時任可愛い
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ヒタヒタと迫る足音を背後に感じて、俺は振りかえる。

――誰もいない。

薄暗い夜道に、うらぶれたような電灯が灯ってるだけだ。

夜明けの町に俺一人がここに立っている。

ひんやりと冷たい風が静かに頬を撫でて消えていく。


誰の姿も、ない。

でも、確かに、何か、いる。

「……」

背を向けると、またねっとりと絡みつくような視線を感じて振り返りたい衝動に駆られたが、

ぐっと前を見て振り切るように走り出す。

後ろでも足音が速くなったが、全力で走ってマンションに駆け込んだ。

部屋のドアを乱暴に開いて、思いっきり閉める。

鍵を閉めてから、ずるずるとドアにそってしゃがみ込んだ。

そのままで暫く暗い中、荒い息を吐き続けて。

「……はぁ……はぁ……なんなんだよ……もぉ……」

ひりつく喉の奥から出てきたのは、情けない泣き言だった。

「久保ちゃんの……馬鹿野郎……」
























「時任さ、最近顔色悪くない?」

「わッ……なんだよ、久保ちゃん!」

見上げていた空が突然久保ちゃんの顔に覆われて、思わず驚いた声を出してしまう。

少しボーっとしていたらしい。

「巡回中も妙に上の空だったしさ。何か悩みでもあんの?」

部室の窓際で空を仰いでいた俺の体を腕で囲うようにして、久保ちゃんが立っている。

沈みかけている日のオレンジの光がその顔に濃い陰影をつけていて、妙に男前に見えた。

「なんでもねーよ。気のせいじゃね」

ホントは上の空なコトも、元気がないのも自覚していたけど、言いたくなかったから強がって誤魔化す。

久保ちゃんは声音に少しの心配を滲ませて、

「ホントに?」

なんて言って、更に顔を近づけてきた。

ぐっと縮まる久保ちゃんとの距離。

……後ろは窓だし、顔を逸らす余地がない。

それに、逸らす理由もない。

そのまま睨めっこしてるみたいに細い目を見上げ続けていると、

久保ちゃんは何故か苦笑とも自嘲ともとれない複雑そうな笑みを口の端に浮かべて、体を離した。

……最近、久保ちゃんはことあるごとに顔を近づけて、じっと目を見て、それを繰り返している。

何か言いたげでもあるし……俺よりよっぽどアイツのが悩みあるっぽい。

「ハイハイ。イチャついでないで手伝ってよ」

桂木が呆れたような顔を書類から上げて、コッチを振りかえった。

「文化祭まで一週間とちょっとしかないんだからね。まったく。なーんで本部の仕事を手伝わなきゃなんないのよ」

「ウチの仕事は当日警備その他がメインだからねぇ。本部の皆サン、てんてこ舞いらしいし?執行部も一応生徒会だから、

手伝ってあげなきゃ可哀想っしょ」

「ならちゃんと仕事してよね!!」

「ほーい」

桂木に一喝されて、久保ちゃんは素直に机に戻ると積まれた書類の一枚を手に取る。

カリカリとシャーペンを動かす久保ちゃんのワイシャツを俺は掴んだ。

「なぁ……今日も一緒に帰れねぇの?」

思っていたよりもずっと弱々しい自分の言葉に、自分でも驚く。

久保ちゃんが俺を見た。分厚いレンズの奥の細めが驚いたように少し見開かれている。

「うん……ごめんね」

申し訳なさそうな声音で謝って、くしゃりと俺の髪を撫でた。

校則や俺達に逆らう奴は容赦なく殴り飛ばす手も俺に触れる時はそっと、まるで壊れ物を扱う時のように触れていく。

例外なく。いつでも。

久保ちゃんは、優しい。

その優しい感触が辛くなって、

「別にいーけどッ!」

なんて虚勢を張った声を上げて、鞄を掴むと、

「じゃーなッ!」

後ろを振り返らずに教室を出た。

……久保ちゃんの馬鹿。

暗い廊下をとぼとぼ歩きながら心の中で悪態をつく。

執行部が本部の仕事を手伝わされてる中で、久保ちゃんだけは別枠で松本に扱き使われていた。

毎日遅くまで何かさせられていて、あまりに遅いから最近は一人で帰る羽目になっている。

面白くねぇ。久保ちゃんは松本の所有物かよッ!!

