、時任は訝しげな表情を浮かべる。その気配を読み取って、また歩みを止め久保田は革袋を差し出した。一瞬の躊躇の後、時任はそれを受け取る。中を見るように促され、革紐を解き覗き込む。月色に照る銀の光。
「元ね。今はこれが全財産」
「……はぁ?」
時任は唖然とする。
久保田が差し出した革袋の銀貨は、先程賞金首との引き換えに得た物だ。つまり、時任と引き換えに渡したあの金剛石はあの時点での久保田の全財産だったということだ。
「なんでッ!」
理解の範疇を超えた久保田の行動に時任は我を忘れ、食って掛かる。道楽や一瞬の衝迫としては法外な代価だ。冗談であればいい。しかし本気であるのなら。
「路銀さえ足りればね。別に欲しいものもなかったし」
久保田の言葉は冗談とも本気とも判別付かなかった。何も感じない。金面への執着も、何も。
「……欲しいもん何て色々あるだろ」
久保田に革袋を突き返し、時任は口を尖らせる。
「例えば?」
「美味い食い物とか、面白いもんとか、格好いい武器とか」
自由とか。
「んー」
「ないのかよ……」
久保田は明確な答えを口にはせず、時任を見た。
欲しい物等ない。必要ないと思い生きてきた。今もそう思っている筈だ。では、目の前のこれは何だ。
「確かに、何が欲しくなるか分かんないもんだねぇ。初めてだ」
長い前髪の間から覗く硝子越しの瞳は、好奇を帯びて光り、枯渇に滑り、注視に冷たく、幾何かの執着を彼に向けている。
冷たくもありながら熱ぽっさも感じる。居心地の悪い視線に身動ぎし、時任は困惑した。久保田が己に何を欲しているのかが分からない。しかし出来ることは限られている。
「してぇの?」
顎を上げ、喉元の外衣をずらす。夜気に晒される白い首筋。
「なら今すぐすっきりさせてやるぜ? 場所、選ばねぇし」
無論、久保田が場所を選ばぬことが前提ではあったが。
久保田の表情に然したる変化は見られなかった。彼は一言こう言った。
「えっち」
「はぁッ?」
意想外の言葉に頓狂な声を上げた時任に、久保田は先程から胸裏に抱いていた疑問を投げかける。
「ねぇ、何で逃げないの?」
売春窟を出て直ぐに手は放した。元より鎖は握っていない。しかし時任は従順に久保田の三歩後ろを着いてきた。
逃げたい、と彼が言ったら己はどうするのだろう。
逃がしたいという平明な意思が久保田に在る訳ではない。ただ、垣間見た身体能力から、時任が全力で駈走れば追付くのは容易ではないだろうと考えただけだ。加えて辺りは暗闇。逃亡には絶好の環境。
そもそも、逃げた猫を己は追うのだろうか。
「……」
初めて欲したのは事実だ。だが、そこまでの執着が己に存在することが信じられない。自身の衝動でさえ定かではない久保田の心中を、勿論時任は知る由もない。しかし、久保田の言葉が本気か否か等、時任には関係なかった。
「お前、奴隷のこと何も知らねぇのな」
浮かべたのは呆れの情。この奴隷は惜し気もなく躊躇いもなく実に色々な感情を表出して見せる。
右手で首の頸輪を指す。
「この首輪に鍵はない」
華奢な首筋に嵌る、鍵穴のない武骨な鉄の輪。一度嵌めれば内部の凹凸が複雑に噛み合い、永劫その軛から解放されることはない。
「それに、この右手……」
拳を握る。黒い皮手袋の下には皮膚に刻まれた墨の紋様があった。通常、奴隷の主となった者は、自らの奴隷に刺青か焼鏝で所有の証を刻む。家畜と同様に。
首輪も文身も、生ある限り逃れられない隷属の符牒だ。
「お前殺して逃げたって、奴隷じゃなくなる訳じゃねぇんだよ」
「そっか」
「俺が生き延びる為に出来る唯一の事は、お前に抱かれることだけだ」
抱かれる、そう言いながら外衣を脱ぎ払った手の動きは力強い。
生きる意志を見せる時、彼の瞳の奥は焔々と燃上がる。闇に慣れた目で直視などしたら焼き潰される、そんな光だ。
そっか。
久保田は得心した。
時任は生に拘泥している。何よりも生きる事を主眼に置いている。だから逃げなかった。
そして、だから惹かれた。
言葉を交わせば交わす程、知れば知る程、この奴隷と己は違う。生への執着は何よりも己に欠遺しているものだ。欠けているから欲しくなった。
久保田はそんな風に納得した。
地平線が白み始める。黒が藍に変わる暁闇に転ずる。
夜気に晒された肌は矢張り白く、艶めかしく、触れる掌と舌を待っている。
「やっぱえっちだね、お前」
「茶化すなよ」
「甘いなぁ」
距離を詰める。久保田を見上げる顔に落ちる影。暁天を背に立っている為か暗く、間近でも不明瞭な面貌の中、時任を映す眼睛は夜明け前の暗晦より尚暗い。
「俺が自分の性欲解消する為だけにお前の事、買ったと思ってるの?」
ごくりと唾を飲み込む。
時任は自分の値を知っている。代価として積まれた金貨の山を知っている。久保田はその十倍を支払ったと言った。そしてそれは自分の全財産だと。
何の為に?
