時任可愛い
一日歩き、その日は野宿した。白昼は灼熱の日射が遍く地表を焼き、熱砂は足元で流動し歩を妨げる。静謐な夜半は闇に触れる全ての熱を奪い、旅人の体力を殺いだ。旅は苛酷だ。
しかし時任は、あれから繰り言を言うことはなかった。疲弊の気配もなく、痩せ我慢していた訳でもなさそうだ。その体の用途から肉体労働で身を粉にすることもなかっただろうに、馬も駱駝もない窮乏の旅に耐え得るだけの体力は既に有している様だった。
そして翌日の日も中天を過ぎし頃、辿り着いた町で二人は先ず、古着屋を探した。
大都市間として存在する小さな宿場町だ。大きな商店こそないが、何処の軒先もそれなりの賑わいを見せている。だが、庸俗の店では時任の衣裳に価額を付けることも、装身具一つ購求することすらできないだろう。
「あッ」
時任が声を上げ、久保田の外衣の裾を引く。眼鏡の表面を覆う塵埃を指で拭い指差す方に目を凝らすと、黄塵の舞う先に古ぼけた古着屋が見えた。
古い、重厚な店構え。近付くにつれ老舗の趣深い銘板や、戸板や柱の研磨された黒褐色の照りが歴史と財貨を感じさせる。
帷帳を捲り店内を打見した久保田は予覚を確信に変えると、時任を伴い中に足を踏み入れた。
「いらっしゃい」
壮年の店主は二人を一瞥して愛想笑いを浮かべ、腰掛ていた胡牀から立ち上がる。他に客はないようだ。
久保田は店主の前に時任を立たせると、外衣を脱ぐように促した。
「この服と装身具一式、買って欲しいんだけど」
「ほぉ……」
外衣の下から現れた衣裳に、店主は我にも無く感嘆の声を漏らした。
緋で染做された衣には金糸で巧緻且つ鮮麗な意匠の刺繍が施されている。質の高い刺繍は黄金と取引される程の価値を持つ。また、衣と装身具に鏤められた紅玉、金剛石、柘榴石、電気石、黄玉の赫々たる輝きは一級品であることを何よりも雄弁に物語っている。
余りに絢爛。しなやかな体躯の動きに合わせ煌き、纏う者を眩く彩る。
「本当に売っても?」
店主がそう問うたのは、その衣装が時任を装う為に特別に誂えられた物だということが、長く衣服流通の商いをしている彼には了得できた故だ。
酔狂だ。その言葉は口にはしなかった。客の事情に深入りする必要はない。しかし、高が奴隷にこの様な豪奢な衣裳を誂えるなど。幾ら飾り立て様とも畜生は畜生でしかないのだ。
「仕方ないやね」
「それなら買わせて頂きましょう」
店主が提示した額は、真価の半値にも満たなかったであろう。しかし、この先の路銀としては十分な額だった。久保田が首肯したのを見て、時任は自らの装身具に手を伸ばした。
先ず額飾り。金の細い鎖が涼しい音を立てて几案の上に置かれる。大振りの耳飾りを外して額飾りの隣に置き、二の腕に巻き付いた金の腕輪を一つずつ解いて几案に並べる。胸元の飾りを外して上着を脱ぎ、最後に腰と太腿を艶めかしく煌かせる鎖と腰巻を取り外した。
そうしてほんの小さな下穿のみを身に着けた裸体を、久保田と店主の眼前に晒す。
ただ細いばかりの体躯だ。陽光から隔離され生きてきた肌は砂漠地帯の住人とは思えぬ程に抜けるような白さだったが、それ以外に色を想起させる要素はない。だが、先の装いから彼が性奴隷であることが瞭然たる故か、店主は時任を眺める視線に分暁なる好色を浮かべており、それを久保田は酷く不快に感じた。
空気は乾燥しているにも関わらず、喉から肺腑にかけて重苦しい粘つきを感じ、誤魔化す為に烟草に火を付ける。立ち上る紫煙に店主は迷惑そうな視線を寄越したが、久保田は無視した。
「代わりの服を見たい」
「どうぞ」
店内に吊下げられた色取々の織布を前にし、久保田は時任に言った。
「じゃ、好きなの選びなよ」
「……え?」
当然の様に言われた言葉に時任は当惑する。
「俺が……選ぶのか?」
「嫌?」
「嫌っていうか……ホント変な奴」
久保田から目を逸らし、織布を見上げる。
宛がわれるだけの人生だった。強いられる未来しかなかった。
しかし今、眼前の狭衣が様々な色彩の選択肢として時任の目に映る。
