時任可愛い
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腕の中の水桶を覗き込む。


家の傍の井戸で汲んできた水が満ちていて、そこに俺の顔が揺蕩いながら青空を背に映りこんでいる。


俺だ。


人間だ。


真っ黒な髪、真っ黒な目。


猫みたいなつり目。


俺の顔。


始めてみる様な、見慣れている様なそれをまじまじと見つめていると、ふいに見知った影が背後から覗き込んできた。


「空が青いね」


弾かれた様に振り返って、自然と顔が笑う。


「おかえり!久保ちゃん!」


自分の声がゴム毬みたいに弾んでいるのが分かる。


「ん。ただいま時任」


そこに立って微笑んでいたのは、俺の知らない久保ちゃんだった。


俺の知ってる久保ちゃんは、口角を上げて目を細める度、心の中で自分を切り刻んでるみたいだった。


そんな笑い方しかしなかった。


今、久保ちゃんはその辺のただの人間みたいに幸せそうに笑ってる。


並んで家までの道を歩く。


暖かく柔らかな風が頬を撫で、髪を揺らした。


「すっかり春だよな」


「桜も終わりだねぇ。時任、桜は好き?」


「薄いピンク色の、雲みたいな木だよな……近くで見た事はねーけど」


山間から小さく遠く見える町がある。


木蓮が散る頃になるとその町が淡い桜色に彩られるのが不思議で、遠い昔、母親にあれは桜というのだと教えられた。


知らない花の咲く知らない町にはどんなものがあるのだろうと、ガキの頃の俺は良く丘から町を眺めては夢想していた。


俺の世界は小さな森の中が全てだ。


この森の草木の事ならなんでも知ってる。


何が毒で何が薬か。


先祖代々受け継がれてきた知恵だ。


それが、魔女の力。


俺の力。


それだけが。


「この森にはないもんね」


けれど、魔女裁判も遠い昔となった今でも、信仰と紙一重の偏見だけはしぶとく残り続けている。


近隣の村からは監視され、森から少しでも姿を現せば『不吉だ』『悪魔の末裔め』と罵倒され、石を投げつけられた。


どこにも行くことが出来なかった。


ずっと独りだった。


それでいいと思っていた。


独りが何かなんて知らない癖に。


だって、そんなもの、知ってどうなる。


考えたら、理解したらきっともう生きていけない。


無いものねだりは馬鹿馬鹿しい。みっともない。


自分にそう言い聞かせ、俺は生きていくために必死で目を逸らしていた。


この俺は、俺だ。


何から何まで一緒だ。


黒いことも、忌み嫌われていたことも、独りだったことも、独りで良いと強がっていたことも。


久保ちゃんと出会って、温もりを知ったことも。


身体に風穴を三つ空けて死にかけで俺に拾われた久保ちゃん。


久保ちゃんも、多分、俺と同じだった。


「描いてきたんだろ?見せろよ」


久保ちゃんは時々俺の作った薬草を町まで売りに行って、その金で色々買ってきてくれる。


そして、俺の見られない様々なものを絵に描いて見せてくれた。


それがどんな土産よりも楽しみで、久保ちゃんの描く絵が俺は好きだった。


「おねだりならもっと可愛く」


久保ちゃんは笑った。


それは常の優しい微笑とは違う、何だかエロい笑い方だった。


「上目遣いで、おねだりしてよ」


耳元に唇を寄せて囁かれ、思わず肩が跳ねる。


無駄にエロいんだよな、コイツ。


きっと睨みつけ、ドスの効いた声を出す。


「……見せろ」


「うーん。可愛いけど80点」


そう言って、久保ちゃんが俺の前に差し出したのは、薄紅の花の付いた、小枝だった。


春風に今にも散らされそうな、華奢な造りの五枚弁の花。


初めてみる、桜の花だった。


久保ちゃんは恭しくそれを髪飾りの様に俺の頭に飾った。


腕の中の水桶に、薄紅の花を髪に差して顔を赤くした間抜けな俺の顔が映る。


「綺麗っしょ?」


「久保ちゃんクッサ~~ッ!」


照れを誤魔化すように、俺は盛大に吹き出した。


幸せで、笑っていた。


俺達は毎日下らない事を話して、笑って、普通に、幸せに暮らしていた。


 


 


 


あの日までは。


 


 


 


「時任ッ!!」


久保ちゃん、そんな顔すんだ。


いつもスカした顔してんのに。


お前、そんな必死な顔するんだな。


込み上げる大量の吐血に最早咽る力も無い。


久保ちゃんはどうにかしようとしてるんだろう。


どう見たって手遅れなのにな。


胸も腹もぐちゃぐちゃだろ。


何度も小斧で斬り付けられたし。


今、意識があるのが奇蹟だって。


もう痛いのかも熱いのかも寒いのかも、なんもわかんねー。


別に、ここまでやる気はなかったんだぜ?


あいつ等も。


でも、俺抵抗しちまったし、なまじ強いし。


斧振り回さないと俺の動き、止められなかったんだよ。


馬鹿だろ? 俺。


まぁ、どの道殺されてただろうけど。


だって、さぁ、嫌だったんだよ。


お前と離れ離れになるの。


俺、お前と居たかっただけなんだよ。


一緒に生きたかった。ずっと。


町になんて行けなくったってよかった。


死ぬまでこの森の小さな家で、久保ちゃんと生きたかった。


「……く……ちゃ……」


「しゃべるな、時任」


有無を言わさない強い口調。


でも、俺は黙らない。


今伝えなかったら永遠に、伝わらない。


「ご……め……」


「何言ってんの。時任は何も、何も悪くないっしょ?」


俺だってそう思ってる。


黒死病が流行ってることだって、山の向こうの村がそれで全滅したらしいことだって、俺、何も関係ねーし知らねーよ。


今日初耳だって、それ。


俺が原因な訳ねぇじゃん。


でも、信じてくれなかった。誰も。


もう、どうでもいいけどな。


俺をこんなザマにした村人たちは久保ちゃんに全員殴り殺された。


家の中に転がっているその骸に対しても、特に思う所はない。


俺のミンチになった胸を満たす罪悪感は久保ちゃんにだけ向けられている。


「時任」


「……」


「お前が死んだら俺も死ぬから」


ごめんな。


俺は残酷だ。


俺達はお互いに孤独を知ってたから惹かれあった。


なのに、俺は久保ちゃんを、俺も知らない雪より冷たくて夜よりも寂しい孤独の中に置き去りにしようとしてる。


温もりを知った肌にそれはどれ程、冷たく感じるのだろう。


ごめん。


酷い奴だろ?