一通りの理不尽は経験してきた。だが、奈落の底のような目を見せるこの男が何を要求してくるのか、時任にも想像もできなかった。
「言ったでしょ、初めて欲しくなったものだって」
そう。抱かれるだけ、なんてそんな事を目の前の存在に求めた訳ではないのだ。何に対しても感興そそられぬ無味乾燥な生を貪ってきた己を、生きる意志、炎の様な強さのそれのみで惹き付けた存在に求めていることはもっとずっと沢山ある。
最初の要求は。
「先ずは、隣を歩いて欲しいかな」
ぱちり、ぱちりと何度も瞬きをする。拍子抜けしたように肩を下げた時任の表情が緩み、口から力のない悪態が漏れる。
「……ばーか」
暁紅く、陽光、空を白々と染め始める。
「変な奴ッ!」
時任が初めて見せた笑顔は、燃える暁の赤光に炙られ生娘の恥じらいの様に驚くほど初心な表情に見えた。
心臓が震える。
今まで己の搏動すら曖昧模糊たる白昼夢の中を生きてきたのに、鮮烈な赤に文字通り目が覚める思いがした。
「酷いなぁ」
頬を撫でる。手を下に滑らせて首筋を、鎖骨を、胸元を、現実の膚触を確かめるかの様に触れる。薄布の上から、己が所有だという体を大きく乾いた掌でゆっくりとなぞった。
擽ったそうに身を捩り、時任は纏っている紅い絹衣を掴んで言った。
「なぁ……この服、売れば?」
「なんで?」
「足りねぇんだろ、路銀」
「似合ってるのに? それ。勿体ないやねぇ」
幾多の宝石が縫い付けられ金糸が燦然と眩い緋の衣は、時任が富貴なる者を対象とした夜伽の道具で、それ相応の装いを必要とされたことを物語っていた。
「どの道、こんな恰好じゃ旅なんてできねぇじゃん」
悪戯っぽく時任は続ける。
「これからずっと、歩いて行くんだろ」
隣を。
痩躯長身。面差しや態度は飄々としており、他人に恐れを抱かせるような要素はない。威名馳せる人物なのかもしれない。生業は賞金首狩りの様なので、人殺しとして。久保田と引換所の主のやり取りを見ながら時任はそう考えた。
久保田が宿に戻る気配はなく、それどころかその足で町を出ようとしている。周囲は既に家屋も疎らで、道と曠野の境界も曖昧中、僅かな月明かりを頼りに歩を進める。微光に照る場所だけが仄かに青白く、他は墨で塗り潰した如くだ。時は夜明けも近いような夜半。
夜明け前が最も暗い。次の町へと続く荒野には乾いた大地と僅かな植物の他、何もない。砂に消され足跡すらも残らない道を歩いて行こうというのだろうか。
それまで黙って付随っていた時任は、その背に問いを投げ掛けた。
「宿は?」
久保田は立ち止まって彼の奴隷を振り返った。
己の換えの黒い外衣を着せた時任は、全身黒闇に溶け込んだ様で、目深に被った外衣の隙間から覗く肌だけがぼうと仄白い。時任も歩みを止める。
「まさかこのまま行く気じゃねぇよな。馬車もなしに」
奴隷らしからぬ気随な言様の時任を久保田は注意深く観察した。不躾な口調は彼の立場からすれば考えられぬものだ。そこだけ切り取れば凡そ奴隷らしからぬといえよう。
だが、時任は久保田の隣に並ぶ気配はない。三歩下がった距離で久保田の答えを待っている。元の通り背を向け、久保田は歩き出す。背後の気配は着いて来るようだった。
「せめて馬とか駱駝とか。丸一日歩き通しとか冗談じゃねぇよ」
悪態混じり要求と、対照的な随順。久保田は気付いた。これは虚飾の気随だ。
恐らく、我儘を言うように、躾けられて居るのだろう。態と我儘を言わせ、時にそれを聞いてやり、時にそれを叱咤する。飼猫の相手をするように。世の中にはそういう趣向の人間もいないではない。故に、彼の言葉は本心を含まぬ放言の筈だ。
しかしそれでいて、どこか素の我を見せるところに久保田は興味を惹かれた。
