太陽光線が肌に刺さる。
目の覚めるような青の海と蒼の空。
波打ち際で砕ける泡は白く、しかし浜辺は白浜とは言い難い。
何処から流れてきた漂流物という名のゴミと、欠けた貝殻と、磨滅した小石が散乱している。
直射日光で十分に熱せられた砂は焼けるように熱い。靴を脱いだ足の裏が酷く痛かった。
おまけに小石も刺さる。
足ツボが刺激されていいのかもなぁなんて思いながら、さくさく歩いていく。
目の前の足跡を辿って。
3メートル程先には時任が砂に足を取られながら頼りなく、しかし前だけを見て波打ち際を歩いていた。
俺も波の中に足を入れる。
砂も空気も暑い中で、驚くほど冷たい海水の温度。
ひやりとした冷たさが背筋を這い、しかし日差しの熱さで直ぐに霧散していく。
波に流され消えそうになりながらもしぶとく残る足跡を辿って、俺は歩いていく。
踝を波が洗っていき、引いていくその感覚に合わせてゆっくりと足を動かした。
足跡の主はこちらに背中を向けて、相変わらずよたよたと頼りない足取り。
夏の盛りに部屋で俺と引きこもってた時任の肌は、白い。
日差しに映える白が目に痛かった。
再び足下に目を落とす。
足の指の間にはまだ熱を持った生温かい砂が盛り上がり、零れていく。
キラキラと輝く水面の底に落ちた黒い自分の影が、胡乱げに俺を見上げていた。
風が吹く。
潮風が煙草の紫煙を攫う。鼻腔を擽る磯の香り。
息をすると灼熱の酸素が肺臓をじりじりと焦がしていった。
太陽に焼かれ、塩に干されて体中から水分が一滴残らず絞り出される錯覚に陥りそうな。
……暑いって、こーゆーことだっけ?
五感が夏を意識する。
海が夏を訴えてくる。
空気は焦げ付き。
砂は焼け。
潮風が攫い。
波が洗う。引く。
終わらないリズムと。
目の前には永遠に続く足跡。
先しか見えない君。
背中に焼ける視線を、ただ。
「……なー久保ちゃん。やっぱ水着くらい持ってくりゃよかったな」
時任が振り返った。
振り返った。ことに、驚く。
ただ前を向くばかりで、俺の先を歩くばかりで、後ろを振り返る、そんな動作を予想だにしていなかった。
だって、お前は。
「……置いて行かれるかと思ってた」
立ち止まった俺の口からするりと滑り落ちた言葉は一体どれくらい俺の本心を反映しているんだろう。
時任は訝しげに眉を顰めた。
その額から一筋、透明な汗が流れ落ちる。
「置いてくって何で?」
「何でって……」
そう言われて言葉につまる。
言葉に表すことが出来ないくらい曖昧で不確かな不安や焦燥に俺はいつも翻弄されていて。
だけどお前のふとした仕草や言葉に同じくらい救われる。掬われる。
寄せては返す波のように。
いつもその、繰り返し。
残酷なリズム。
「……時任が人魚姫だから?」
「……ばーかッ!」
時任が太陽を背に、俺に向けて笑った。
その笑顔が眩しくて直視することすらできなかったから。
泡になって跡形もなく消えるのはきっと俺の方だと思った。
波と浜の間で摩滅するものはなんだろうか。
それが愛だとしたら救われない話だ。
扉を開けた滝沢は困惑した。
部屋の外に立っていたのは一人の少女。
レンズ越しに来客を確認した時は昨年知り合った知人だと思ったのだが、しかしその知人は少年だった筈だ。
少女は生き写しかと思うくらいその知人に良く似ていたが(トレードマークである右手の手袋まで)肉眼でハッキリ見る限り性別は女性にしか見えない。
「滝さん、泊めて!!」
彼女はまるで彼のような口ぶりでそう言った。
「えーっと、どちら様?」
「俺だって!時任!!」
「俺の知ってるトッキーは確か男の子だった筈だけど?」
「男だよ!!だけど今は女!!」
「まぁ確かに女の子だねぇ」
確かに女の子だ。
胸の膨らみ程度では女装の方を疑うが、骨格に顔立ち、背丈、声まで違うのだ。
彼女の言う通り恰も性別が逆転したような有様だが、しかしいくら何でもそんな非科学的なこと、すんなり納得しろと言われても無理な話だった。
しかし滝沢はふと思う。
確か彼の右手は人ではなく獣だ。
人から獣に成る事だって十分非科学的な話。
なら男が女に成る事だって彼なら有り得ない話ではないのではないか?