「やっぱ、お前が選べよ」
「どうして?」
「……興味があるから」
良くて愛玩動物、何れにせよ時任を人として扱った主はおらず、どの主の要求も変わり映えしない己の本能的な欲求の充足だった。そんな主の嗜好になど興味を抱いた事はない。
だが、時任は選択権を行使することよりも、久保田の嗜好を知ることを、それを選んだ。この底知れぬ己が主を知りたいと思った。
変なのは己だ。
「そ。じゃあどれにしようかなぁ」
そうして久保田が選んだ衣装を身に着け、時任は豈図らんや深い溜息を吐いた。
「……お前、良い趣味してんな」
「そう?」
意匠は凡常な男物の巻衣だ。ただ、染抜かれた色は砂漠に沈む大きな落暉の如く燃えるような紅。華美な装飾品がない分、余計に赤が映えて見えた。
「俺、赤嫌いなんだけど」
時任の言葉には本気の嫌悪が多分に含まれていて、久保田は不思議に思う。最初の邂逅からずっと彼の印象は赤であったが故に。
燃えるような、流れる血潮のような緋。視覚に強烈に訴える色だ。生命力に色があるのなら彼の命はきっと赤い。
「でも、似合ってる」
久保田が微笑むと肩を竦めたが、それ以上、我を通そうとはしなかった。
色合いは稍派手ではあったが、凡常な衣装に着替えた時任は、襟元より見え隠れする首の戒めを除けば、平凡な平民に見えた。奢侈に飾り立てられた先の姿よりも、この方がずっと好ましいと久保田は思う。
衣装を選び終えたのを見、店の主人は服の代金の差額を革袋に詰めて久保田に手渡した。そして装いを改めた時任をまじまじと眺めた。
「しかしこんな見目良い奴隷、見た事ない。旦那は本当に趣味がいい」
大して悪気があった訳ではない。他人の美しい馬を撫でる時の様な調子で時任の腰から臀部を撫上げ、尻臀を揉みしだいた。
時任はその事に対して特に目立った反応を見せなかった。ほんの少し右手に力を込めただけだ。
奴隷階級の人間が額づく相手は己が主人に限らない。下知を抗拒する奴隷あらば誅殺をもって報いとする権利を、法は平民階級にも保証している。無論、他人の所有物を毀損すれば器物損壊の罪には問われるがその程度、金で解決できる問題だ。
とりたてて問題のある行為をその男が行った訳ではない。時任が抗わなかったのも当然だ。
だが、時任に触れるその手を久保田は掴んだ。そのまま関節の可動域とは逆方向に捩じる。
枯れ木を折るような音。一拍置いて響いたのは耳障りな絶叫。
自由な腕で久保田の手を外そうと踠くが万力の如き力は少しも緩まず、折れた骨が更に軋み男は泡を吹いて仰け反った。
「何やってんだよッ!」
我に返った時任が制止の意を込めて久保田の外衣を掴むと、久保田はあっさりと手を離した。
「自分の縄張り荒らされたら噛み付くでしょ、動物は」
「意味分かんねぇ……お前、人間じゃん」
久保田は笑った。その笑顔の意味も、時任には分からなかった。
時任に暴力を振るう主人なら両手の指では足りぬ位に居た。しかし、時任の為に暴力を振るう主人は初めてだった。
己が殴打されれば勿論苦しい。しかし、己の為に人が害されても痛いのだと初めて知る。だが、肺腑を満たす苦楚を凌駕する感情もまた自覚していた。
心痛の様な、喜悦。
無感情な眼でのたうつ男を見下ろしたまま動かない久保田の手を引いて、時任は足早に店を出る。それは極めて賢明な判断だったと言えよう。あの男が時任に何をしようとそれは罪にならない。だが、久保田が賞金首以外の人を害せば罪になる。
遁逃する如く町を出て、その後行くべき道途が分からず途方に暮れた時任は立ち止まって久保田を振り仰いだ。非難の意味ではない。時任に手を引かれるがままの久保田に逕路の指示を望んだが故だ。
久保田は時任の手を離して、別の物を掌に置いた。
「これ、持ってて」
それは漆黒の短剣だった。柄も鞘も黒檀造りで、刀身までもが黒塗りであった。闇夜に煌かぬ為の、暗殺用の短剣。
「俺の縄張り、お前も守ってよ」