矢張り面白い。久保田の口角が上がる。飼猫よりも野良猫の方がずっと興趣が尽きぬ。皮を剥いだ下に潜むは猫か虎か、手に負えぬ化け物か。
だからこそ時任が、逃亡の素振りを見せないことが久保田には意想外だった。
背を向けたまま久保田は時任に答えた。
「次の仕事までは間があるし、暫くは節約しないとね」
腰の革袋を軽く叩く。膨らみも重さも以前の倍以上だが、価値は比較にもならない。
「小物だったからなぁ。もっと大物の首があればよかったんだけど」
「……お前、金持ちなんだよな?」
久保田の物言いに、時任は訝しげな表情を浮かべる。その気配を読み取って、また歩みを止め久保田は革袋を差し出した。一瞬の躊躇の後、時任はそれを受け取る。中を見るように促され、革紐を解き覗き込む。月色に照る銀の光。
「元ね。今はこれが全財産」
「……はぁ?」
時任は唖然とする。
久保田が差し出した革袋の銀貨は、先程賞金首との引き換えに得た物だ。つまり、時任と引き換えに渡したあの金剛石はあの時点での久保田の全財産だったということだ。
「なんでッ!」
理解の範疇を超えた久保田の行動に時任は我を忘れ、食って掛かる。道楽や一瞬の衝迫としては法外な代価だ。冗談であればいい。しかし本気であるのなら。
「路銀さえ足りればね。別に欲しいものもなかったし」
久保田の言葉は冗談とも本気とも判別付かなかった。何も感じない。金面への執着も、何も。
「……欲しいもん何て色々あるだろ」
久保田に革袋を突き返し、時任は口を尖らせる。
「例えば?」
「美味い食い物とか、面白いもんとか、格好いい武器とか」
自由とか。
「んー」
「ないのかよ……」
久保田は明確な答えを口にはせず、時任を見た。
欲しい物等ない。必要ないと思い生きてきた。今もそう思っている筈だ。では、目の前のこれは何だ。
「確かに、何が欲しくなるか分かんないもんだねぇ。初めてだ」
長い前髪の間から覗く硝子越しの瞳は、好奇を帯びて光り、枯渇に滑り、注視に冷たく、幾何かの執着を彼に向けている。
冷たくもありながら熱ぽっさも感じる。居心地の悪い視線に身動ぎし、時任は困惑した。久保田が己に何を欲しているのかが分からない。しかし出来ることは限られている。
「してぇの?」
顎を上げ、喉元の外衣をずらす。夜気に晒される白い首筋。
「なら今すぐすっきりさせてやるぜ? 場所、選ばねぇし」
無論、久保田が場所を選ばぬことが前提ではあったが。
久保田の表情に然したる変化は見られなかった。彼は一言こう言った。
「えっち」
「はぁッ?」
意想外の言葉に頓狂な声を上げた時任に、久保田は先程から胸裏に抱いていた疑問を投げかける。
「ねぇ、何で逃げないの?」
売春窟を出て直ぐに手は放した。元より鎖は握っていない。しかし時任は従順に久保田の三歩後ろを着いてきた。
逃げたい、と彼が言ったら己はどうするのだろう。
逃がしたいという平明な意思が久保田に在る訳ではない。ただ、垣間見た身体能力から、時任が全力で駈走れば追付くのは容易ではないだろうと考えただけだ。加えて辺りは暗闇。逃亡には絶好の環境。
そもそも、逃げた猫を己は追うのだろうか。
「……」
初めて欲したのは事実だ。だが、そこまでの執着が己に存在することが信じられない。自身の衝動でさえ定かではない久保田の心中を、勿論時任は知る由もない。しかし、久保田の言葉が本気か否か等、時任には関係なかった。
「お前、奴隷のこと何も知らねぇのな」
浮かべたのは呆れの情。この奴隷は惜し気もなく躊躇いもなく実に色々な感情を表出して見せる。
右手で首の頸輪を指す。
「この首輪に鍵はない」