「ま、とにかく上がりなよ」
滝沢はとりあえず時任だという少女を部屋に通すことにした。
上がり込む背中を見ながら、こんな時間に女の子が男の部屋に上がり込むなんて無防備だねぇ、そんなことを思う。
そしてそんな無防備さも彼と良く似ている。
少女に珈琲を煎れてやった滝沢は、
「それでまた一体全体どーして女の子になっちゃったワケ?」
成り行きを問うた。
「分かんねぇ……」
少女はそう言ってうなだれる。
しょんぼりとした様は元気のない猫そのものだ。
それを可愛く思いながら、
「じゃあ、なんでウチに?」
さらに尋ねる。
途端に勢い良く顔を上げた少女は怒りに目を吊り上げ、
「だってさ!!」
憤怒に満ちた顔と声音で、
「俺がこーなった途端子作りしようとか言い出すんだぜ久保ちゃん!!」
滝沢は思い切り珈琲を吹き出した。
そして盛大に咳込む。
「あんまりしつこいから家出て来た……って大丈夫か?滝さん」
「~~ゴメンゴメン。……それは災難だったな」
辛うじて平静を装いそう返す。
正直、時任が女になったと聞いた時よりも衝撃は大きかった。
久保田が時任に尋常ならざる執着を抱いているのは感じているし、そういう関係なんじゃないかと勘繰ったこともある。
そんな冗談を言ったことだってあるが、しかし、それでも久保田が時任に子作りを迫っているところは俄に想像し難かった。
滝沢は改めて、久保田が時任に対して抱いているものは普通でないとそう思う。
「だからさ~今日泊めて貰ってもいい?」
「あ、あー別に構わんけど」
「サンキュー、シャワー借りるな!」
時任は(少女はもう時任で間違いなさそうだった)泊めて貰えると分かって安心したのか、喜々として浴室に向かったが、滝沢は新たな問題が浮上したのを感じた。
ずばり時任は滝沢の想い人だ。
元々ノンケである滝沢は男である彼を性的にどうこうしようと思ったことはないが、今の彼は女。
どうこうしようと思っているワケではなくても、どうこうしたいとは思ってしまうワケで、男として何も感じるなというのは不可能な話だ。
しかし久保田のことがある。
先の通り、久保田の時任への思いは常軌を逸している。
今現在の二人の関係についたレッテルなんて関係なく、久保田は時任に特別な感情を向ける存在を許さないだろう。
そして、時任だって。
滝沢は最早、時任の性別が何故逆転したのかという謎に対してはすっかり関心を失っていた。
ジャーナリストとしては由々しき事である。
滝沢が色々思いを巡らせ煩悶してる内に、シャワーを浴び終った時任が、
「シャワーサンキュ~」
部屋に戻ってきた。
何気なく振り返った滝沢は再び珈琲を吹きそうになった。
その辺にあった滝沢のワイシャツを拝借したのだろう、勝手に着ていたが、問題はそこではない。
時任が、その習慣がないが故に、下着を身に着けていないことだった。
下着、もっと厳密にいうとブラジャーだ。
髪から滴る雫にワイシャツが濡れて、非常に宜しくないピンク色の何かが透けて見えている。
以前部屋に泊めてやった時も上半身裸で部屋をうろつき回り、ピンク色がちらちら視界をちらついて目に毒なことこの上なかったが、この毒はその比ではなかった。
毒というか猛毒だ。
一瞬で理性が麻痺して壊死しそうになるのを辛うじて意思の力で押し留めたが、
「……それ、触っていい?」
欲望が言葉となって飛び出すのを押し留めることは出来なかった。
指は時任の胸を指している。
……ん?既に死んでない?俺の理性。
いやいや、襲い掛かって押し倒さなかっただけ表彰モンでしょ、と、自己完結しつつ時任の答えを待った。
時任は一瞬ポカンとすると、滝沢の顔と、指と、指が指しているものに視線を順に走らせる。
何の許可を求められているかを理解して、途端に真っ赤になってばっと両腕で胸元を隠した。
「~~駄目に決まってんだろ!!」