好き勝手使いやがって。

大体、久保ちゃんも久保ちゃんだ。

一円だか十円だかの借りの為にいっつまでもいいように……

十円がなんだよ。俺より十円のが大切なのかよ。

久保ちゃんの馬鹿。

八つ当たり気味に呟く。

そんなこと言ったって、しょーがねーんだけど。

あのことだって言ってねぇし言う気もねぇし。

弱いトコを見せるのは嫌だった。

誰にでも。例え久保ちゃんでも。

学校を出て、電車に乗る。

窓の外は暗く、月がぼんやりと白く光っていた。

横浜の夜景に重なって、自分の顔が窓ガラスに映り込んでいる。

――シケた面。

自覚していた。鉛玉でも飲み込んだような胸の内。

電車を下りてからマンションまでの帰路が憂鬱だった。

はぁ……

俺はここんとこ毎日、誰かに後を付けられていた。マンションまで。

ストーカーっつーの?目的は分かんねぇんだけど。

ホント、ただ後ろを着いてくるだけ。

鬱陶しいっつーか気味悪ぃっつーか。

ぶん殴ってやろうと思って待ち構えていても、一向に姿現す気配ねーし。

とっ捕まえようにも、影も形も見当たんねーし。

最近じゃもぉ無視することにしたけど、背後を取られ続けるのは意外とストレスが溜まって、

今日みたいな弱音が出ちまう。

天下の時任サマが、ストーカ-如きに、こんな。

揺れと共に電車が止まる。

人の波に押し出され、流れのまま改札を抜けた。

駅前はまだ人が多い。

それが家に近づくにつれ、人通りがまばらになっていく。

駅からマンションなんて大した距離はねぇけど、ほんの少し、人気の途絶える道がある。

だからか、感じる。背後の気配を。

繁華街を抜け、住宅街に向かっていつもと同じ足取りで歩いていく。角を曲がった、その時――

――きた。

ざらりと不快に神経を撫でる、その視線。

幾多の音に混ざって、俺に向かってくる、足音。

着けられて、る。

いつもよりソレに早く気づいたのは、人気があっても分かる程のあからさまな視線と気配のせいだ。

いつもは、それこそ俺じゃなきゃ気づかなかったんじゃねぇのってぐらい、

俺でさえ人がいないあの道でしか気づけなかったくらい、巧妙でソツのないストーキングしてきやがる癖に。

慢心か罠か……

思考に沈みかけて、はっと我に返る。

――冗談じゃねぇ。

俺をうじうじ悩ませんのはあの眼鏡一人で十分だっつーのッ!

俺は突然駆け出すと、帰宅ルートを外れて違う道に入る。

背後で焦る気配を感じたが、構わず走ってって、近くにある公園に入り込んだ。

そして、茂みの後ろに隠れると息を殺してじっと待つ。

静かな公園にざわざわと風に揺れる木々のざわめきと虫の音だけが、満ちている。

僅かな街灯と月明かりだけが光源。

闇の中、五感を鋭敏にし目を凝らしていると、

思った通り俺をストーキングしてたらしい男が息を乱しながら走り込んできた。

「――ッ!?」

暗くて姿は見えなかったけど、キョロキョロと公園内を見回す仕草は見える。

……俺を探してるのか……

……なんだ。

今までどんなに頑張っても姿を捉えることが出来なかったストーカー野郎を目の前にして、俺は拍子抜けした。

なんだ。大したことねぇじゃん。

ただの馬鹿じゃん。

……ホントはストーカーなんてずっと大したことないと思ってて、

怖くもねぇし、久保ちゃんに言うまでもないって思ってた。でも……

何するにしても、何されるにしても、久保ちゃんがいるのといないのとじゃ、全然違う。

……そっか。なんだ。俺、ストーカーに落ち込んでたんじゃなくて、

久保ちゃんと一緒に帰れねぇことに落ち込んでたのか。なんだ。

ばっかみてぇ。

俺は笑うと、気づかれないように男の背後に回る。

そして思いっきり蹴りを叩き込んでやった。

「でりゃぁッ!!」

「がはぁッ!!」

ストーカー野郎の体は地面を擦りながら派手にすっ飛んだ。

そして地面に横たわったままピクリともしない。

「……あれ?」

失神するほど強く蹴ったつもりはなかったんだけどな……

今までの鬱憤やらなんやらで余計な力、入っちまったのかも。

もしかして、死んじまってたりして……

倒れたままの男にゆっくりと歩み寄ると、覗き込むように顔を近づけた。

プシューッ!!

「うわッ!!」

途端、失神のふりしてたソイツに何かを顔の前に突きつけられて、咄嗟に後ろに下がった。

しかし吹き付けられたソレをモロ顔面に浴びてしまう。

「げほッげほッげほッ!!」

眼と喉が焼けるように痛い。

焼けた砂をぶっ掛けられたような感じ。

激しく咳き込みながら、勝手にボロボロと流れる涙を止めようと苦戦してると、

足払いを掛けられてその場にすっ転んだ。

「――げほッ!」

辛うじて受身を取ったものの、腰を強打する。

ってぇなぁッ!!

足や腕を押さえ込んでこようとする気配を感じて、相変わらずまともに息を出来ないし瞼も上がらないままだったけど、

めちゃくちゃに手足を動かして抵抗した。

でも、見えない分の悪さを埋めることは出来なかった。

腕を掴まれ上半身を押さえ込まれてしまう。

喉は大分楽になってきたけど、眼球は依然熱く疼き、視力が回復するのには時間がかかりそうだった。

当てずっぽうでストーカー目掛けて肩を捻ろうとした瞬間、何か生暖かく滑ったモノが、首筋の肌を這う感触。

――ぞわッ

何されてるか分からないながらも、生理的な嫌悪感に全身が総毛だつ。

「げほッ……てめッ……」

ぶっ殺すッ!!

その言葉が舌に乗る前に、人が殴られる鈍い音が響いて俺の上から不快な重みが消失した。

訝しく思う間もなく、

「時任」

俺の名を呼ぶ声が、鼓膜を震わせる。

ここで聞こえる筈のない、声。

「久保ちゃ…ん……」

「ちょっと待ってな」

状況が掴めず混乱する俺を置いて、足音が遠ざかる。

そう遠くない所で蛇口から水が流れるような音がして、すぐに止まった。

戻ってきた足音は俺のすぐ傍で止まり、冷たい水が雨のように瞼の上へと降ってきて、思わずビクッと肩を揺らしてしまう。

「大丈夫だから。目ぇ洗って」

久保ちゃんの声に促されて、俺は恐る恐る熱を持った瞼を押し上げた。

痛みと熱で堅く閉じた瞼を無理やり開けるのは結構大変だったけれど、何とか抉じ開けて眼球を水で洗い流す。

冷たさが瞼を撫で眼球を滑り頬を流れて、喉元のトレーナーを濡らしていく。

少量の水でも嘘のように痛みが引いていった。毒だかスプレーだか知んねぇけどそれほど威力のあるモンでもなかったらしい。

濡れた顔を制服の袖で拭うと、顔を上げた。

やっと回復した視界には、夜を背景に、濡れたハンカチを手に持って佇む久保ちゃんの姿が映る。

眼鏡のせいでその表情ははっきりとは分からない。

でもまぎれもなく久保ちゃんだった。

顔が見えて、それでやっとここに久保ちゃんがいるという実感が込み上げてくる。

なんだかどっと力が抜けてしまった。

へなへなと地面に手を付いて体を支える。

「久保ちゃん……なんで……」

何でここにいるんだ?本部は?仕事は?