恨んで良いよ。


それでも俺は久保ちゃんに死んで欲しくない。


「お……れ……」


手を握る久保ちゃんの掌の感触も遠くなっていく。


もう目も見えない。


「か……い…………て……」


一度も俺を描かなかった久保ちゃん。


どんなに強請っても描いてくれなくて、むくれた俺にぽつんと久保ちゃんは呟いた。


『絵だけあっても、辛いだけでしょ』


その一言だけでも、久保ちゃんが俺を失うことをどんなに恐れているのか痛い程に伝わってきたのに。


それなのに。


「す……き……な………お………………れ………」


自分の言葉が音になっているのかも分からない。


ただ必死に唇を動かす。


ごめんな。


どんな風になっても、久保ちゃんに生きて欲しい。


俺の我儘、最後にもう一個だけ叶えてよ。


「や……………そ……く……」


約束は、果たしてくれなくて良いから。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


はっと目を開く。


空が青い。


一瞬、自分がどこに居るか分からず、飛び起きて辺りを見回した。


「起きた?気持ち良さそうに寝てたねぇ」


のんびりとした久保ちゃんの声が頭上から降ってきて、俺は久保ちゃんの膝でいつの間にか眠っていたことに気付いた。


久保ちゃんの腹にぐりぐりと額を擦り付ける。


「どしたの?」


甘えてると思ったのか、久保ちゃんはまた大きな手の平で俺の背を撫でてくれた。


俺は体温を確かめる様に、何度も何度も身体を摺り寄せた。


久保ちゃん。あったけぇ。


久保ちゃんが生きてる。


生きてる。


良かった。


約束、して。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


見た夢について俺はそれ以上考えることはなかった。


久保ちゃんが生きていれば、それで良かったから。


ただ、早く久保ちゃんが今の俺を見てくれればいいのに、


そう思った。


また、冬が来る。


久保ちゃんと出会って二度目の冬が。

拍手[5回]

朝、ブラインドから覗き見ると、窓の外が真っ白だった。


 


 


 


WHITE VALENTINE


 


 


 


 


今年雪が積もるのは二度目。
しかも、二十年に一度の大雪が二度目だ。
白一色っつーのは個性がなくてつまんない気もするけど、いつもの薄汚れた様な灰色の町並みが白くキラキラ光っている様は単純に綺麗だ。
綺麗過ぎて、少し目に痛いほど。
でも今日は雪の白さとは程遠い、むしろピンクの欲望が渦巻くバレンタインデー。
ある意味男としての真価を問われる日なので、世のヤロー共はそわそわ落ちつかなくなる。
むろん、恋心を内に秘める女の子達も。
ま、宇宙一の美少年を自負する俺様はチョコなんて貰えて当然だから、気にしてねーけどな。
俺が気にしてるのは。
チラリとベッドで眠ってる久保ちゃんに目をやる。
眠りが浅い久保ちゃんには珍しく、まだ夢の中だ。
雪って音を吸い取るらしーから、静かで良く眠れるのかもしれない。
俺が目を覚ましたのはなんでだろ?
雪の気配?
もしくは、今日を気にし過ぎて?


……久保ちゃんは俺のチョコ、欲しかったり、する、の、か、な。


俺、一応、恋人だし。バレンタインデーは恋人のイベントだし。
バレンタインデーに恋人からチョコを貰って嬉しくない男はいない、よな。
でも、いっくら恋人だっつっても、そもそも女が用意するモンだろ?
俺様があげるのがなんっか腑に落ちねぇ。
……でも、せめてスニッカーズの1つぐらいはあげるべきか?
つらつらそんな事を考えていたら、いきなり腕を掴まれた。
そしてそのまま布団の中に引きずり込まれる。
「うわっ」
「めずらしいねぇ。先に起きてるなんて」
 温かく薄暗い布団の中で、久保ちゃんと目が合う。
「外、雪降ってる」
「ああ、道理で静かだと思った」
「結構降ってんぞ」
「電車止まってるかもねぇ。学校休む?」
「やだ。俺を待つ全校の女子が可哀想だろ」
「あー。今日バレンタインだっけ?尚更行きたくないなぁ」
「なんでだよ。どーせ久保ちゃんいっぱい貰えんだろ?」
 俺よりもさっ。と膨れると、久保ちゃんは目を常よりも更に細くして、
「俺には時任の愛だけで十分だからさ。他の子のなんて要らないよ」
なーんて恥ずかしいこと言ってくれちゃったりする。
「……俺はチョコなんてやんねーぞ」
「えー。残念」
「俺様が女みてぇな真似するわけねーだろ。なー、それよりもメシッ!」
「ハイハイ」
久保ちゃんは小さな音を立てて俺に優しくキスすると、ベッドを抜け出して洗面所の方へ歩いていく。
俺も着替えるためにベッドを下りようとして、もう一度だけ窓を振りかえった。
ブラインド越しにちらつく白い影。
それがやけに、俺の網膜と脳裏に焼きついて離れなかった。


 


 


 


 


 


 


