「葛西さん。時任見てない?」
西館1階ロビーで他の刑事に指示を与えていた葛西さんに、久保田探偵はそう声を掛けました。
葛西刑事は甥のその、平素と変わらない表情ながらも、怪盗と対峙していた時よりも遥かに真剣な空気に面食らいましたが、
「時坊?見てねぇな」
と首を傾げました。
二人のやり取りを見た新木さんが、横から口を挟みます。
「時任君?時任君なら東館じゃないのかな。君が東館に来るよう伝えてくれって僕に言ったんじゃないか」
久保田探偵が細い目をほんの少し見開きました。
それだけなのに、新木さんの背筋が思わず強張ります。
「言ってないよ?」
「へ?」
「俺、建物の裏でずっと煙草吸ってたんだけど。一人で」
「……へ?」
ワケがわからない新木さんは呆けたような声を出しますが、久保田探偵はそれに構うことなく背を向けて、東館の方に駆け出します。
探偵のただならぬ様子に葛西さんと新木さんが慌てて後を追います。
東館1階の重厚な樫の扉はどっしりと閉まっているように見えました。
しかし、久保田探偵がノブを回すと簡単に扉は開きました。
葛西さんが訝しげな顔をします。
「鍵が開いている?」
東館は封鎖されていた筈です。
葛西さんにもある予感が過り、顔に緊張を走らせました。
「時任!」
久保田探偵が大声で時任少年の名を呼びます。
薄暗い館内はシンとして、何の気配もありません。
探偵は注意深く隅から隅まで目を走らせながら、ずんずんと館内を進んでいきます。
窓がないために外光の射さない室内は暗く、見上げた階段の上には真の暗闇が蟠っています。
懐中電燈を点けて、三人はそれぞれ時任少年の名前を呼びながら上へと上がっていきました。
最上階である、唯一月光とステンドグラスの光に揺れる3階。
そこにも、時任少年の姿はありませんでした。
「おかしいな……」
四隅に懐中電燈の光を当てる二人の刑事。
久保田探偵はふと目をやると、ステンドグラスを背にした一際大きなガラスケースに気付きました。
その中には鎮座している筈の宝がなく、代わりに一枚のカードが置かれています。
探偵がガラスケースに手を掛けると、固く施錠されている筈の鍵はまたしても開いており、カードを手に取ると印字された文字に目を走らせます。
『十二時。黒い子猫と暁の緑涙を頂戴しました――黒蜥蜴』
「黒蜥蜴……」
「黒蜥蜴だと!?」
「なんで黒蜥蜴が!?」
久保田探偵の漏らした名前を耳にし、葛西さん達が驚いて掛けよってきました。
そして、ガラスケースの中の異常に気付きます。
「『暁の緑涙』をやられたか……」
「ウチの大事な黒猫もね」
探偵は葛西さんにカードを手渡しました。
それを見ながら再度、なんで黒蜥蜴が……と呟きます。
「実はさっき、真田さんから電話があったんだよねぇ」
何で二十面相がお前の携帯番号を知ってやがるんだよ、とは流石に葛西さんでもつっこめませんでした。
「で、野郎はなんて?」
「端的に言えば『今回の予告状も二十面相も偽物。ある誰かと協力した』」
「二重の替え玉か……」
渋面を作り、がりがりと絆創膏の上を親指で掻きます。
久保田探偵も頭を掻いて、
「流石に盲点だった。確かに違和感は感じてたんだよなぁ。バニラの匂いがしなかったから。アークロイヤルの」
「しかし、まさか野郎が黒蜥蜴と組むとはな」
世間の認識では二人はライバルです。実際は兎も角も商売仇であることは事実です。
「利害の一致から……って言ってたね。確かに今回は先入観の盲点を突かれたな。予告状通りに犯罪が行われるという先入観。
まぁこれは真田さんの目的が俺を誘き出すことで犯行は二の次っていう特殊な事情があるから、普段なら割と信頼に足るものなんだけど。本物なら」
なんか嫌な信頼でした。
「でも偽物だったワケだし?普通に考えれば予告状なんて百害あって一利なし、陽動に使う方が賢いやり方ではある。
警察の方でも真田さんの予告状には事情が事情だけに信頼をおいてたし、だからこそ今回の犯行は成り立ったワケだけど」
「逃げたと見せかけてぬけぬけと現場に残ってるとも思わなかったしな。しかしいいのか?誠人。
冷静に分析してる場合じゃないだろう。時坊が攫われたんだぞ」
「冷静に見えるんだ」
久保田探偵が薄く笑いました。
「そっか」
「…………」
言葉を失う二人。
そして悟ります。久保田探偵が見た目以上に動揺していることを。
普段頼まれても中々することのない推理を披露して思考を冷やそうとするほど、頭に血が上っていることを。
そういう時の久保田探偵は世間のイメージとは裏腹に、知略ではなく暴力で事の解決を図ろうとすることを身に染みて知っている葛西さん達は内心冷や汗をかいていましたが、そんな彼らに向かって見た目はいつも通り飄々と、
「盗まれたのが時任である以上、絶対に取り戻すけどね。ついででよかったら『暁の緑涙』も探してくるけど」
「ああ……ついででいい。時坊を頼む」
「当然」
不敵な微笑を浮かべた久保田探偵はそれ以上二人と言葉を交わすことなく背を向け、現場を後にしました。
懐から携帯を取り出し、電話をかけます。
「もしもし?桂木ちゃん。……うん。『泣かない未明』は無事だったんだけど、ちょっとね。詳しい話は後でするから相浦に代わってもらえる?」
午後一時の少し前。
猫背気味なその背中を、月だけが黙って淡く照らしていました。