混乱を隠さずぶつけると、俺を見下ろす視線がちょっと優しくなったような気がした。

「お前の様子が変だったから、本部の仕事放って追いかけてきた」

時任の方が大切だからさ?

当たり前のようにそう言われて、胸に痞えていたもやもやがぱっと霧散する。

現金だな俺。

「ってか、俺、何ぶっかけられたんだ?」

「変態撃退用の催涙スプレー。唐辛子成分の」

「変態が変態撃退グッズ使うなよなッ!!」

そしてんなもんをこのビューティー時任様の顔面に吹き掛けやがったことにもちょーぜつに腹が立つ。

ぶっ殺すッ!!

キッと久保ちゃんの足元に死体みたいに転がったストーカー野郎を睨み付けた。

俺がぶっ殺すまでもなく既に死んでそうな有様だった。微動だにしない。

殴打音は一回しかしなかった。

一発で久保ちゃんはこの男を沈めたことになる。

辛うじて息をしてはいるようだったが、さっきの演技とは違って完全に意識を失っているらしいソイツ。

もしかしたら殺してもいいくらいの気持ちで殴ったのかもしれない。

……久保ちゃんが手加減無しで殴るような、状況だったということ。

「……もしかして危機一髪だった?俺」

「うん」

即答した久保ちゃんの『うん』が何だか重かった。

どんな顔してるのかはやっぱり良く見えない。

ただじっと俺の顔を見つめ続けている。

思案するように。思いつめるように。

久保ちゃんは地面に座り込んだままの俺に手を差し出した。

「……時任ってさ、しつこい変態に好かれそうな顔してるよね」

脈絡もなく失礼なことを言われてムカっとくる。

「俺サマの美貌に不吉な難癖つけるなよ」

不機嫌に吐き捨てて、俺は差し出された久保田ちゃんの手に掴まる。

体を起こしてもらい立ち上がると、地面に伸びてる変態ストーカー野郎にもう一度蹴りを入れた。

ったく。久保田ちゃんが来てくれなかったら今頃、組み敷かれた俺が何されてたかなんて考えるだけで鳥肌が立つ。

女の子のストーカーだったら分かっけど、男だぜ男?

ぶちぶちと文句を垂れ続ける俺のそんな様子を見つめながら、久保田ちゃんが意味深な微笑みを浮かべた。

そして。



「だって、俺も時任のこと、好きだしさ?」



「…………はぁ?」

あまりに唐突すぎる言葉に一瞬で思考が止まる。

固まった俺に構わず、久保ちゃんは更に言葉を続けた。

「俺、しつこい上に変態だし」

「へ、変態って……」

「変態だよ。俺、いつも頭の中で時任にすーごいことしちゃってたし」

「ッ!!」

「気づいてなかったの?」

久保ちゃんがくっと喉の奥で笑った。

「好きだよ。時任。ホントに気づいてなかったの?」

重ねるようにそう言われて、俺は何も言葉が浮かばずただたじろぐ。


俺、ホントに分かってなかったのか?


久保ちゃんがなんでキスするみたいな距離で俺を見つめてたのか。


あんなに切なそうな目で、なんで俺を見てたのか。


なんであんな笑い方してたのか。


久保ちゃんが優しい意味を。


いつでも、何処でも、俺には、俺にだけ優しいその意味を。



ホントに気づいてなかったのか?


だって、俺は……

「俺は……俺も久保ちゃんのこと好きだけど……多分久保ちゃんの言ってる好きと同じなのかは、まだ、分かんねぇ」

「……だろうと思ってた」

久保ちゃんは肩を竦めた。

その皮肉っぽい仕草に構わず、眼鏡の奥の見えない瞳を真っ直ぐ見据えて言葉を続ける。


「好きとか、まだ良く分かんねぇけど……俺、久保ちゃんになら何されてもいい」


「……そんなこと言って、知らないよ?何するかわかんないし俺」

久保ちゃんが俺に向かって手を伸ばした。

思わず体が強張ってしまったけれど、久保ちゃんは俺を、柔らかく、そっと、ただ抱き締めた。

制服越しに伝わる温度。

見知ったモノである筈なのに、一度意識してしまうとソレが全然知らない熱であるような気がしてきてしまう。

なんだか久保ちゃんの顔が見辛くって胸元に顔を埋めると、ワイシャツに染み付いた煙草の香りが鼻腔を擽った。

急に滅茶苦茶恥ずかしくなってかーッと顔に血が集まってくる。

何赤面してるんだよ俺!!

俺の葛藤なんてお構いなしに耳元で響く低い声。

「まだ待つからさ?」

お前の『好き』が俺と同じになるまで。

いずれそーなることを確信してるような言い方。

自信があるんだかないんだか意味不明な奴。

心の中でそうボヤいたけど、半分照れ隠しだ。

顔を上げない俺の髪を撫でながら久保ちゃんは、

「後さ、一個、先に謝っておきたいことがあるんだけど」

なんて言い出した。

「……なんだよ」

「最近、お前を着けてたストーカー、実は俺」

「はぁ!?」

さらりと言われた信じらんねぇ衝撃発言に、流石に顔を上げて久保ちゃんに詰め寄る。

「ちょ……じゃ、この男は何なんだよッ!!」

「ただの変態」

「ストーカーって、何やってんだよお前!!」

「んー?文化祭の準備とか何だかんだでお前も帰るの結構遅かったでしょ?