「うー、寒っみー」
「時任、髪に雪積もってる」
「って久保ちゃん!眼鏡に雪が……」
「あーホントだ。道理で見えにくいと思った」
「気づけよ……」
電車はなんとか動いていた。
新雪を踏みしめつつ俺と久保ちゃんは通学路を歩いている。
家を出た直後は結構吹雪いていたけど、今はちらりちらりと舞い散る程度だ。
傘をささないで歩いているせいで、俺達の髪やコートに雪が少しだけ積もっていた。
「久保ちゃん、何か白い」
「時任も。お揃いだね」
眼鏡をはずしたまま微笑む久保ちゃんに、気恥ずかしくなって俯く。
その顔でこっち見んな!笑うな!
左手に剥き出しの冷たい肌が触れる。
大きな手が俺の手を包み込む様にぎゅっと握る。
「何繋いでんだよっ!!皆見るだろっ!」
「いーじゃん。寒いし、ね」
睨みつける俺に構わず、久保ちゃんは笑って、繋いだ手を前後にぶらぶらと揺らした。
冷たかったお互いの掌にじわじわと体温が滲んでいく。
これ以上、嫌とは言えない自分が悔しい。
「……寒いからな」
まるで自分に言い訳するようにそう言って、俺も手をぎゅっと握り返した。


 


 


 


 


 


「朝っぱらから仲が良いわね二人共」
教室に入るなり疲労感たっぷりの桂木にそう言われ、俺は激しくうろたえる。
久保ちゃんは平然としたままだ。
「な……なんだよ急に」
「クラスの女子が騒いでたわよ。『久保田君と時任君が雪の中、手を繋いで登校してた~』って」
頭痛を堪えるように桂木が額に手をやる。
「あれは久保ちゃんがっ!!」
「はいはい。分かってるから喚かないで!どーせ『寒いから』とか上手く丸め込まれたんでしょ」
「何でわかったんだ!?」
「……当たってたの。随分ベタね。久保田君」
「恋愛なんてベタでナンボっしょ」
億面もなくそう抜かしやがる鉄面皮眼鏡野郎。
頼むから桂木にそーゆーこと言うなっつーの!!
いや、桂木に限んねぇけど!!
お前鉄面皮すぎるんだよ!!
睨んでも、どこ吹く風で微笑まれた。
コノヤロ……!
「本気で頭痛くなってきたわ……ハイ」
向かい合う俺達二人に、桂木は何かを投げて寄越した。
危なげなく掴んで手の中のそれを見れば、綺麗にラッピングされた四角く小さな包み。
「これ……」
「ああ、ありがと」
所謂、バレンタインチョコ。
「言っておくけど義理だからね。執行部全員同じヤツ」
「本命いんのかよ」
「うっさいわねーっ!文句あるなら返しなさいよソレッ」
「ヤダ。貰った以上俺のもんだろ。ありがたく食ってやる」
桂木相手に素直に礼を言うのも照れくさくて思わずそんな風に言うと、桂木は呆れた様に笑って溜め息をついた。
「で、時任は久保田君にチョコあげたの?」
「はぁ!?なんで俺様が久保ちゃんにチョコあげなきゃなんねぇんだよ」
「手ぇ繋いでラブラブ登校して来る仲なんだからあげればいーじゃない」
「ね、くれればいいのにね」
久保ちゃんがのほほんと相槌打つ。
その様子からは、本気で欲しがっているのかどうかは良く分からなかった。
「何で俺が女みたいな真似」
「でも……」
何かいいたげな表情で俺達を交互に見た後、桂木はまた溜め息をついた。
「いじっぱりばっか」
一言言い置くと、
「じゃあ、私、相浦君たちにもチョコ渡してくるから。放課後ちゃんと顔出しなさいよね!」
教室から出ていった。
何なんだよ……
隣の久保ちゃんは相変わらず読めない顔で何も言わない。
「くれないの?」なんてしつこく言いはしない。
けど、『いじっぱりばっか』って言葉が俺の胸の中でいつまでも蟠っていた。
ぐずぐずと、残り雪みたいに。


 


 


 


 


 


「大量大量♪」
「そーね」
放課後、チョコの山を抱えてゴキゲンな俺様の横で、久保ちゃんが至極面倒そうに相槌をうった。
久保ちゃんが貰ったチョコの数はやっぱり俺様よりも多くて、両手に持つのも大変そうだった。
廊下を歩いていると、すれ違う男子生徒達から羨望の眼差しを浴びる。
今朝「時任の愛だけで十分」とか言ってた割には来る者拒まずだ。
まぁ、俺も拒んでないから人のこと言えないんだけど。
「久保田くーん!」
……げっ!この声は!!
「あ、どうも」
「出たなおかま校医!!」
「うるさいわよアメーバ!!」
「んだとぉっ!!」
保健室付近で案の定、五十嵐先生に遭遇した。
喚く俺は完全無視で久保ちゃんに抱きつこうとして、その両手に抱えられたチョコの山に悲鳴を上げる。
「まぁーっ!!もうこんなに貰っちゃったの!?流石久保田君ねぇ。すっかり先を越されちゃったわぁ」
そう言ってしなを作りながら、無闇にでかいチョコを久保ちゃん持つカラフルな山の上に置いた。
「うふッ、これが私の気持ちよぉ~受け取ってくれる?」
両手の塞がってる久保ちゃんはぼーっと突っ立ったまま、
「ありがとうゴザイマス」
棒読みで礼を言った。
「返事待たずに押付けてんじゃねぇか!」
「ふん!あんたにはコレで十分よっ!」
ぽいっと投げつけられたのは対照的にすっげー小さい……
……チロルチョコ?
「てめぇえ超絶美少年の俺様に!!なめてんだろっ!」
「貰えるだけ感謝なさいっ!」
「んだとー!!」
「大体、あんた久保田君にチョコあげたの?」
「なんで俺が久保ちゃんにチョコやんないといけねーんだっ!」
どいつもこいつも同じことばっか聞いてきやがって!
俺は久保ちゃんの彼女じゃねぇっつうーの!
「まぁーッ!!そんなこと言ってるようじゃ久保田君を独占する資格なんてないわよっ!」
「うっせー!!」
「はいはい。遅れると桂木ちゃんにどやされるよ?」
このままじゃ埒があかないと思ったのかオカマ校医と睨み合ったまま動かない俺のフードを掴んで、久保ちゃんが俺の身体をずるずると引きずって歩き出す。
大量のチョコはいつのまにか調達されていた紙袋に押し込まれていた。
「また来てね~久保田くーん!」
「二度と来るかぁ!!」
俺の叫び声は廊下に木霊せず、未だちらつく窓の外の雪に吸い込まれたかの様にシンとして消えた。