久保田の言う縄張りとは己が身の事だと、その事は時任にも理解できた。己が身を守れ、その体に触れる他人を怺えるな、と。その体は久保田のものなのだと。
しかし時任に抗拒の選択肢などないことを久保田こそ事解しているのだろうか。
「……分かった」
それでも時任は点頭し、黒い鞘を握った。それを見、久保田は含笑して漸く歩き出した。
「回し蹴りしてもいいけど」
「次はそうする」
並んで歩きながら巻衣の内懐に挟み込むように短剣を仕舞う。肌に固く当たるそれが久保田が容易には見せぬ情意の一端の様に思え、時任は外衣の上からそっと撫でる様に触れた。
天に玉桂が冴え冴えと照る頃、二人は湖畔に辿り着いた。
旅で水場との遭逢は僥倖だ。革袋に水を汲み、時任が集めた枯枝に久保田は火を付けた。
「また野宿か」
「ごめんね?」
「別にいいけどさ……」
古着屋での一件がなければ得た入前は宿代に当てられていただろう。しかし時任の口調に非難の色はなかった。寧ろ何処と無く嬉しげでさえあった。
二人は別々に水浴し、共に夕餉を口にした。二日間同じ糧食であることに時任が不平を言い、久保田が温和に笑って詫びた。焚火に照らされた二人の影絵が暗夜の水辺に伸び縮みする。
「もう寝ようぜ」
夕餉を終え、片付ける久保田に向かって時任はそう言った。野宿には危険が多い。火を絶やさず周囲を警戒する不寝番が必要で、旅に慣れた久保田は己がその役目を負う、そのつもりだった。
時任は久保田の膝に手を置いた。見上げる様に目を合わせる。
「なぁ……寝よう?」
黒曜石の表面に焚火の赤が反射しちらちら蕩揺していた。この瞳は己が内面に容易く漣を起こす。その是非を久保田はまだ判断出来なかった。
「折角買った服、もう脱がしていいの?」
時任が笑った。久保田の前で時任が笑うのは二度目であったが、同一人物の笑みとはとても思えぬ。細めた瞳は肉食獣宛ら。燃え盛るのは淫靡な欲望。獲物の獣欲を引きずり出し、火を付ける。
誘われるまま体を引き寄せる。
体だけ求め合った。心を欲するなど、この時の二人には思いもよらぬことであった。
しかし時任は、あれから繰り言を言うことはなかった。疲弊の気配もなく、痩せ我慢していた訳でもなさそうだ。その体の用途から肉体労働で身を粉にすることもなかっただろうに、馬も駱駝もない窮乏の旅に耐え得るだけの体力は既に有している様だった。
そして翌日の日も中天を過ぎし頃、辿り着いた町で二人は先ず、古着屋を探した。
大都市間として存在する小さな宿場町だ。大きな商店こそないが、何処の軒先もそれなりの賑わいを見せている。だが、庸俗の店では時任の衣裳に価額を付けることも、装身具一つ購求することすらできないだろう。
「あッ」
時任が声を上げ、久保田の外衣の裾を引く。眼鏡の表面を覆う塵埃を指で拭い指差す方に目を凝らすと、黄塵の舞う先に古ぼけた古着屋が見えた。
古い、重厚な店構え。近付くにつれ老舗の趣深い銘板や、戸板や柱の研磨された黒褐色の照りが歴史と財貨を感じさせる。
帷帳を捲り店内を打見した久保田は予覚を確信に変えると、時任を伴い中に足を踏み入れた。
「いらっしゃい」
壮年の店主は二人を一瞥して愛想笑いを浮かべ、腰掛ていた胡牀から立ち上がる。他に客はないようだ。
久保田は店主の前に時任を立たせると、外衣を脱ぐように促した。
「この服と装身具一式、買って欲しいんだけど」
「ほぉ……」
外衣の下から現れた衣裳に、店主は我にも無く感嘆の声を漏らした。
緋で染做された衣には金糸で巧緻且つ鮮麗な意匠の刺繍が施されている。質の高い刺繍は黄金と取引される程の価値を持つ。また、衣と装身具に鏤められた紅玉、金剛石、柘榴石、電気石、黄玉の赫々たる輝きは一級品であることを何よりも雄弁に物語っている。
余りに絢爛。しなやかな体躯の動きに合わせ煌き、纏う者を眩く彩る。
「本当に売っても?」
店主がそう問うたのは、その衣装が時任を装う為に特別に誂えられた物だということが、長く衣服流通の商いをしている彼には了得できた故だ。