最近日が暮れるの早いなぁとか考えながらお前の背中眺めてたら、いつの間にか家だった。」

「毎日!?」

「毎日。怒ると思ったから気づかれないように見てたのに、お前ってば結構鋭いからねぇ」

結構鋭いからねぇじゃねぇだろーがッ!!

俺が落ち込んでたのは、徹頭徹尾お前のせいかよ。畜生。

呆れ果てて体から力が抜けまくったっつーのッ!

いつも無茶苦茶やる男だけど、今回は種類の違う無茶苦茶っつーか少なくとも俺には理解できねぇっつーか。

でも、久保ちゃんが俺を好きで、俺が久保ちゃんの傍にいる限り、これからもこんな感じなんだろうなぁと思う。

「女じゃあるまいし、そこまですることねーだろ!!」

「でも現に今日こーして襲われてたじゃない」

そう言われてぐっと言葉に詰まった。

そーなんだけど!……でも……なんか……

釈然としない、けど、

「無事で良かった」

とか笑う久保ちゃんの顔見てるとどーでも良くなった。

「さて、と。この変態を警察に突き出して帰りますか」

「俺はお前も突き出したい気分だけどな」

軽口を叩き合いながら、十月の夜空を見上げる。

俺を落ち込ませ悩ませていた問題は全て解決したように見えて、その実、新しい悩みが出てきただけな気もして正直、複雑だ。

俺が好きだと告白してきた久保ちゃんへの態度とか、

実はしつこくて変態らしい久保ちゃんと一緒にいて果たして俺様は大丈夫なんだろうかとか。

何より、久保ちゃんがいなきゃ沈んでしまう自分の心にいい加減向き合わなきゃなんねぇ。

待っててくれるらしいからな。そんな急ぐこともねぇか。

そんな事を考え、黒い空から隣に視線を移す。

まだ気絶してる変態野郎の背中に片足を乗せて、携帯で110番通報してる久保ちゃんを見ながら、

何されてもいいなんて咄嗟に言っちまったけど……




















久保ちゃん、何する気なんだろう、なんて少し背筋が寒くなったりもした。

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掻き毟りたい、この瘡蓋を。

 

理由なんて、雨が降ってるからでいい。
「ちょっとどいて?」
ゲームをしていた時任は、横に立つ俺を見上げて不機嫌そうに眉をしかめ、しかしちゃんと横にずれる。
「そうじゃなくて」
「は?」
ずずっと時任の体を前に押し出す。
ソファとの間に出来た隙間にどっかり腰を下ろすと、時任を後ろから抱き締めた。
「……何だよ」
「後ろ抱っこ」
「……………」
俺を無視してゲームを再開するけど、時々ギュッと力を込められる感触が邪魔になったのか集中できなくなったのか(まぁ確信犯なんだけど)コントローラーを放り出した。
ガチャンッ――音を立てて落ちる。
壊れるよ?そうは言わず、更にキツく抱き締める。
時任は溜め息をついて、俺の頭を軽く撫でた。
それは、優しい優しい感触。
傷に瘡蓋を被せるような。
そう、瘡蓋だ。まるで。
痛みも、傷ついたことすらも認識できず、故に瘡蓋も出来なかった傷口に一つ一つ時任は瘡蓋を被せていく。
出血もせずただぽっかりと空いていた穴は、今、少しの痛みと共に沢山の血を内包している。
傷を負わない人生はないけれど、時任が居る限りそれらには全てちゃんと瘡蓋で守られる。そんな気もする。
もしかしたら、傷だらけ穴だらけの心はいつか綺麗に癒えるのかもしれない。
少なくとも時任は、そう信じているのだろう。
でも知ってる?時任。
瘡蓋ってとっても痒いんだよ。
「久保ちゃんってホント、後ろから抱きつくの好きだよな―」
時任が笑うのを触れる肌から感じた。

 

正面から抱き合いたいなんて思ってもいない癖に。
心を満たせば体も満たされる、そんな風に考えてるワケ?
後ろで抱き締めている俺が何考えてるか知りもせずに。
後ろから抱き締める事しか出来ない俺が何したいか知りもせずに。
っていうか、俺が絶対お前にそーゆーこと思う筈ないなんて信じちゃってるんでしょ。
この瘡蓋が何時か綺麗に癒えると信じているように。

 