 


 


 


 


 


 「く・ぼ・た・センパ~イ」
一難さってまた一難。俺の不機嫌の元は尽きることなく沸いて来る。
部室に来たら予想通り、藤原がチョコと満面の笑みで久保ちゃんを待っていた。
「俺の愛を受け取ってくださーい!」
「久保ちゃんにはてめぇの愛なんかいらねぇんだよっ!!」
回し蹴りをお見舞いすると、派手にスッ転ぶ。
それでもめげないこのゴキブリ根性は賞賛に値すると言うべきか。
バルサン焚けば少しは弱るのか?
「野蛮ですっ!!久保田センパーイ、こんな乱暴者のチョコより、俺のチョコを貰って下さい!」
「俺は久保ちゃんにチョコなんかやってねぇよっ!!」
「ええぇーっ!!」
耳障りな叫び声をあげて藤原がオーバーリアクションで驚いてみせる。
「あげてないんですかぁ?時任先輩!」
「フツーにチョコ渡してるお前の方がオカシイだろーが!!俺は女じゃねぇっつーの!!」
「それは久保田先輩に対する愛が足らないからですっ!」
勝ち誇ったように言って、藤原は久保ちゃんの腕にしがみついた。
「久保田先輩はチョコ欲しいですよねー」
「ま、そりゃあねぇ」
久保ちゃんはいつも通りの読めない表情だった。
(何考えてんのかわかんねぇ)
声だっていつも通りのほほんとしてた。
(怒っててもそうだったりする)
雪の様な冷たさはどこにもなかった。
(白く覆われてて中身なんて見えやしないけど)
だけど、胸が痛い。
(ズキズキする)
「なんなんだよ……」
責めてるのは久保ちゃんじゃない。
(本当に?)
俺の罪悪感だ。
(だって一週間前からずっと気にしてた)
だって久保ちゃん、チョコ欲しかったって言ってんじゃん。
「……先に帰る」
持ってたチョコを全部相浦に押付けて部室を飛び出した。
後ろから桂木が何か叫んでたような気がしたけど、降り返らなかった。


 


 


 


 


 


「やっべー…鍵忘れた」
何も考えず帰ってきたものの、今日に限って家の鍵を忘れてるという間抜けな事態。
「さっぶ……」
玄関前で待ってる気にもなれず、雪の止んだ雪道をさくさくと一人歩く。
車輪と人の足跡だらけの道路。
白一色で覆われた朝の光景はあんなにも綺麗だったのに、今はお世辞にも綺麗とは言い難い。
ぐちゃぐちゃだ。
公園の入り口で雪だるまを作る近所の子供達をぼぉっと眺める。
ホントは、久保ちゃんにチョコあげたって別に良かったんだ。
綺麗に包装したヤツじゃなくても、軽いノリでスニッカーズあげるだけでもきっと久保ちゃんは喜んでくれただろう。
いつもより少しだけ目を細くして、優しい顔で笑って。
それが分かってて何もできなかったのは……桂木の言うとおり、俺が意地っ張りだから、なんだろう。
久保ちゃんとこういう関係になって、一年も経ってなくて。
どうあるべきか、まだ悩むことも多くて。
簡単に女の真似なんかできなかったんだよ。
俺はなれないし、女の代わりだってできないから。
久保ちゃんにそう思われんのも嫌だった。
ホント、それだけ。
だから、愛が足りないと言われれば、咄嗟に反論できなかった。
愛ってそんな何もかも超越できるもんなの?
「こんな所でなーにやってんの?」
後ろから、見知った腕に抱き込まれる。
「風邪引いちゃうよ?」
「久保ちゃん……」
帰ろ?って微笑まれて、俺は久保ちゃんのコートの袖をぎゅっと握った。
「久保ちゃんさ……やっぱりチョコ欲しかった?」
「うん。手軽だけどやっぱ一つの愛のカタチかも?って思うしね」
下らない意地を張った後悔に唇を噛む。
「でも、1ヶ月後にくれればいいよ。ハイ」
後ろから抱きついたまま、久保ちゃんは俺の手に綺麗に包装された包みを持たせた。
「俺の愛」
「久保ちゃん……コレ……」
「別にさ」
久保ちゃんが耳元で囁いた。
「俺達男女のカップルじゃないし?どっちがあげてもいーっしょ。
俺は時任を女の子の代わりだと思ったこと、一度もないよ」
「……ごめん」
小さく謝った俺を久保ちゃんは何も言わずに抱きしめてくれる。
久保ちゃんからのチョコを、俺は包装紙を破らない様に慎重に開けてみた。
中から出てきたのは、箱いっぱいに詰まった小さなハート形のチョコ。
予想以上の可愛さに俺は面食らう。
「……何処で買ったんだよ、コレ」
「ん?コンビニ」
「買うの恥ずかしくなかったか?」
「いんや、別に?」
とぼけた声を間近に聞きながら、俺はハートのチョコを一つ口に放り込む。
そして、そのまま振り向いて久保ちゃんにキスをした。
チョコよりもずっと甘いキス。
「……俺の愛で十分なんだろ?」
「うん。ゴチソウサマでした」
重ねた唇はひんやりと冷たくて、ただ甘かった。
「ま、続きは帰ってからというこで」
キスで赤くなった俺の顔を、妙に嬉しそうに見つめて久保ちゃんは意味深な言葉を吐いた。
「チョコがいっぱいあるから、チョコレートプレイでもしようか」
「久保ちゃんの変態っ!」
そう怒鳴ってから、掠めるようなキスをもう一度した。


 


 


好きだから、ぐちゃぐちゃ悩むんだよ。
好きだから、綺麗でいられない。
でもそれを久保ちゃんが分かっていてくれたら、それでいい。


 


 


 


 


 


 


「新雪を踏んで汚すのって楽しいよねぇ。俺は好き。
俺が好きでぐちゃぐちゃになる時任、可愛くて好きだよ」

拍手[4回]

「俺のことは久保ちゃんって呼んでね」


塀の上を歩く俺の横を並んで歩きながらあいつはそう言った。


この男、出会ったばかりだというのに妙に馴れ馴れしい。


害がなさそうだから放っているだけで、別に友達になった訳じゃねーし。


大体、何て呼んだって分かりゃしねぇだろ!


