薄暗い階段を下りる足音は一人分だ。狭い空間に反響し、固い音を立てている。壁の燭がやや俯きがちな男の横顔を照らしている。階段を下りた先にはさして広くもない部屋。廊下と呼ぶには少しばかり余裕のある空間と、両側の土煉瓦壁には無数の扉。男の足取りは止まらない。
木の扉に書かれた文字を頼りない光源で一つ一つ確かめ、目的のものを見つけたのか、ある扉の前で立ち止まった。
禿げかかった塗料の上に記されているのは花の名前のようだ。
痩せた無骨な手が鉄の取っ手に触れた、その時。ひたりと首筋に触れる冷たい鉄の感触。背後にある筈のない気配。階段を下りてきたのは確かに男一人だった筈。隠れる場所もなかった。降って湧いたような気配に男が疑問を巡らす暇もなかっただろう。地下室に銃声が殊更大きく響いた。
揺らめく影のような黒衣。崩れ落ちた肉体は最早只の肉塊と化し、その衝撃で床の砂ぼこりを舞わせた。恰も影が具現したかの様な黒衣の男は骸に手を伸ばすと、髪を持ち上げ首を晒し、躊躇いなく首を切り落とす。短剣が肉を裂き骨を断つ、生々しい音。頭部を失った躯は再び地に臥す。蝋燭に血溜まりが赤黒く光った。地下の空間を満たす嘔吐くような血臭にも、黒衣の男は何も感じていないようだった。眼鏡の奥の瞳は、硝子同様に無機質だ。
掴んだ首から血が抜け切ると、口腔や耳孔等に布を詰め、防腐の薬草を散らしその上から更に布を巻いていく。手際が良い。手馴れている。そうして処置した首を大きな革袋に首を収め、何事もなかったかの様に赤黒い惨状に背を向けた。
男の足が止まる。
幾多の扉の向こうに息を潜める気配を幾つも感じる。だが、殺気を放つのはただ一人。
男の歩みが止まったことに気配の主も気付いたのだろう。微動だにせず、空気の流れ、匂い、音、その全てでお互いを探り合う。
扉の向こうの気配が消えた。同時に男が動く。背後で扉の軋む音がし、振り返り様に銃口を向ける。
目の端に捉えた影はまるで猫だった。
「賊か?」
耳元で鋭く問い掛けられると同時に、気管が圧迫される。紐ではない、金属の感触だ。鎖だろう。男の初動よりも、背後に張り付いた気配の主の方が敏速であった事に男は少なからず驚嘆していた。このまま鎖に体重を掛けて絞められれば成す術もないであろう。男以外であれば。
一歩足を出し、首に掛かる腕を掴んで勢い良く上体を前に振ると、背後の気配は宙に放り出される。しかし投げ飛ばした感触は軽かった。猫の様に危な気なく床に着地した姿が、男の眼前に初めて晒された。
それは猫ではなかったが、人でもなかった。
身に纏う衣装は豪奢。暗がりの僅かな光に縫い付けられた金糸や宝石が眩く光っている。
対照的に鈍く光る首元の鉄輪は逃れられない隷属の重し。
王族、貴族、僧侶、軍人、平民、全ての身分の最下層、人でありながら人でなく、家畜と同様に扱われることを運命付けられた身分、奴隷。人が奴隷に身を堕とす理由は肉親による売却、人狩りによる俘虜等様々であったが、理由に限らず全ての奴隷から未来永劫、自由が剥奪される。未来永劫、そして子々孫々に至るまで。
そして、売春宿で美しく飾り立てられた奴隷の用途など一つしかない。
着地した姿勢のまま動かない奴隷に向かって銃を構えた男の胸にあったのは、慈悲に似た感情だった。彼が得られる自由なら一つだけある。死ねば、生きる苦界から解き放たれる。
銃の先を向けられ、その奴隷に怯えた様子は見えなかった。立ち上がる。手足についた万鈞の枷と鎖が触れ合って高い音を鳴らす。先程、男の喉元を絞めたのは両手首の枷を繋いでいる鉄鎖だろう。
男は小首を傾げた。
目の前の奴隷が臨戦態勢を取ったことの意味が分からなかった。
足を狙って撃つ。弾は石畳の表面を弾き、飛び上がった奴隷は壁を蹴るとその勢いのまま男の顬を狙って蹴りを繰り出した。男は腕で止める。重い。一撃を止められ奴隷は素早く間合いを取った。
男は問いかける。
「なんで抵抗するの?」
二人の間にあるのは血溜まりと首のない骸。
奴隷は答えなかった。質問の意味が分からなかったのかもしれない。
「死んだ方がましなんじゃないの」
怒気が肌を打つ。奴隷が怒り等という感情をまだ持ち合わせている。その事実だけでも稀有な存在だといえた。奴隷は口を開いた。
「死んだ方がましかそうじゃねぇかは、俺が生きて俺が決めることだろ。てめぇに殺されるなんて冗談じゃねぇ」
賊かもしれない、銃を持つ相手に一人向かってきたのは自暴自棄故の行動ではなかったということだ。賊かもしれないからこそ、敢えて先に仕掛けた。先手必勝。確かに、生き残るための行動だ。