そう。剥がれた瘡蓋は血を吹き出し、僕を血まみれにするだろう。
君を傷付けた僕は多分、そんな姿で笑うに違いない。

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Nicotinism




















それは中毒


















この猫は好奇心が強い。

今日の興味の対象は久保田の銜えているセッタだった。

じぃっと穴が空くほど見詰められ、久保田は苦笑すると、

「吸ってみる?」

己の銜えていたそれを差し出す。

頷いて受け取った時任は、恐る恐る銜えて煙を吸い込んでみる。

そして久保田の予想通り盛大に噎せて咳き込んだ。

「~~~~にっが!!けっむ!!まっず~~~ッ!!」

たった一吸いで突き返すと、涙目でそう喚く。

久保田は笑って、殊更美味そうに煙を吸って紫煙を吐き出した。

「まぁ、最初は大体そーだよね」

「もう二度と吸わねー」

どうやらセッタは猫のお気に召さず、その上機嫌まで損ねたらしい。

眉を顰めて睨むようにして久保田と口元の煙草を見ている。

時任が煙草に興味を抱いたのは、久保田が毎日毎時間絶えず美味そうに吸っていた為であり、

そんな久保田に時任は騙された、と、八つ当たりに近い思いを抱いていた。

久保田が執着しているから興味を抱いたのだ。

「こんなんの何がいいんだよ!わけわかんねぇ」

不貞腐れたまま拗ねたように言う。

「苦いしまっずいのにさぁ」

「苦いし不味くても病み付きになるモノってあるっしょ」

「ねーよそんなん」

久保田は意味深に笑っている。

「例えば」

久保田は身を乗り出すと、時任の頭を引き寄せ唇を重ねた。

啄ばむように何度も唇を擦り合わせ、粘膜を舌で舐める。

微かに開いた隙間から舌を差し込めば、唾液と舌が絡み合って濡れた音が静かな部屋に響く。

時々漏れる苦しげな吐息。

ゆっくりと唇を離すと、目元を上気させた時任の潤んだ瞳を覗き込む。

「煙草を吸ってる俺のキスはとっても苦い筈だけど、時任は嫌いじゃないでしょ?」

俺は甘いけどね。

そう言って、ちゅっと目元にキスを落とす。

時任は答えず、顔を赤くしたまま唸った。

手には火の付いたセッタを持ったままだ。

その余裕が時任は悔しかった。

「煙草の成分にね、ニコチンってあるんだけど」

とんっと灰皿に灰を落とし、また紫煙を吸う。

「麻薬みたいなもんでね、その強い依存性でニコチンなしじゃいられなくなるんだよ。苦くても欲しくなるのはその所為」

代償は多く、その中には生すらも含まれている。

それでも抗うのが不可能な引力で求めさせる。

目の前の、この猫のことだ。

「……じゃあ」

ぐいっと久保田の顔を引き寄せ、近い距離を更に狭めると時任は囁くように言った。

「俺が久保ちゃんとすっげぇキスがしたくなんのはニコチンのせいだな。久保ちゃんのキス……苦いし」

お前のせいで俺までニコチン中毒だと、笑う時任。

それは久保田の余裕を崩したい時任の天邪鬼な答えだったが、久保田にとっては欲を煽るものでしかなかった。

身体の奥から迫り上げてくる飢餓感の様な何かが情欲を伴って全身を支配する。

「時任が中毒なのはニコチンじゃなくて俺でしょ」

そう囁き返して、邪魔になった吸殻を灰皿に押し付けた。























二人、身を焦がすのは、



手遅れなくらい重度の依存症。

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結局尽きて終わり。


















sandglass
















「つまんねー……飽きた!」

彼のこの台詞を耳にするのは何度目だろう。

「そんだけやればねぇ」

愛想のない活字の羅列から目線を足元に移すのと、時任がコントローラーを床に放り出すのとはほぼ同時だった。

壊れないといいけど、と、どこか他人事のように久保田はのほほんと思う。

そして、つまんない、飽きたを連呼する時任をどう宥めようかと考える。

ビデオ映画か、漫画か、外出か……

とにかく何か『楽しいもの』を提供しないと、彼の機嫌は悪化する一方だ。

問題点は明瞭で、何度もそれを指摘しているのに彼は自分のやり方を変えようとはしない。

面白いと思ったら我慢できず猪突猛進で、やり込んで、結果すぐに飽きる。

楽しいから楽しい。好きだから好き。

理論がない故に単純で正しい論理。

彼自身のような。

『楽しいもの』ねぇ……

『楽しいもの』という抽象的な概念を提示されて直ぐに思い浮かぶようなものは、久保田にはない。

あくまでも過去の経験から時任が楽しそうにしていたものを『楽しいもの』と判断しているに過ぎなかった。

それでも、時任が楽しそうだと、ああ楽しいなと思う。

別に、楽しいや嬉しいなどの感情を久保田が感じられない訳ではない。

これまでも楽しい、と感じたことがない訳ではなくて――でも、自信がないのだ。

本当に楽しいのか。これが正しい『楽しい』なのか。

だから、時任が同じ物を見て笑って「面白い」と言って楽しいと全身で表現しているのを見て、久保田も『楽しい』と思う。

これが『楽しい』んだと認識する。教えられる。

傍に居たいと思っているのはそれだけが理由ではなかったけれど。

自分の足元にどっかりと座っている彼の後頭部をじっと見つめる。

黒く艶やかな髪。床にどっかりと座り込んだ尊大な背中。

背後の久保田には無関心なように見えて、その実、気づかれないよう何度もちらちらと久保田の方を伺っている。

向けられるのは『楽しいもの』を提示される期待に満ちた眼差し。

そんな微笑ましい挙動にか、それともさり気無く自分が必要とされていることに対してか、久保田は微笑んだ。

微笑んで、新聞を畳むと脇に置く。



傍に居たいなと思う。

ずっとずっと。

そんな願いを抱く度、砂の落ちる音を感じる。

終わりを意識させる音。



久保田は提案した。