ばーか。


「にゃーぅ」


「酷いなぁ。『久保ちゃん』でしょ?」


俺を見上げて垂れ目が笑う。


……なんで分かるんだよ……


「お前はなんて呼ばれたい?」


だからどう伝えろっつーんだよ。


好きに呼べっての。


美しい俺様に相応しい美しい名前でな。


クロなんてぜってー嫌だからな!


「ホントはもう……決めちゃってるんだけどね」


なら聞くなよ!


イラついて尻尾を左右に緩く振る。


不機嫌そうな俺を見て男はまた笑い、そして一呼吸置いた。


それは何だか口に出す事を躊躇うような素振りで、仕舞って置いた大切な宝物を取り出すようにそっと唇を動かすと、


「お前は真っ黒だからさ……」


クロか!?クロなのか!!???


「『時任』は、どう?」


はぁ?


黒なの関係なくね?


ってゆーか人間の名前じゃん。それ。


「俺の知る限り一番黒が似合う奴の名前」


俺は思わず男を見たけれど、男は前を向いたままだった。


歩調に合わせてゆらゆらと頭の天辺が揺れ、焦げ茶色の髪が風に少しなびいている。


「後、名前を呼んだ人間が幸せになれる名前、かな」


男が俺を見上げた。


「幸せってどんなもんか知ってる?」


問われて、ふいっと顔を背ける。


知るワケない。


「お前なら知ってると思ったんだけど」


知るワケなかった。


俺は不吉な黒猫。


幸せとは対極的の存在。


でも。


「じゃ、改めてよろしく。時任」


生まれて初めて名前というもので呼び掛けられ、その名前は妙にすとんと胸の中に落ちて馴染んだ。


「時任、空が青いね」


低い落ち着いた声がその音をなぞって、俺の鼓膜を震わせる。


「もう桜も終わりか。時任、桜は好き?」


胸に馴染んだ箇所が熱を持って、じわりじわりと周りに伝染していく。


知らない感覚。


妙に照れくさくて、落ち着かない、変な感じだ。


でも、案外悪くねーかもな。


……時任、か。


「……にゃッ!」


俺は返事をして、『久保ちゃん』の肩に飛び乗った。


呼ぶ名前、呼ばれる名前があるということは、一人じゃないことを俺に実感させた。


『時任』は、きっとただの名前じゃなかった。


『時任』という名前には温かいものが一杯詰まってて、久保ちゃんはそれを俺に名前ごとくれた。


名前を呼ばれれば呼ばれるほど幸せになったのは俺の方だった。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


「上目遣いでおねだりしてよ」


……またか。


もう日常茶飯事になってしまった、久保ちゃんのポーズ指定。


こっち向いてって普通に言えばいいのにな。


久保ちゃんの言い方は一々エロい。


ばーか。


じろりと睨み上げれば、


「イイ顔」


なんて言って、大きなスケッチブックにさらさらと鉛筆を滑らせていく。


紙の上を走る慣れた動きを、俺は寝そべりながらじっと見つめる。


描かなきゃいけない絵があるんだよねぇ、と、この男は言った。


そのたった一枚の絵の為に、それまで居た村を出てこの町にやって来たと。


別にこんなくだらねぇ街にわざわざ出てこなくても、村で絵を描いてりゃ良かったのにな。


久保ちゃんが描きたい絵を俺は知らない。


絵を描きながら久保ちゃんはいつもぽつりぽつりと俺に話しかける。


出会って以来、久保ちゃんは俺以外を描こうとはしなかった。


でも、その理由を俺は知らない。


久保ちゃんが話すのは他愛もないばかりで、この街に来る以前のことを口にしたことはない。


スケッチブックに俺の姿が増えるほど俺の中にも久保ちゃんが増えていくのに、同じくらい久保ちゃんの知らないことが積み上がっていく。


絵を描いてる時のアイツは、とても、遠かった。


俺を描いて、俺に話しかけている筈なのに、その目は俺を見てはいなかった。


どこか、もう決して手の届かない、求めて止まない何かを見てるみたいな、突き刺すように鋭くて飲み込まれそうな程飢えた目をして、久保ちゃんは俺を描いている。


普段、柔和な態度と笑顔で隠している久保ちゃんの、剥き出しの中身がそこにはあった。


それは正直哀しくて、その視線に晒されるのは痛くて、それ以上に俺をちゃんと見ていないことがムカついて仕方なかったけど、久保ちゃんの中身とちゃんと向き合いたくて、俺は絶対逃げたりしなかった。