華奢な首筋に嵌る、鍵穴のない武骨な鉄の輪。一度嵌めれば内部の凹凸が複雑に噛み合い、永劫その軛から解放されることはない。
「それに、この右手……」
拳を握る。黒い皮手袋の下には皮膚に刻まれた墨の紋様があった。通常、奴隷の主となった者は、自らの奴隷に刺青か焼鏝で所有の証を刻む。家畜と同様に。
首輪も文身も、生ある限り逃れられない隷属の符牒だ。
「お前殺して逃げたって、奴隷じゃなくなる訳じゃねぇんだよ」
「そっか」
「俺が生き延びる為に出来る唯一の事は、お前に抱かれることだけだ」
抱かれる、そう言いながら外衣を脱ぎ払った手の動きは力強い。
生きる意志を見せる時、彼の瞳の奥は焔々と燃上がる。闇に慣れた目で直視などしたら焼き潰される、そんな光だ。
そっか。
久保田は得心した。
時任は生に拘泥している。何よりも生きる事を主眼に置いている。だから逃げなかった。
そして、だから惹かれた。
言葉を交わせば交わす程、知れば知る程、この奴隷と己は違う。生への執着は何よりも己に欠遺しているものだ。欠けているから欲しくなった。
久保田はそんな風に納得した。
地平線が白み始める。黒が藍に変わる暁闇に転ずる。
夜気に晒された肌は矢張り白く、艶めかしく、触れる掌と舌を待っている。
「やっぱえっちだね、お前」
「茶化すなよ」
「甘いなぁ」
距離を詰める。久保田を見上げる顔に落ちる影。暁天を背に立っている為か暗く、間近でも不明瞭な面貌の中、時任を映す眼睛は夜明け前の暗晦より尚暗い。
「俺が自分の性欲解消する為だけにお前の事、買ったと思ってるの?」
ごくりと唾を飲み込む。
時任は自分の値を知っている。代価として積まれた金貨の山を知っている。久保田はその十倍を支払ったと言った。そしてそれは自分の全財産だと。
何の為に?
一通りの理不尽は経験してきた。だが、奈落の底のような目を見せるこの男が何を要求してくるのか、時任にも想像もできなかった。
「言ったでしょ、初めて欲しくなったものだって」
そう。抱かれるだけ、なんてそんな事を目の前の存在に求めた訳ではないのだ。何に対しても感興そそられぬ無味乾燥な生を貪ってきた己を、生きる意志、炎の様な強さのそれのみで惹き付けた存在に求めていることはもっとずっと沢山ある。
最初の要求は。
「先ずは、隣を歩いて欲しいかな」
ぱちり、ぱちりと何度も瞬きをする。拍子抜けしたように肩を下げた時任の表情が緩み、口から力のない悪態が漏れる。
「……ばーか」
暁紅く、陽光、空を白々と染め始める。
「変な奴ッ!」
時任が初めて見せた笑顔は、燃える暁の赤光に炙られ生娘の恥じらいの様に驚くほど初心な表情に見えた。
心臓が震える。
今まで己の搏動すら曖昧模糊たる白昼夢の中を生きてきたのに、鮮烈な赤に文字通り目が覚める思いがした。
「酷いなぁ」
頬を撫でる。手を下に滑らせて首筋を、鎖骨を、胸元を、現実の膚触を確かめるかの様に触れる。薄布の上から、己が所有だという体を大きく乾いた掌でゆっくりとなぞった。
擽ったそうに身を捩り、時任は纏っている紅い絹衣を掴んで言った。
「なぁ……この服、売れば?」
「なんで?」
「足りねぇんだろ、路銀」
「似合ってるのに? それ。勿体ないやねぇ」
幾多の宝石が縫い付けられ金糸が燦然と眩い緋の衣は、時任が富貴なる者を対象とした夜伽の道具で、それ相応の装いを必要とされたことを物語っていた。
「どの道、こんな恰好じゃ旅なんてできねぇじゃん」
悪戯っぽく時任は続ける。
「これからずっと、歩いて行くんだろ」
隣を。
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