しかし、そんな初々しい反応に更に煽られてしまう。
滝沢は粘った。
「男同士なんだしいいじゃない」
滝沢は迫り、時任は後ずさる。
「いや、そりゃそーだけど今女だし」
「まぁまぁ。大事なのは本質ってね」
「別にむ……触りたいなら、俺じゃなくても……!!」
「いやいや、男から女の子になっちゃった奴の胸なんて貴重じゃない。触り心地とかどーなのかなぁって。ジャーナリスト魂が疼くってゆーの?」
嘘だった。
今、滝沢の中にあるのは雄の本能だけだ。
「ジャーナリストとして何もかも知りたいなぁってね」
時任の背が壁にぶつかった。
追い詰めた滝沢はとんっと壁に手を付いた。
羞恥と混乱で沸騰しそうな顔をしていた時任だが、
「あ……」
小さく声を漏らして、目を見開いた。
背後に向けられた瞳に過ぎる感情の色に、滝沢は何が自らの背後にいるかを悟る。
音も気配もないが、時任にこんな表情をさせる存在はただ一つだ。
「なーんてね、冗談冗談」
ぱっと手を上げて、身体を離す。
そして何気なく振り返った演技をし、空々しく驚いてみせる。
そこには案の定、久保田が立っていた。
「今晩は、滝さん」
彼の挨拶も白々しい。
「やぁ、くぼっち。奇遇だねぇこんなトコで会うなんてさ」
笑顔でそう言いつつ、内心でこっそり零す。
……鍵はどうした。
久保田は常と全く変わらない表情と声音だったが、彼の機嫌があまり宜しくないであろうことは何となく察せられた。
「帰るよ」
時任に一言そう言うと、抵抗を物ともせずにひょいと肩に担ぎ上げる。
そして肩の上で時任が喚き暴れるのを一切無視したまま、
「お邪魔しました~」
それだけ言って帰っていた。
一人残された滝沢は、家の鍵をピッキング防止の物に付け替えようと心に決めた。
たりいなぁ……
一人で吸う煙草は味気ない。
笹原も石橋も単位がヤバイとかで、校舎裏に居るのは俺一人だ。
タルい上につまらない。金もない。
カツアゲのプランでも立てようかとか考えていたら、前方からすげぇ速さですげぇ形相した女が走って来るのが見えた。
……なんでセーラー服着てるんだ?
段々近付いてくるにつれはっきりと見えてきた顔は、美少女という言葉がすぐに浮かんでくるような風貌だったが、勝ち気な猫目といい眉間の皴といい、何となくいけ好かない。
っていうか時任にそっくりじゃね?あの女。
右手に手袋してるトコまで同じじゃねぇか。
時任似の女は俺と目が合うと、そしてくわえている煙草に気付くと、
「校務発見ッ!!」
そのままの速度で突っ込んできた。
「うぉッ!!」
次いで繰り出されたパンチを慌てて避ける。
そいつはこっちを睨みながら身構えていて、今にも間合いを詰めて殴りかかって来そうだった。
顔だけじゃなくて行動パターンも同じかよ!!
「正義の拳を避けんじゃねーよ!!」
「避けるに決まってんだろーが!!」
この居丈高な感じといい、これで男ならマジで時任だな。
けど、どんなに時任に似てたって女殴るのは流石に躊躇われる。
「誰だよお前ッ!?時任の従姉妹かなんかか!?」
「どう見ても時任様だろ!!」
「いやどう見ても女だろお前!!」
踏ん反り返って言われた言葉は耳を疑うようなモノで、ついでに目の前の女の正気も疑う。
確かに似てるけどよ……
女装には見えない。骨格から背丈から声の高さから違う。
しかしふとした表情まで時任そのもので、見れば見る程、時任本人であるように思えてきた。
……マジで!?
衝撃に固まる俺に構わず、
「天誅ッ!!」
いきなり回し蹴り食らわそうとしてくる。
だが、リーチが何時もより短いせいか間合いが掴めていない。
難無く避けた俺に舌打ちして、畳み掛けるように上段蹴りを繰り出してくる。
足が高く上がり、当然スカートの中が丸見えになった。
「おま、ちょ、見えてっぞッ!!」
思わず怒鳴る。
なんで女モン履いてんだよ!!いや今は女だけど!!
