「九時五十分……」
久保田探偵が時計を見て、そう呟きます。
二十面相の予告時間まで後十分足らず。
閉めた窓の前に警官が二人。バルコニーにも二人。二つの階段にそれぞれ四人。階下にも幾多の警官が己の持ち場を守り、蟻さえ見逃さぬ警戒です。
美術館の上空には警察のヘリまで出動し、一台が旋回しながら怪盗を警戒していました。
『泣かない未明』が収まったケースの前には久保田探偵、その助手、葛西さん、新木さん、館長さんが油断なく目を光らせています。
探偵はいつもののほほんとした雰囲気でしたが、探偵以外はぴりぴりと神経を尖らせています。
数時間前まで己が美術館の防犯設備に自信満々だった館長さんでさえ、冷や汗をその薄い額に浮べているのでした。
怪盗二十面相。
どんなに不可能な状況からでも魔術のように鮮やかな手口で御宝を奪い去る、稀代の大怪盗。
彼は予告した時間を違えたことはありません。
十時。
その場にいる全員に緊張が走ります。
カチ、カチ、カチ、カチ……
秒針が規則正しく時間を刻む音だけがその場に響きます。
十時、一秒……二秒……三秒……
針が進んでも怪盗は現れません。
誰かがほっと安堵の溜息を吐き出しました。
その時。
カッと閃光が走りました。
その場にいた誰もが眩しさに一瞬、目を固く閉じてしまいます。
その一瞬。一瞬です。
次に目を開けた時にはもう、『泣かない未明』は忽然と姿を消していました。
新木さんが叫びました。
「き、消えたッ!!?」
部屋のあらゆる場所から照明が一点に集中し、光の中心にあるガラスケースの中は空っぽです。
「そ、そんなッ!」
館長さんは転がるようにしてガラスケースに駆け寄るとポケットの中から自動車の鍵のようなものを取り出し、それに付いていた小さなボタン――多分、防犯装置の解除ボタンでしょう――を押しました。
そして目を庇いながら震える手で鍵を指し込んでガラスケースの蓋を開け、悲鳴を上げるように叫びました。
「な……ない!未明がないッ!」
悲鳴と同時に、室内の照明が一斉に消えて真っ暗になります。
ガシャン――ッ!
耳障りな音が響き、ステンドグラスが粉々に砕けました。
振り仰ぐと黒々としたシルエットが月明かりに浮び上がります。
「二十面相だッ!」
直ぐに警察の強烈な光線に地上から照らされ、ワイヤーらしきものにぶら下がった二十面相が姿を現しました。
特徴的な黒いマント、ニヤリと不気味に笑う無機質な仮面、そして左手に抱えているのは『泣かない未明』です!
怪盗は探偵を見て笑うと(仮面を着けているためあくまでも雰囲気ですが)ぶら下がったままヘリで悠々空を飛び去ってしまいました。
「あれは警察のヘリじゃねぇかッ!!」
「葛西さん!警視庁から連絡がッ!!ヘリ置き場で搭乗予定だったパイロットや刑事が全員縛られているのを発見したそうです!ヘリが一台、二十面相に乗っ取られましたッ!」
「遅ぇってーんだバカヤロウッ!!」
葛西さんがぎりりと歯軋りします。
他の古参の刑事さんも怒りで顔を真っ赤にして、新木さんに怒鳴りました。
「警視庁に連絡して大急ぎであのヘリの追跡をさせろッ!地上からもパトカーで可能な限り追うんだッ!」
警察のヘリで逃亡なんて、何とも警察への皮肉と侮蔑に満ちた所業ではありませんか。
警察の面子は丸潰れです。
刑事さんも警官もいきり立って、現場は上へ下への大騒ぎです。
その場の混乱を収めたのは一発の銃声でした。
――ドンッ!