「……へぇ」
暗くて表情も良く見えない中、目だけが野生動物の様に光っている。蝋燭の光で赤く、燃えるように。
「根性あるなぁ」
男は、煙草を銜えた唇の端をゆっくりと吊り上げる。久々に浮かべた笑みだった。心臓が熱くなる感覚は、生まれて初めてだ。彼の炎が移り火したのかもしれない。
野生動物のような生命力に、首の枷は余りにも不似合であった。
「お前さ」
男が何かを言い掛けた、それを遮るかのように階上から囂しく誰かが階段を下りてくる気配がした。姿を現したのは売春窟の主だ。
「殺さないでくれ! そいつは旦那の標的じゃないだろう!」
奴隷の姿を背に隠すようにして男と対峙するも、男への恐怖からか一歩下がる。その後ろ足が滑る。足元に広がる血に気付くと顔を強張らせた。
「汚して悪いね」
「そんなことはいいんだ。その分の金は貰ってる」
媚びた様な引き攣り笑顔には隠し切れない焦燥と不安が旁魄している。
男がこの売春窟で暗殺を行う際、主に協力を求めた時はもっと鷹揚としていた。つまり、この焦燥と不安は奴隷の命が脅かされた為だ。
奴隷一人の生死は、特にこういう立場の人間の感情を微塵も動かす事はない筈だ。男は僅かな違和感を抱く。主は肩越しに奴隷を見やる。
「部屋に戻ってろ」
奴隷は無言で、しかし主人の命に従ってその場から去ろうとした。今度は無警戒に黒衣の男に背を向ける。主人が止める間もなかった。
音もなく距離を詰め、奴隷の腕を掴んだのは黒衣の男だった。抵抗のない体を腕に中に引き寄せて、その目を覗き込む。
赤く燃えていると思った瞳は、夜の湖のように黒く澄んでいた。自分の顔が写り込んでいる。
初めて真面に見た顔は、想像よりもずっと整っていた。
「欲しい」
目を覗き込んだまま囁く。奴隷は、吃驚した様に切れ長の猫目を真丸にした。
「一夜をご所望で?」
床の死体を避けて二人に近付く主の浮かべた表情は、安堵に近かっただろう。手巾で汗を拭い、
「こいつは特定の客しか取らない。だが、高名な旦那になら特別に」
「んにゃ、身請けしたい」
早口で捲し立てられる言葉を男は遮った。
「売れない」
それに対する主の返答も早かった。短く、強い拒絶だった。
「売れないし、例え売り物だったとて、旦那には買えやしないだろうさ。こいつは法外な値で買った」
主人が口にした値段は確かに法外だった。男を畏怖しながらも、粗末な服装を侮っているのは確かだろう。刺繍の一つもない男の衣服は腕に抱く奴隷の物よりも遥かに安価な物だ。主の纏う外衣には奴隷の物とは比較に成らない程の金糸銀糸が煌びやかに刺繍されている。
「買った時に積み上げた金貨は山を作っただろう。売る時は、その三倍は付けるつもりだ」
主人が語った言葉に嘘はなかった。嘘を吐く必要がなかったからだ。そして、男にも、その言葉が嘘か本当かを見極める必要はなかった。
男は奴隷の体を離す。腰に無造作に下げている小さな革袋を取り外すと、主に黙って手渡した。受け取って中を覗き込んだ主人の体が瘧に懸ったように震え始める。
より嵩張らずより高価な物に換金して旅の炉銀とするのは旅人には良くあることだ。
しかし、皮袋一杯の金剛石。桁外れの富だった。人の慾が抗う事を拒む程の。
「それで足りるかな。さっき言ってた額の十倍はあると思うんだけど」
最早、主の口から言葉は出て来なかった。
「枷は外して」
言われるがまま主は数多の鍵が垂下した束から一つを摘むと、未だ震える手で奴隷の手足から桎梏を外す。そして首輪に付いた鎖を差し出した。
だが、男はその鎖を受け取らなかった。代わりに、手を差し出す。
呆然と奴隷は黒衣の男を見た。差し伸べられた手。反対の手には首を詰めた革袋。死神が存在するとしたら、この男の様な形をしているのだろう。
「一緒に来てくれる?」
奴隷は答えなかったが、躊躇いがちに手を握り返した。
死神の行く先は地獄かもしれない。しかし今はこの手の温もりを信じたかった。
主人の手から滑り落ちた鎖が鎖同士ぶつかり合って甲高い悲鳴を上げる。
鎖の音を引き摺った奴隷と、黒衣の男と。
「楽しい余生を」
そう別れの言葉を告げられた売春窟の主は、二人をただ見送ることしか出来なかった。
黒衣の男が一瞥もしなかった、そして男の物となった奴僕が振り返りもしなかった彼の部屋の扉にはこう刻まれていた。
紅の蓮、と。
扉に刻まれた花の名は、その部屋の奴隷を指す符牒だ。
しかし、赤い蓮に如何なる含意があるのか、二人はまだ知らない。
「俺は久保田誠人。お前は?」
「時任。……時任稔」