「ゲーセンにでも行く?」

「行くッ!」

待ってましたとばかりに時任は満面の笑顔を浮かべて答えた。



ああ、今度は。

生温い砂がさらさらと溜まっていく。

満たされる。



「早く行こうぜ」

ともすればすぐにでも飛び出していきそうな彼を、

「その前に片付けなさいって」

そう窘めながらも、口元に浮かぶ柔らかい笑みが消えることはなかった。

















溜まって、落ちて。



落ちて落ちて、溜まって。



そして。















「まーだやるの?」

久保田は流石に呆れて小さく溜め息を吐いた。

時任はさっきから、コインを落として台の上の別のコイン達を落とすゲームにご執心で、

「後ちょっと……」

と言いながら投入されたコインは数知れない。

「いい加減止めときな」

「これが最後…」

「それ聞いたの五回目」

何を言ってもうわの空だ。

彼はどうしても、コインを大量に落としてジャラジャラさせる快感を味わいたいらしい。

確かに、あと一枚絶妙な位置に落とせば雪崩の様にコインが落ちてくる、際どい状況をそれは呈していたのだけれど、

しかしこの種はその状況で何時間も固まっているようなシロモノなのだ。元々。

現に時任が始めてから優に二時間立った今でも、情勢は最初と殆ど変わっていない。

第一、例え大量にコインが得られたとしてもコインで何かが交換できるワケではないから、結局、全部コインを使い切って

このゲームは終わりということになる。

他のゲームと同じく、なんら生産性はない。

よくやるよねぇ……

時任の享楽の為に散った夏目達を思って、久保田は再度溜め息をついた。

まぁ、時任が楽しいんならいいけどね

結局はそこに行き着く思考に、久保田は時任にとびきり甘い己を自覚しない訳にはいかず、今度は苦い笑いを浮かべる。

『楽しい』のかな、それ。

手持ち無沙汰に煙草を弄びながら、コインと時任の指先を見つめた。

最早二人の間に言葉はない。

ポト…ポト…

指先からコインが滑り落ちてゆく。

幾つかがパラパラパラと暗い穴に落ちて。

落ちて。



生きるということは、心に穴を空け続けていくことなんだと彼は認識している。

そこから砂のような何かがこぼれ落ちてゆくのだ。

砂は増えもするけれど、穴は塞がれることもなく永劫さらさらと砂を落とし続ける。

誰かを失って空いた穴だらけの心を抱えて、人は死ぬのだろう。

ある時期までの久保田は、穴も認識できず砂を増やすことも出来ず、だだ失い減らしてゆくのみで。

今は。……多分、容量一杯まで満たされている。

今まで、今も落ち続けている砂の量など問題にならないくらいに。

ああ。

でも。

今度失ったら穴なんかじゃ済まないことも、そして何時の日か必ず失ってしまうことも認識している。

底の抜けた心は己を殺すだろうか?



「くっそーッ!またコインなくなったーッ!もういい!帰ろぜ久保ちゃん!」

「そーだね」

吸いかけの煙草を足で揉み消して、久保田は微笑んだ。



生温い砂漠の中で。

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久保田はその日、その言葉を時任に伝えるのを躊躇っていた。
改まって言うのも気恥ずかしいし、今さらという想いもある。
誰もがソレを言葉にして事を起こすワケではない。
言わずとも良い気もするが、後々面倒なことになりそうだし、いきなりだと時任が驚きのあまり尻尾を毛羽立たせてしまうかもしれない。
何より久保田と時任の関係は、相方。
言葉にしないままなのは、不自然な気がした。

 

時任はその日、ある言葉を久保田に伝えようと懸命になっていた。
滅多に言える言葉ではない。
経験がないので分からないが、恐らくは皆、特別な思いでその言葉を伝えるのだろう。
なら、尚更伝えねばならない。
自分は特別な思いを久保田に抱いているのだから。
そして、だからこそ。
自分以外が久保田にソレを伝えるのは、許せないと思った。

 

「なんっで夏休みに校務があるんだよ……」
「俺に言われても……ねぇ」
愚痴さえも蕩けそうな気温と湿度のコラボレーション。
場所は愛する学舎。
季節は真夏。
ガランとした校舎に部活に勤しむ生徒達の掛け声だけが木霊している。
「夏休みにわざわざ学校でおイタする暇人達が居るとあっちゃねぇ」
「ほんっと理解不能だぜ。こちとら暑すぎて歩くのもめんどくせぇってのに」
「学校なんて後一週間もすれば嫌でも始まるのにね」
時任が隣の久保田を仰ぎ見る。
廊下に時折吹き込む、熱気を帯びた風が撫でる横顔は、言葉とは裏腹に涼しげだ。
「暑くねーのー。久保ちゃん」
「いや、この気温で暑くない奴なんていないと思うけど」
「素直に暑いって言え」
「暑い」
「嘘つけ」
「嘘じゃないよ。汗かいてるでしょ」
「それこそ嘘だろ……」
良く見て、と言われて久保田の首筋に顔をぐっと寄せる。
うっすら汗をかいてるような気のせいなような、いや首よりも前髪に覆われた額の方が汗をかいているのではないだろうか、
そのままの距離で視線を上にやる。
当然、目があった。
思っていたよりも近い距離で。
時任が顔を上げたのは久保田にとっても予想外だったのか、二人は同時に目を見開いて、そして同時に口を開きかけた。
「サボるなんて良い度胸してるじゃない」
背後から聞こえた声に、窓枠に凭れて校庭の方を向いていた二人は揃って振り返る。
其処には声の主、桂木が仁王立ちしていた。
「サボってねーよ、ちゃんと見張ってんだろ」
窓の外を指差す。
指の先には、屋外にある水泳部の部室前でこそこそする人影が三つ。
被害届が出されていた部室荒らしの実行犯だろう。
だが、この距離では人影の顔形までは把握できない。
「見張るだけじゃなくて、止めてきなさいって言ってるの!」
「へいへーい」
暑さで気が立っているのは、執行部の紅一点も同じ。
逆らわない方が良いと判断した二人は、素直に桂木の言葉に従う。
こっそりと、言えない言葉の代わりにため息を吐き出して。

 