「はーいみなさん落ちついて下さーい」
拳銃を天井に向けてぶっ放した久保田探偵は、呆れかえった顔の葛西さんに拳銃を返して唖然とした一同を見まわし、軽い口調ではっきりと言い放ちました。
「『泣かない未明』も犯人もまだこの場ですよ」
「二十面相はソコからヘリで逃げたろうッ!君も見たじゃないかッ!」
そう抗議したのは新木さんです。
そうだそうだと同調する刑事さん達を手で制して、探偵はステンドグラスの割れた窓の下に歩んで行き、しゃがみ込みました。
「この破片見てよ。殆どが室内に落ちてるっしょ。おかしいと思わない?二十面相がこの部屋の中から窓を割って逃げ出したなら、破片は部屋の外に落ちる筈だ」
「じゃ、じゃあアレはなんだったんだ!?」
「フェイクっしょ。多分、ヘリをジャックした二十面相の部下が二十面相に変装して偽物の『泣かない未明』を抱え、ヘリからぶら下がり外から窓をぶち割った。そうしていかにも二十面相が窓から逃げたように偽装したんじゃない?」
動揺する現場。
「何の為に!?」
「警察の注意を内部から逸らすためでしょ。犯人が逃走する姿を目視すれば警察は全力で追うだろうけど、ブツだけ消えてて犯人が逃げた痕跡がなきゃ、警察はここにいる人間を疑う。二十面相はそれを避けようとしたってワケ」
「あ……」
パキリ……足で踏みつけられたステンドグラスの破片が固い音を立てて割れます。
立ち上がって再びガラスケースの前に立った久保田探偵は、ある人物を見つめます。
「となれば、考えられるのは、二十面相はこの中にいるってことだ」
「ねぇ真田さん。……怪盗二十面相って言った方がいいかな」
貫くような鋭い視線の先にいる人物。
その場にいる全員がその人物を見て、驚きの声を上げます。
幾多の視線に晒されて――館長さんは目を見開いて後退りました。
「な……何を言って」
「お互い無駄な労力割くのは止めません?それでもまだ足掻くつもりなら、遠慮なく顔のマスク剥ぎ取らせてもらいますけど」
「……」
久保田探偵と館長が静かに睨み合います。
無言のやり取りが数秒間続いた後、館長がフッ……と微笑みました。
心なしか表情が精悍なものに変わり、背後に薔薇が出現しました。
声も一転して渋くダンディに変わります。
「流石だよ久保田君。それでこそ私の見込んだ男だ」
もう誤魔化すことなく怪盗二十面相は久保田探偵を手放しで賞賛しました。
「……いつ、私だと分かった?」
「最初から」
そうです。探偵は一度も館長さんのことを『館長さん』とは呼んでいなかったのでした。
「最初は確信があったワケじゃないんですけどね。ただ、俺が変装の名人だとして、警察が周りを取り囲んでいる最新の防犯設備の施設から予告時間にお宝盗むとしたら、誰に変装するのが有利か?って考えたら、そりゃ館長さんっしょ。
で、相浦に調べてもらったら、予告状が出される数日前に一日だけ館長さんの行方が曖昧な日があった。
何時も決まった時間に帰ってくる旦那さんがその日に限って何の連絡もなしに家へ帰ってこなかったって。
奥さんはすーごく心配してたのに、翌日の朝ケロッとした顔で帰ってきて、何をしていたのかもはぐらかした……
という奥さんの証言もあった。ちゃんと帰ってきたし、その後も普段通りだったから奥さんは警察にもその事は言わなかったみたいだけど、明らかに怪しいっしょ。入れ替わりが行われた可能性は十分だなーっと」
「おい、『泣かない未明』は何処に隠し持ってやがるんだ?一体」
慌てて葛西さんが口を挟みました。
泣かない未明は大玉のスイカ半分程度の大きさで、純白金のそれは決して懐に入れて隠しておけるような質量ではありません。
館長の扮装をした二十面相は一見してそんな大きなものを持っているようには見えませんでした。
「腹の中でしょ」
「飲んだのか!?」
「まさか。真田さんの腹は本物の館長さんと違ってあんなでっぷり出てないじゃない。中が空洞の張りぼてになっていてソコに隠してるんじゃないんですかねぇ。真田さん、ちょっと出してみてもらえます?」
二十面相は観念したのか、それでも雰囲気だけは余裕たっぷりに懐からナイフを取り出して自らの腹を縦に裂きました。
勿論、血の一滴も出ることはなく、手をつっこんで中から取り出したのは紛れもなく『泣かない未明』でした。
驚愕と感嘆に湧く現場。
しかし、そこに水を差すように怪盗は不吉なことを言い放ちました。
「忘れてはいないかな?私が盗むと予告したのは『泣かない未明』と『時任君』だ。今頃、私の部下が君の事務所に押し入って時任君を盗み出しているはずだよ」
怪盗にしてみれば久保田探偵に打撃を与えるとっておきの一言……の筈でした。
しかし、それを聞いても久保田探偵は慌てることなく不思議な微笑を浮かべています。
その時、館長さん……いえ、二十面相の上着ポケットが細かく振動しました。
「失礼」
と言って、携帯に出る二十面相。
二言、三言の短いやり取りの後通話を切って、なんとも言えない視線を久保田探偵に向けます。
「部下から連絡があった。……時任君が事務所にも何処にもいないそうだが、一体何処に隠したのかね?」
「何処も何もここにいますよ」
久保田探偵は隣にいるにゃんこな探偵助手の頭を撫でて、