……それに長い前髪を邪魔そうに払う仕草とか、さらさらと流れるように鉛筆を動かす指とか結構好きだし。


暫くして久保ちゃんは顔を上げて、スケッチブックを俺の前にトンッと置いた。


「どう?」


どうって言われても、猫の俺には紙に描かれたただの線だし。


でも、その絵からは何だか、久保ちゃんが毎日生きる為に必死に押さえ込んでいるモノが滲み出てる気がした。


剥き出しの感情で描かれたからだろうか。


見てる側にとってもそれは全然気持ちいいモノじゃなくて、例えば、愛し合う恋人達の三秒後の別離のような、直視したくない何か。


久保ちゃん、絵描くの、本当は全然楽しくねーんだろ。


好きじゃねぇのになんでそんなに絵を描いてんだよ。


俺は久保ちゃんの目を見て、にゃんッと鳴く。


「実物のほうが美しいって?」


久保ちゃんがそう言って、いつも通り微笑んだ。


見当外れなことを口にした様でいて、人間離れした察しの良さで猫である俺の内心の機微まで解するコイツは、分かっててワザとはぐらかしたのかもしれない。


そして、俺の頭を一撫でしてスケッチブックの中の『知らない』俺にじっと目を落とした。


俺達は毎日、何となく一緒にいる。


久保ちゃんは俺の飼主じゃない。


俺は餌を自分で狩ってるし、久保ちゃんはたまにフラッとどっか行っちまう。


でも俺がこの街のどこで昼寝をしていても、久保ちゃんがどの宿を寝床にしていても、俺達はお互いを見つけて一緒に居た。


何の約束もなかったけれど、一緒に居た。


スケッチブックと鉛筆を脇に置いて、久保ちゃんは俺を自分の膝の上へと抱き上げた。


膝の上は温くて気持ちがいい。


喉元を優しく撫でる手も心地いい。


ゴロゴロと喉を鳴らす俺のことを、何時も通りの優しくて温かい眼で見ているんだろう。


俺と『時任』以外には見せない優しい瞳。


「時任はさ、神様って信じてる?」


何を突然。


久保ちゃんの脈絡のない、意味も分からない問いに耳をピクリと動かした。


猫に神様なんか居ねぇよ。あるのは自分と明日だけ。


「お前は強いもんね」


今度は俺の心の声をちゃんと聞き取った様だ。


正確に、何の疑いもなく。


それは察しの良さだけじゃなくて、久保ちゃんが俺の行動とか感情とかのパターンを知り尽くしているからだと、まるで何年も何年もずっと一緒に居てそれこそ言葉なんか必要ないくらい俺を熟知しているから、そんな有り得ない感じもした。


有り得ない。


俺たちはまだ出会って一年も経っていない。


「俺には神様が居たんだけどね」


過去形だ。


久保ちゃんの、過去。


「俺の神様は死んじゃったんだ。2年前に」


神様って死ぬもんなのか?


何が言いたいのかよくわからない。


でも、それがあの遠い眼差しに関係していることは気配で察せられた。


耳を欹てるが、ぽつりぽつりと耳を擽る久保ちゃんの低い声、ゆっくり背を撫で続ける大きな手の平の動きに段々と目蓋が重くなる。


あったけぇ……


いつの間にか俺はに眠りの淵へと導かれていた。


 


久保ちゃん。


なんで遠くばっか見てんの?


誰を見てんの?


誰に優しくしてんの?


俺じゃねぇだろ。


『時任』って誰だよ。


時任は俺だろ。


俺を見ろよ。


生きてる俺を、ちゃんと見ろ!


 


俺は夢を見た。


それはやけにリアルで。


不思議なくらい懐かしくて。


微笑む程に幸せで。


胸が抉られるように痛い、夢だった。

拍手[1回]

馴染みの雀荘で久しぶりに誠人を見付け、飯を奢ってやると半ば無理矢理近くの定食屋に連れてきた。
カツ丼を頼むと、刑事がカツ丼食べてる姿ってシュールだよね、なんて言われる。うるせぇな。
並んで丼をつつきながら、うんにゃ、そーねぇ等とはぐらかす甥っ子の近況を聞き出そうと、
「時坊は最近どうなんだ。元気でやってるのか」
同居人の様子を尋ねた。
誠人は割り箸で天丼の海老天を口に運びながら、いつも通りの飄々とした調子で答える。
「元気だけど、押し倒したのに反応がなくて困ってる」
飲んでた煎茶を吹き出しかけて、盛大に噎せた。
「図らずもいい雰囲気になったからソファーに押し倒したんだけど……あいつ良く分かってなかったみたいでね、その後うやむやになっちゃって」
咳き込む俺に構わず誠人は訥々と続ける。
「鈍感にも程があるっていうか。普通は押し倒したら流石に分かるよねぇ」
そもそも時坊は男だろうが。
誠人は時坊に対して常日頃から接触過多な嫌いがあるからな。
押し倒したところで過剰なスキンシップと捉えられても不思議じゃない。
誠人は溜め息を吐いた。
存外深刻に悩んでいるようだった。心底どうでも良いがな。
「どうしたら良いのかなぁ。もういっそ無理矢理……」
「無理矢理はやめろ」
「嫌よ嫌よも……」
「性犯罪者の常套句だぞ」
甥っ子が性犯罪に走りかけていた。
口元を拭って、湯呑みと箸を置く。
どんぶりにカツ丼がまだ残っていたが、もう胃に入れる気にならなかった。
「でももう2年目だしそろそろ進展したいじゃない。いつまでもデートばっかじゃね」
「デートしてるのかお前ら」
「買い物行って映画観てゲーセン行ってお茶飲んで夜景見て帰ったよ、先週」
内容だけ聞けば完璧なデートだ。
でもしょっちゅう二人で出掛けてるらしいし、というかそもそもいつからそんな関係になってたんだ。お前ら。
それ以前に時坊は男だよな?
そろそろ突っ込んで良いか?
「デートしてる認識はあるのか?時坊は」
「あるよ。『デートする?』って聞いたら『え、全部奢ってくれるってことか?』って言われたから全部奢ってあげたし。『デート楽しい?』って聞いたら『うん』って言ってたし」
「カモられてんじゃねぇか」
「薄々気付いてたけど最近カモられるのも快感で」
手遅れだなこりゃ……。
時坊に執着してるのには気付いちゃいたが、ただの色ボケなんじゃねぇのかこりゃあ。
時坊も時坊だ。
完全に誠人への甘え方を心得てやがる。
これで天然なら時坊はつくづく誠人のツボを突く存在なんだろうな。
丼を空にした誠人は湯呑みを手にして、煎茶を啜っている。
色ボケ、か……。
コイツがなぁ。
人並みの欲求すら薄かった甥っ子が一丁前に恋をしてるのだと思えば、何だか微笑ましい気持ちにもなってきた。
相手は同居人で、身元も知れねぇ訳ありの、男だとしても。
ったく。恋愛相談なんて柄じゃねぇのによ。
「お前、言葉にはしたのか?」
「言葉って?」
「その……惚れてるとかよ……」
「俺と時任、そういう関係じゃないから」
「はぁ?」
「俺と時任、お前と俺だし」
湯気で眼鏡が曇り、その表情を伺うことは出来ないが、その声音は至極真摯だった。
真摯に言われてもその言葉の意味は全く理解できなかったが。
いやマジで何言ってんだコイツ。
お前と俺ってどんな関係だよ。
俺がおっさんだから分からないだけか?
それとも、誠人と時坊の間だけで通じる何かなのか?
「……時坊はそれ言われてなんて言ったんだ」
「クサッて言ってた」
「まぁ……そりゃな……」
「後、照れてた」
「……そうか……」
「可愛かった」
「……」
のろけたいだけなんじゃないのか、コイツ。
照れていたという誠人の言葉が真実なら、時坊に一応通じていたのだろう。
もしかしたら、それは時坊がその時一番欲しかった言葉だったのかもしれない。
ツーカーの仲というものは存在する。
そんな関係に、言葉を求めるのは野暮なことなのかもしれない。
だが、俺は誠人の言った『お前と俺』に、言葉にすることを怖れる誠人の弱さを垣間見た気がした。
大体、お前と時坊のソレはホントに同じなのか?
万人の思い浮かべる林檎の赤が全く同じわけねぇことくらい、お前だって分かってんだろ?
「俺はおっさんだからよ……惚れた腫れたの駆け引きに気の利いたアドバイスなんざできねぇがな、どんな関係でも言葉にするってのは大事なことなんじゃねぇのか」
「そうだねぇ……」
空になった湯呑みを置いて、取り出した煙草に火を点けた誠人は、考え込むような眼差しで紫煙をじっと見詰める。
そして、ポツリと呟いた。
「とりあえずキスしようかな」
「聞けよ、人の話を」