「あー……ッちぃ……」
一仕事を終え、時任は熱い息を吐き出した。
足元には三人の男子生徒が仲良く気絶している。
部室荒らしの現行犯で制裁を受けた輩だ。
「夏になんか悪さすんなっての」
「まぁ、でもこーゆー悪さは夏ならではなんでないの?」
悪党の手から零れ落ちた機械を足先で転がして久保田が言う。
恐らく盗撮機。
荒磯に室内プールはないから、屋外プールが活躍するこの季節限定の悪事といえた。
「いわば風物詩?」
「ヤな風物詩」
眉間に皺を寄せた時任は、手で自身を扇ぐ。
「っつかこの部室、マジ暑くね」
「窓ないからねぇ。プールサイドに出たら涼しいかもよ」
そう言って、久保田の手がプールサイドに繋がるドアを静かに開いた。
部屋に流れ込んだのは熱風だ。
しかしその先の青は、確かに涼を孕んでいた。
冷たい水に満ちた場所。
真夏のプール。
釣られる様にしてプールサイドに出た時任は、途端に襲ってきた強い日差しに顔を顰め、日陰へと避難する。
久保田もその後にゆっくりと続いた。
座り込み、頬杖を付いてプールを眺めながら時任は、ぽつりと零す。
「泳ぎてーなー」
「水着あるの?」
「ないけど」
「じゃ、裸で?」
「ばーか」
軽口を叩きながら、せめて視覚からでも涼を得ようと水面に視線を落とす。
夏の凶悪な日差しを反射する水面はキラキラと、ギラギラと揺らめいて光る。
風に含まれる塩素のにおい。
「夏だな」
「そーね」
時任はプールから、すぐ傍に佇む久保田に目を移した。
久保田も時任を見る。
時任が少し笑った。
久保田も少し微笑む。
何時も通りのやり取りがくすぐったくって、嬉しくって、今なら言えそうな気がした。

誕生日、おめでとう。と。

しかし結局は、言えなかった。
「おらぁぁああぁぁあああ!!」
口を開く前に体が反応する。
殺気と怒声を迸らせモップを振り被った影は、久保田の足に蹴飛ばされ、容易くコンクリートの上に転がった。
「ぐふっ!」
もんどりうって苦悶する後ろから、更に二人の人影が現れる。
手にはそれぞれ棒のような得物を持って。
転がって気絶していた筈の部室荒らし達だった。
気絶していたと見せかけて、反撃のチャンスを伺っていたのか。
三人がかりで挑んで一蹴されたことを鑑みれば無駄だと分かりそうなものなのに。
そんなことで。
時任はゆらりと立ち上がった。
「ホントねーよ」
「ないやねぇ」
二人の声音に含まれるものに部室荒らし達は顔を青褪めさせて後悔したが、全ては遅かった。
そして始まった校務執行という名の暴力は、殆ど八つ当たりに近いものだった。

 

「……」
諸々の後始末を終え、部室へと戻ってきた時任は最早暑いという言葉すら出て来ないほどにダレきっていた。
机に上体を完全に委ね、バテた猫の様にぐにゃりと伸びている。
それほどまでにやる気を失って脱力している原因は勿論暑さだったが、拗ねのような感情も幾らか混じっていた。
どいつもこいつも。
久保田も。
自分も。
寝てしまいたいのに、寝ることすらもままならないこの室温。
目を閉じたまま感覚だけで久保田の気配を探る。
座って雑誌でも眺めているのだろうか。
さっき、出て行ったような音を聞いた気がしたけれど。
ああもう、蝉の音がうるさい。
「ほい」
「うわぁッ!」
突然頬を襲った冷たさに、思わず声を上げて飛び起きる。
そこにはアイスを二本持った久保田が立っていた。
時任の頬に触れたのは。
「ガリガリ君……」
久保田から受け取った時任は、早速その氷菓子に齧り付く。
咥内を冷やし喉を通る清涼感は格別だ。
「何時の間に買ってきたんだよ」
「ちょっとひとっ走りね」
恐らく、あまりにも暑さにダレた時任を見かねて、買ってきてくれたのだろう。
歩くのも億劫なこの炎天下の下。
時任はにっと笑って素直に礼を言った。
「さんきゅ」
「俺も食べたかったし」
そう言って笑った久保田の手には味噌田楽アイス。
時任の笑顔が引き攣る。
うーん。まろやか。
等と評しつつ、久保田は平然と茶色い物体を口に運んでいる。
……久保ちゃんが、暑さでおかしくなった。
しかし、久保田の嗜好のおかしさは元々だ。
呆れを諦めに変えて、ガリガリ君を頬張る。
アイスのお陰で幾らか暑さもマシに感じた。
溶けたアイスが滴りそうになって、ぺろりと舐める。
垂れないように、口を窄めてちゅぅっと余分な水分を吸うと、その様子を何故か久保田がじっと見ていた。
久保田のはカップアイスだから、垂れる心配なんてないのだろう。
相変わらず何事にもソツがない。
時任が抱いたのはそんな思いだったが、久保田が注目したのはアイスの形体ではなかった。
「時任……」
久保田が、何か言いたげに時任を呼んだ。
もしかして久保田の自己申告であろうか。
久保田から誕生日を教えて貰えなかったことに不満を抱いていた時任は、
自分が先に言うつもりだったことも忘れ、息を詰めて久保田の言葉を待った。
時任が久保田の誕生日を知ったのは、偶々だった。
一人でコンビニに行った帰り、偶然マンションの前で出会った葛西刑事が独り言のように、
「そういえば、もうすぐ誠人の誕生日だな」
そう言って、時任を見た。
「誕生日……久保ちゃんの!?いつ!!?」
時任は勢い込んで葛西刑事に詰め寄った。
その剣幕に少し驚いたのか眉を上げ、葛西刑事は答えた。
「24日だ。どーせ誠人は忘れてるだろうけどよ」
「…………」
明後日だ。
思いの外、近い日付が告げられて時任は黙り込む。
祝おうにも、明後日じゃプレゼントすら用意できそうにない。
そんな時任の胸の内を知ってか知らずか、
「俺が祝ってやるのも気恥ずかしいし、お前さんが祝ってやれ」
笑って、時任の頭を乱暴に撫でた。
久保田に用事があって来たと言っていたけど、もしかしたらこれを伝えるためにわざわざ訪ねてきたのかもしれない。
「それが一番、誠人も嬉しいだろうよ」
しかしもし本当にそうであるのならば、久保田が直接自分に教えてくれればよかったのだ。
そうしてくれたらこんなに躊躇わなかった。
もっと早く、素直に、祝えていた。
だから。
しかし、久保田の口がその先を時任に伝えることはなかった。
廊下が俄かに騒々しくなり、がらりと部室のドアが開かれる。
「あっっっちぃ~~!!」
「心頭滅却心頭滅却」
「大丈夫か松原。アイスでも食うか」
「あ、室田、俺にも俺にも~」
巡回を終え、ぞろぞろと部室に戻ってきた相浦、松原、室田。
室内に、アイスを手にする二人を見つけ、
「あーッ!自分たちだけずりーぞ!」
相浦が指差して非難する。
だが、反応はない。
二人とも、不自然なまでに動かない。
「……」
「……」
「……どうした?お前ら」
一瞬目を見合わせた久保田と時任は、そのままふいと視線を逸らした。
「いや……」
「なんでもねーよッ!」
黙々とアイスを食べ始める二人の様子は、平素とは明らかに違っていた。
良くは分からないが、何か二人の邪魔をしてしまったのではないだろうか。
相浦は一人、青くなった。
相浦も、松原も室田も桂木も、荒磯高校の生徒誰一人として久保田の誕生日が今日であることを知る者はいない。
時任以外。