酔狂だ。その言葉は口にはしなかった。客の事情に深入りする必要はない。しかし、高が奴隷にこの様な豪奢な衣裳を誂えるなど。幾ら飾り立て様とも畜生は畜生でしかないのだ。
「仕方ないやね」
「それなら買わせて頂きましょう」
店主が提示した額は、真価の半値にも満たなかったであろう。しかし、この先の路銀としては十分な額だった。久保田が首肯したのを見て、時任は自らの装身具に手を伸ばした。
先ず額飾り。金の細い鎖が涼しい音を立てて几案の上に置かれる。大振りの耳飾りを外して額飾りの隣に置き、二の腕に巻き付いた金の腕輪を一つずつ解いて几案に並べる。胸元の飾りを外して上着を脱ぎ、最後に腰と太腿を艶めかしく煌かせる鎖と腰巻を取り外した。
そうしてほんの小さな下穿のみを身に着けた裸体を、久保田と店主の眼前に晒す。
ただ細いばかりの体躯だ。陽光から隔離され生きてきた肌は砂漠地帯の住人とは思えぬ程に抜けるような白さだったが、それ以外に色を想起させる要素はない。だが、先の装いから彼が性奴隷であることが瞭然たる故か、店主は時任を眺める視線に分暁なる好色を浮かべており、それを久保田は酷く不快に感じた。
空気は乾燥しているにも関わらず、喉から肺腑にかけて重苦しい粘つきを感じ、誤魔化す為に烟草に火を付ける。立ち上る紫煙に店主は迷惑そうな視線を寄越したが、久保田は無視した。
「代わりの服を見たい」
「どうぞ」
店内に吊下げられた色取々の織布を前にし、久保田は時任に言った。
「じゃ、好きなの選びなよ」
「……え?」
当然の様に言われた言葉に時任は当惑する。
「俺が……選ぶのか?」
「嫌?」
「嫌っていうか……ホント変な奴」
久保田から目を逸らし、織布を見上げる。
宛がわれるだけの人生だった。強いられる未来しかなかった。
しかし今、眼前の狭衣が様々な色彩の選択肢として時任の目に映る。
「やっぱ、お前が選べよ」
「どうして?」
「……興味があるから」
良くて愛玩動物、何れにせよ時任を人として扱った主はおらず、どの主の要求も変わり映えしない己の本能的な欲求の充足だった。そんな主の嗜好になど興味を抱いた事はない。
だが、時任は選択権を行使することよりも、久保田の嗜好を知ることを、それを選んだ。この底知れぬ己が主を知りたいと思った。
変なのは己だ。
「そ。じゃあどれにしようかなぁ」
そうして久保田が選んだ衣装を身に着け、時任は豈図らんや深い溜息を吐いた。
「……お前、良い趣味してんな」
「そう?」
意匠は凡常な男物の巻衣だ。ただ、染抜かれた色は砂漠に沈む大きな落暉の如く燃えるような紅。華美な装飾品がない分、余計に赤が映えて見えた。
「俺、赤嫌いなんだけど」
時任の言葉には本気の嫌悪が多分に含まれていて、久保田は不思議に思う。最初の邂逅からずっと彼の印象は赤であったが故に。
燃えるような、流れる血潮のような緋。視覚に強烈に訴える色だ。生命力に色があるのなら彼の命はきっと赤い。
「でも、似合ってる」
久保田が微笑むと肩を竦めたが、それ以上、我を通そうとはしなかった。
色合いは稍派手ではあったが、凡常な衣装に着替えた時任は、襟元より見え隠れする首の戒めを除けば、平凡な平民に見えた。奢侈に飾り立てられた先の姿よりも、この方がずっと好ましいと久保田は思う。
衣装を選び終えたのを見、店の主人は服の代金の差額を革袋に詰めて久保田に手渡した。そして装いを改めた時任をまじまじと眺めた。
「しかしこんな見目良い奴隷、見た事ない。旦那は本当に趣味がいい」
大して悪気があった訳ではない。他人の美しい馬を撫でる時の様な調子で時任の腰から臀部を撫上げ、尻臀を揉みしだいた。
時任はその事に対して特に目立った反応を見せなかった。ほんの少し右手に力を込めただけだ。
奴隷階級の人間が額づく相手は己が主人に限らない。下知を抗拒する奴隷あらば誅殺をもって報いとする権利を、法は平民階級にも保証している。無論、他人の所有物を毀損すれば器物損壊の罪には問われるがその程度、金で解決できる問題だ。