「怪盗二十面相ともあろう人が、目の前の変装を見破れないなんて、ねぇ。ここにいる可愛い女の子は俺の敏腕助手時任君です」
「可愛いゆうな!」
むっとした顔で探偵を睨んで、頭上の手をばしっと叩きます。
目深に被っていたにゃんこ帽子を引き上げ、ついでにセミロングのかつらもずるりと脱ぎました。
なんと、久保田探偵は時任少年と桂木ちゃんを交換したように見せかけて、実は時任少年を女の子に化けさせていただけだったのです。
敵の裏の裏をかいた見事な作戦のように思えますが、しかし、怪盗二十面相と時任少年が顔見知りである以上、二十面相に変装が見破られる可能性はかなり高かったでしょう。
探偵が単に趣味に走った結果かもしれません。
そして探偵に『時任少年を傍から離す』という選択肢はないのでした。
「ふふふ……まいったよ。確かに君のことは意識の外に置いていた。迂闊だったな」
怪盗は愉快そうに笑って、探偵と助手の二人を見比べます。
怪盗と探偵の会話をじりじりしながら聞いていた葛西さんですが、久保田探偵が他に何も語ろうとしないのを見て、ついに口を出しました。
「誠人……いかにも一件落着、みたいな顔をしてるがな……『泣かない未明』がケースから一瞬で消えたトリックはどーなってんだ?」
「……説明しなくても犯人は逮捕できるっしょ」
探偵は宿敵を目の前にしても相変わらずやる気がありません。
「そーはいかねぇよ。こちとら調書を細かーく書かなきゃなんねぇんだ。めんどくさがってねぇでさっさと説明しやがれ」
「しょーがないなぁ」
久保田探偵は溜息を一つ吐くと、すぐ傍にある『泣かない未明』が収められていた蓋の開いた台の上に、懐から取り出したセブンスターの箱を置きました。
「時任、ヨロシク」
それだけの言葉でしたが、久保田探偵の優秀な助手である時任少年には何が言いたいのか分かったようです。
久保田探偵に向かって頷くと、階段を下りて二階へ走って行きました。
間もなく、先程と同じように眩いライトの光が四方から当たり、皆が眩しさに目を瞑った一瞬の内にセブンスターの姿は魔法のように消え去ってしまいました。
「消えたッ!?」
しかし直ぐにライトの光は消えて、台の上には元のようにセブンスターの箱が鎮座しています。
「ど……どうなってるんだ……」
「人間ってさ、暗いと見えないのは当たり前だけど、逆に明るすぎても見えないんだよねぇ。それを利用したトリック」
戻って来た時任少年の頭をいい子いい子するように撫でて、久保田探偵は説明を続けます。
「大方、防犯の為だとかいって誤魔化して改装した際に、こっそりこの部屋にだけ照明器具を多く付けたんでしょ。元々、この美術館って窓がないから照明器具が多い造りだしね。
まぁ流れとしては、持ってたスイッチかなんかで照明を付けて、『泣かない未明』が消えたように見せかける。そして動揺したふりをしてガラスケースを開ける。
解除スイッチ持ってるのが犯人なんだから折角の電流の罠も意味ないよねぇ。で、照明が消えた隙に張りぼての腹の中に未明を隠す。
後は派手に現れた二十面相のダミーに、他の人と一緒に気ぃ取られていればよかったワケ。俺にさえ疑われなかったら、そのまま館長として堂々と犯行現場から離れられていた」
「これだけの謎解きを一瞬で……」
久保田探偵の鮮やかな謎解きに、その場にいる者は皆、言葉もなくただただ感嘆の溜息を吐き出します。
葛西さんだけは冷静に、
「さて、全ての謎が解けたトコで署まで同行してもらおうか、真田」
銃を突き付けながら、手錠を手にして怪盗ににじり寄ります。
対する怪盗も不敵な笑みを浮かべたまま、
「悪いが、まだこんな所で捕まるわけにはいかないのでね」
いきなり手榴弾のようなものを床に投げつけました。
炸裂音と共に部屋の中は白い煙に包まれます。
「ッ!!?」
「毒ガスかッ!?」
視界は白く閉ざされ一寸先も見えず、息苦しさに咳が止まりません。
皆、げほげほと咳き込みながら煙から逃れようとパニックを起こしています。
素早く冷静に時任少年と自分の口を布で覆った久保田探偵は、見えない中で、
「また会おう、久保田君」
という怪盗の声を聞いたように思いました。
煙が室内を覆っていた時間はそう長くありませんでした。
ステンドグラスの割れた箇所から外気が流れ込み、段々と視界を取り戻していきます。
そこにはやはり、怪盗の姿はなかったのでした。
「あーあ。やっぱり逃げられた」
「他人事みたいな顔すんなよ久保ちゃん……」
「だって、毎回このパターンで逃げられてるじゃない?」
呆れたような探偵助手とやる気のない探偵は顔を見合わせます。
「おいッ!!『泣かない未明』は!?」
「ここ」
葛西さんの怒鳴り声に、探偵は足元を指しました。
そこにはちょこんと『泣かない未明』が置かれていました。何故か薔薇の花が一本添えられています。
探偵への贈り物でしょうか?
しかしそれを無視すると、
「こんなかさばるの持ってたら逃げらんないからねぇ……逮捕は警察に任せたよ?」
「おぉ」
葛西さん達は何処かに連絡を取りながら慌しく出て行き、『泣かない未明』も警察関係者によって保護ケースに収められて何処かに運ばれていきます。
残った探偵は、時任少年の顔を見下ろすとおどけたように言いました。
「時任も守ったし国宝も盗まれなかったし、これにて一件落着……と」