 

その後の会話も何だか疎らで、結局お互い何も言えないまま、公務を終えて家へと帰ってきてしまった。
ソファに並んで座る。
テーブルの上には、時任が頑なに食べたいと主張したコンビニケーキが二つ。
チョコケーキとトマトケーキがそれぞれ一切れつつ。
トマトケーキは久保田チョイスだ。
相変わらずの嗜好にどん引きつつ、流石にケーキは露骨過ぎたかと久保田の横顔を伺うが、
取り立てて目に見えるような反応はない。
トマトケーキの味への関心は見受けられたが。
そこじゃねーよ!!
そう言いたいのをぐっと堪える。
時任が言いたいのもそんな台詞ではなかった。
そして久保田は、目に見える反応はしなかったものの、時任がケーキを食べたがったことにしっかり違和感を抱いていた。
違和感と言うなら、今日一日ずっとだ。
朝起きておはようと言った時も、二人の物理的な距離が近づいた時も、プールサイドで襲われた時も、今も。
気のせいではない。
時任は確かに、何か言いたそうだった。
「今日、お前、何か言いたそうじゃなかった?」
「久保ちゃんこそ……」
こういう時の二人は、言葉にしなくてもお互いが考えていることも、タイミングもはっきりと分かった。
せーの。

「キスしたい」
「誕生日おめでとう」

二人の口から同時に放たれた台詞は、お互いにとって想定外のものだった。
「え」
「はぁぁあああ!!?」
二者二様、驚愕を表す。
「何でお前が俺の誕生日知ってんの」
「何でキスなんだよッ!」
これまた同時に互いへの質問を投げかけてしまい、思わず黙り込む。
「……」
「……」
なんで?俺も忘れてたのに。
なんで?この流れで。
「だって、したいんだもん」
「葛西さんからこないだ聞いた」
互いの質問に答え、しかしその答えにどう応えていいのか分からず、結局二人はまた黙り込んだ。
「……」
「……」
妙な沈黙が、二人の部屋を満たす。
最初に口を開いたのは、久保田だった
「ありがと」
そう礼を言った久保田は、思いの外、喜んでいるように見えた。
「時任に祝ってもらえて嬉しい」
久保田が、眼鏡の奥の目を更に細めて笑う。
時任は嫌な予感がした。
獣の感はもれなく的中する。
「で、誕生日と言えばプレゼントだよね」
久保田が時任を抱き寄せた。
「キスしていい?」
耳元で響いた低音にぞくりと肌が粟立って、とっさに耳を押さえて久保田を睨みつける。
表情にはいつもの余裕が浮かんでいる。
何だか悔しい。
動揺しているのが自分ばかりで。
だって、キスなんて、そんな、誰とも、久保田とだってしたことがない。
そもそも久保田と自分の関係は相方。
確かに久保田は特別だけど、だからっていきなりそんな。
していいかと聞かれて素直に良いですよなんて言えるはずがない。
なのに、咄嗟の時には素直になる時任の口が応えた言葉は
「きょ、許可求めんなよ」
だった。
これには、久保田の方が苦笑をした。
「だって、俺達は相方じゃない」
相方とは普通キスをしない。
じゃあ、なんでしたいと思った?
……そんなの。
まだ何か言いたげな唇を指でなぞると、赤みがかった頬が益々赤く染まる。
耳まで真っ赤になった時任は、クーラーの効いた部屋の中、まるで湯だって逆上せているように見えた。
逆上せてしまえばいい。
この熱に。
久保田がゆっくりと顔を寄せる。
時任がぎゅっと目を瞑る。
肌よりも薄い皮を触れ合わせて、先ず感じたのは柔らかさだった。
その感触を追うように唇を押し付けて、擦り合せて、啄んで、夢中になる。
ちゅっと小さく音を立てると、時任の体がびくりと震える。
それが何だか可笑しくて、可愛くて、その先がなんだか勿体なくって、大人しく唇を離した。
腕の中、羞恥と緊張に時任の体はくってりと力を失っている。
まるで時任ごとプレゼントに貰ったような気分だ。
覚えてもいなかった誕生日だけど。
この誕生日プレゼントは最高ではなかろうか。
なんて、流石に現金かねぇ。
大人しく腕に抱かれている時任は、ふと思い出したかのようにこう呟いた。
「俺らさ、なんか大切なこと忘れてね?」
「……なんだろうね」

 

二人が「好きだ」という言葉を思い出すのは、飽きるまで唇を重ねた、その後で。

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