拍手[8回]

独りで生まれたんだ


独りで生きて


独りで死んで


何が悪い


 


独りは気楽でいい


 


誰にも煩わされることなく


寄り添うのは寂寥の影だけ


 


群れるのは弱い奴のすること


俺には必要ない


誰かを思いやることに何の意味がある?


腹だって膨れねぇ


 


夜に生き闇に死ぬ


 


それでいいはずだった


 


知らないものを欲しがる道理も無い


無い物ねだりは格好悪い


現状に満足していたのに


 


なのに


 


あいつが現れた


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


BLACK CAT


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


「そっちに逃げたぞっ!」


甲高い怒鳴り声が鋭く鼓膜を刺す。追いかけてくる罵声と足音。


「悪魔めっ!」


あー……うっせぇ。これだからガキは嫌いなんだよ。


ガキに限らず、俺は俺以外の全てが嫌いだけどな。


休日の真昼間、何時もより賑わっている大通りには耳障りな喧騒が満ちている。


うるさくて仕方ない。


俺はガキ共に追いかけられながら、目の前に林立する幾多の足を器用に避けてすり抜けた。


すれ違い様に俺を見た人間達は皆一様に顔を顰めて、後ろのガキ共と同じ表情を浮かべる。


『不吉だ』『汚らわしい』『悪魔の使者め』『消えてしまえ』


――そんな顔。


別に、慣れっこだ。気にする様なもんでもない。


「待てッ!!」


待つわけねーじゃん。ばぁーか。


捕まれば待っているのは死。ガキに殺されるなんて冗談じゃねぇ。


人込みを突っ切った俺はガキを引き離し、上手く撒くことに成功した。


とろい人間のガキが俺様の俊敏な走りについて来れる筈がない。


立ち止まって後ろを振り返る。


追手の姿が見えないことを確認すると、ゆっくり大通りを歩き出した。


 


 


俺は黒猫。


名前はまだ無い――なんて、どっかの小説の猫みてぇに格好付けすぎか。


俺は名前なんかいらない。


俺は独りだから。


呼ぶヤツもいねぇのに、名前なんて何の意味があるんだよ。


邪魔なだけ。重いだけ。


だから名前がない分、俺は他のヤツよりも身軽に走れる。


尻尾をピンと立てて、胸を張って。


毛の色が黒くたって気にしない。


この黒い毛のせいで『不吉だ』と、嫌われ者になっていても。


いーじゃん。かっこいーじゃん。


月すらも呑込んだ星一つない日の、夜の色だ。


誰に嫌われようとも、俺は俺が気に入ってる。


それで十分だ。


 


 


 


「あッ!」


自慢の鍵尻尾を風に泳がせながら堂々と歩いていると、後ろから鋭い叫び声が聞こえた。


御馴染みの、獲物を見つけたガキの声。


振り返ると、さっきとは違うガキ共が石を片手に俺目掛けて走って来るのが見えた。


げッ!


慌てて暗く細い路地裏に逃げ込む。


最初から裏道をコソコソしていれば、ガキに見つかる確率もうんと少なくなるんだろうけど、そんなのは俺の流儀に反するからな。


黒猫の俺が人間共にどれだけ忌み嫌われようと、俺は悪くねぇもん。


胸張って好きなように生きるっつーの。


ただ、こう何度も追いかけ回されると流石に手足が疲労を訴えてくる。


その時、風を切る鋭い音を耳が捉えて、後ろから投げ付けられた石礫が俺の髯を掠った。


げッ!!


背後に意識を集中させながら、走る足に一層の力を込める。


おいおいおい。勘弁してくれよ。


猫にとっちゃ人間の投げる石は大砲のようなもんだ。


当たれば痛いじゃ済まない。骨が砕けるっての!!


石礫は次々と投擲されるが、幸いなことに避けるまでもなく大抵は見当違いの方向に飛んでいく。


これなら大して気を付ける必要もないだろう。


投石よりも、問題なのはガキ共に狩りを止める気配がないことと、良い逃げ道が見付からないことだった。


人間が追手来られないような細い抜け道や塀を期待して裏路地に入ったのに、建物の壁ばかりが続いている。


逃げ回る内にいつの間にか馴染みのない縄張りの外に来ていたようだった。


角を曲がり、袋小路に入り込んでしまったことに気付き、地面に爪を立てて足を止める。


マズい。


身を隠す場所もなさそうだ。


戻るしかないけど、ガキが直ぐそこまで迫ってきている。


走り抜けるか?