とりたてて問題のある行為をその男が行った訳ではない。時任が抗わなかったのも当然だ。
だが、時任に触れるその手を久保田は掴んだ。そのまま関節の可動域とは逆方向に捩じる。
枯れ木を折るような音。一拍置いて響いたのは耳障りな絶叫。
自由な腕で久保田の手を外そうと踠くが万力の如き力は少しも緩まず、折れた骨が更に軋み男は泡を吹いて仰け反った。
「何やってんだよッ!」
我に返った時任が制止の意を込めて久保田の外衣を掴むと、久保田はあっさりと手を離した。
「自分の縄張り荒らされたら噛み付くでしょ、動物は」
「意味分かんねぇ……お前、人間じゃん」
久保田は笑った。その笑顔の意味も、時任には分からなかった。
時任に暴力を振るう主人なら両手の指では足りぬ位に居た。しかし、時任の為に暴力を振るう主人は初めてだった。
己が殴打されれば勿論苦しい。しかし、己の為に人が害されても痛いのだと初めて知る。だが、肺腑を満たす苦楚を凌駕する感情もまた自覚していた。
心痛の様な、喜悦。
無感情な眼でのたうつ男を見下ろしたまま動かない久保田の手を引いて、時任は足早に店を出る。それは極めて賢明な判断だったと言えよう。あの男が時任に何をしようとそれは罪にならない。だが、久保田が賞金首以外の人を害せば罪になる。
遁逃する如く町を出て、その後行くべき道途が分からず途方に暮れた時任は立ち止まって久保田を振り仰いだ。非難の意味ではない。時任に手を引かれるがままの久保田に逕路の指示を望んだが故だ。
久保田は時任の手を離して、別の物を掌に置いた。
「これ、持ってて」
それは漆黒の短剣だった。柄も鞘も黒檀造りで、刀身までもが黒塗りであった。闇夜に煌かぬ為の、暗殺用の短剣。
「俺の縄張り、お前も守ってよ」
久保田の言う縄張りとは己が身の事だと、その事は時任にも理解できた。己が身を守れ、その体に触れる他人を怺えるな、と。その体は久保田のものなのだと。
しかし時任に抗拒の選択肢などないことを久保田こそ事解しているのだろうか。
「……分かった」
それでも時任は点頭し、黒い鞘を握った。それを見、久保田は含笑して漸く歩き出した。
「回し蹴りしてもいいけど」
「次はそうする」
並んで歩きながら巻衣の内懐に挟み込むように短剣を仕舞う。肌に固く当たるそれが久保田が容易には見せぬ情意の一端の様に思え、時任は外衣の上からそっと撫でる様に触れた。
天に玉桂が冴え冴えと照る頃、二人は湖畔に辿り着いた。
旅で水場との遭逢は僥倖だ。革袋に水を汲み、時任が集めた枯枝に久保田は火を付けた。
「また野宿か」
「ごめんね?」
「別にいいけどさ……」
古着屋での一件がなければ得た入前は宿代に当てられていただろう。しかし時任の口調に非難の色はなかった。寧ろ何処と無く嬉しげでさえあった。
二人は別々に水浴し、共に夕餉を口にした。二日間同じ糧食であることに時任が不平を言い、久保田が温和に笑って詫びた。焚火に照らされた二人の影絵が暗夜の水辺に伸び縮みする。
「もう寝ようぜ」
夕餉を終え、片付ける久保田に向かって時任はそう言った。野宿には危険が多い。火を絶やさず周囲を警戒する不寝番が必要で、旅に慣れた久保田は己がその役目を負う、そのつもりだった。
時任は久保田の膝に手を置いた。見上げる様に目を合わせる。
「なぁ……寝よう?」
黒曜石の表面に焚火の赤が反射しちらちら蕩揺していた。この瞳は己が内面に容易く漣を起こす。その是非を久保田はまだ判断出来なかった。
「折角買った服、もう脱がしていいの?」
時任が笑った。久保田の前で時任が笑うのは二度目であったが、同一人物の笑みとはとても思えぬ。細めた瞳は肉食獣宛ら。燃え盛るのは淫靡な欲望。獲物の獣欲を引きずり出し、火を付ける。
誘われるまま体を引き寄せる。
体だけ求め合った。心を欲するなど、この時の二人には思いもよらぬことであった。
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