どうする。


――その時、先ず感じたのは浮遊感。


次いで、体を包み込む温もり。


ふわりと持ち上げられ、胸元に抱き込む様に抱えられる。


何が起こったのか理解できず、俺の思考も身体もピシリと固まった。


傍を騒々しい足音が通り抜け、去っていく。
 
「もう行ったかな」


頭上から降る、低く柔らかい響きの声。


俺を覗き込む、硝子越しの細い垂れ目。


「怪我ない?追いかけられてたみたいだけど」


俺は漸く、人間の男に抱き抱えられている現状を認識した。


そこはぽかぽかと、太陽よりも温かかった。


男が、笑って言った。


「可愛いね、お前。真っ黒で」


途端にぞっとして、腕の中から抜け出そうと必死になってもがく。


何やってんだ俺!コイツは人間じゃん。敵だ。


逃げなきゃ殺される。


無我夢中で暴れて、腕なんて引っかきまくってなんとか逃げ出すと、俺はまた走った。


何だアイツ、意味わかんねぇ、何で、何で。黒猫の俺を。


何気なく振り返って俺はぎょっとした。


男が俺の後を追掛けて来るのが見えたからだ。


なんなんだよッ!?


俺は再びぞっとして全力で逃げまくった。


その変わった男はどこまでも、どこまでも着いて来た。


 


俺は今、何で逃げてるんだ?


何から逃げてるんだ?


人間が俺を助けた、のか?


ありえねぇ。


信じられるわけがない。


今まで散々に罵倒され、暴力を振るわれ、とばっちりを恐れた同じ猫でさえも俺に近づかなくなっていた。


俺は独りだった。


それでいいと思っていた。


独りが何かなんて知らない癖に。


だって、そんなもの、知ってどうなる。


考えたら、理解したらきっともう生きていけない。


無いものねだりは馬鹿馬鹿しい。みっともない。


自分にそう言い聞かせ、俺は生きていくために必死で目を逸らしていた。


なのにあの男は勝手に、不意打ちで、 さもそれが当たり前の様に俺を抱き上げて優しい言葉を投げかけた。


俺はその温もりを否定した。


逃げ出すしかなかった。


その腕が温かいと、温もりが心地良いと感じてしまったら、俺はもう独りじゃ生きていけなかったから。


背後に迫るのは、人の形をしていない、酷く大きくてもっと恐ろしいものであるかのような気がした。


 


はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……


「鬼ごっこはもう終り?」


心臓は限界を訴えてバクバク鳴り、腹は大きく上下している。


もう走れない。


それでも俺は四足に力を込め、何時でも走り出せる体勢でその男と対峙した。


疲弊し息切れした俺の前にしゃがみ込み、息一つ乱れてはいない男はそう言って薄く微笑んだ。


どー……なって……んだ……よ……コイツ……


俺は男から逃げ切ることが出来なかった。


その人間の足が俺より早かった訳じゃない。


読まれていた。俺の行く先、全部。


走っても走っても男のことを振り切れなくって、撒けたと思った瞬間、男は目の前で俺を待ち構えていた。


「やっと見つけたんだからさ。逃げないでよ」


やっ……と……見つと……た……?わっ……けわかんねぇ……


疲れて動けない俺の横で男は何やらごそごそと持ってた鞄を漁ると、干した小魚を俺の鼻先に差し出した。


「食べる?つまみの残りだけど」


餌付けってか?馬鹿にしやがって。


人間の寄越す食い物なんて食えるわけない。


毒でも入ってんじゃねーの?


けれどその匂いは俺のすきっ腹にガツンと強烈なボディブローをかました。


食えない、食えるわけないけど、視線が干し魚から動かない。


干し魚を見つめたまま、じっと動かない俺を見て 、


「食べないの?なら、勿体無いから俺が食べちゃうけど」


男は干し魚ごと手を引っ込めた。


「にゃぅッ」


自分の口から思わず名残惜しげな鳴き声が漏れて、俺は自分に仰天する。


何鳴いてんだよ俺!


それに男は笑って、


「初めて鳴いたねぇ」


と言った。


鳴く訳なかった。


伝える相手もいないのに。


なのに。


男は干し魚を少し齧ると、咀嚼しながら残りを俺に差し出した。


「毒なんて入ってないっしょ」


何だか悔しくなって、俺はがぶりと干し魚に食いついた。


ボリボリと干し魚を齧る俺を変な男は、ある色をのせて静かにじっと見つめていた。


それは初めて見る色だった。


様々な感情を滅茶苦茶に詰め込んで、煮詰めて煮詰めて、焦がしてしまったかのような黒だった。


夜の黒じゃない。


もっと暗くて、苦くて、底の見えない色だった。


けれど不思議と冷たくは感じなかった。


そんな目で、男は俺を見ていた。


真っ暗な夜空の中にたった一つの星を探すみたいに、直向きに。


不思議なことに、その視線は干し魚よりも俺を満たした。


やがて男はゆっくりとこちらに手を伸ばしてきた。


大きな掌が俺の頭に触れ、柔らかく撫でる。


何度も、何度も。


今度は俺も、引掻かなかった。


こいつは害さない。


そんな風に、自分以外を生まれて初めて信じた瞬間だった。


 


 


 


これが俺とアイツ馴初め。


以来、俺とアイツはずっと一緒だ。


黒猫の俺に人間を相手にする様に話しかけ、優しくする変わり者のアイツ。


ただ、硝子越しのその細目は俺を素通りして、何か別のものを見ている様でもあった。


それは陽だまりの様にぽかぽかと温かくなるような視線の時も、胸を切裂く様な感情が見え隠れする危うい視線の時もあった。


けれど俺に向ける眼差しは例外なく、いつも優しいものだった。


アイツのどこを気に入って今まで一緒に居るのか、ハッキリ言葉には出来ないけど、結局、居心地が良いからだと思う。


離れがたかった。


心の一部があいつに縫い付けられちまったような不思議な感じ。


まぁ、俺が何処に行こうとアイツは勝手について来たけど。


俺ももう逃げやしなかった。


アイツ相手に逃げても無駄だしな。


多分、それで良かったんだろう。


もしあの時アイツのことを信じなかったら、俺は何のために生まれて来たのかすら分からないまま生きていただろうから。


この夜の黒の中を、独りきりで、ずっと。

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