アイツは一瞬キョトンとした後、跳んで後ずさり、ばっとスカートの裾を押さえた。
「何見てんだよエッチ!!」
真っ赤になって睨まれ、何故か俺の顔も赤くなる。
「お前が見せてんだろーが!!」
顔が熱い。
クソッ!!なんで時任相手に!!
アイツがあんな初々しい反応するからこっちまで!!
「見せてねーよ馬鹿ッ!!」
今度は拳を振りかざして殴りかかってくる時任。
けどやっぱり、骨格から違うせいか拳に何時もの威力はねぇし避けるのも容易い。
が、避け続けても埒があかず、殴るのも躊躇われて、仕方なく羽交い締めにして動きを止めることにした。
暴れまくる時任を後ろから無理矢理押さえ込もうとして……
むにっ
思い切りわし掴んでしまった。
柔らかい何かを。
いやコレはアレだよなアレ!!
思ったよりも結構……!!
「~~~~~ッ!!」
「いってぇっ!!」
声にならない悲鳴を上げ、思い切り俺の足を踏んだ時任は腕の拘束が緩んだ隙に俺を突き飛ばした。
よろめきながら俺をきっと睨み、
「触んな馬鹿ぁッ!!」
ズキューン
な、なんか変な音がしたぞ胸の奥から!!オイ!!
正気に返れ俺の心臓!!相手は時任だぞ!!
けど、耳まで赤く染め目尻に涙まで浮かべた顔を見てたら、心臓どころか別の部分まで反応してしまいそうだった。
「大塚く~ん?ウチの猫と何遊んでるのかなぁ?」
熱くなった身体を一瞬で氷点下にまで冷やす声が背後から聞こえた。
物凄く、物凄く見たくなかったが、ゆっくりと首を回し振り向くとそこには案の定久保田が立っていた。
い、いつから!?ってか見られたのかアレを!!?
冷や汗が吹き出し額を流れていく。
時任は久保田に気付くと眉を吊り上げ食ってかかった。
「久保ちゃんのせいだぞ!!てめーが子作りとか妙なこと吐かしやがるから俺は大塚に見られたり揉まれたり……!!」
こ、子作りぃ!?っつか余計なこと言うな時任!!
「へぇ……見られたり、揉まれたり、ねぇ?」
久保田が眼鏡越しに俺を見た。
こ、凍る!!凍え死ぬ!!
別段何時もと変わらないような顔付きなのに、背筋を這う悪寒が止まらない。
ふいっと久保田は俺から視線を外すと、
「ごめんね?」
時任に歩み寄って後ろから優しく抱きしめた。
「どこ揉まれたの?」
「そ、そんなん言わなくても……わかんだろ?」
「そーだね」
柔らかく笑って久保田は……時任の胸を鷲掴んだ。
「ふぎゃああッ!!」
「んー」
猫みたいな悲鳴を上げる時任に構わず、躊躇いのない手つきで胸を揉みしだく久保田。
「思ったよりはあるなぁってブラ付けたげた時思ったけど、頑張ればもっとおっきくなると思うんだよねぇ」
卑猥な指の動きが時任を翻弄し、暴れるだけだった身体が徐々に大人しくなっていく。
息の上がった時任の耳元に顔を寄せ、
「だから早くウチに帰って……ね?」
低い声で甘く囁いた。
「……ざ、けん…なぁぁぁあああッ!!」
骨抜きにされたかのように見えた時任の、渾身のエルボーが久保田の眼鏡を叩き割った。
バリーンッ!!
校舎裏にガラスの割れる高い音が響く。
め、眼鏡が割れたぁぁぁってか割りやがったぁぁぁッ!!
動きの止まった久保田の腕からするりと抜け出ると、
「久保ちゃんのアホ馬鹿エローッ!!」
捨て台詞を吐きながら、時任は勢い良く駆け出しいずこへと走り去っていった。
「……」
残された久保田は、冷静に割れた眼鏡を顔から外すと、
「流石にもう替えの眼鏡はないなぁ」
頭をかきながら、特に焦った様子もなくのんびり時任を追おうとして、
「おっと、忘れるトコだった」
ついでのように、呆然と立っていた俺を容赦なく蹴り倒しきっちりトドメまで刺していった。
「ぐぉ……ッ!!」
薄れゆく意識の中、脳裏を過ぎったのはあの感触だった……
……柔らかかったなぁ……
俺は時任を再度横目で眺めた。
不機嫌MAXといった面持ちで、眉間に皴が何本も刻まれてる。
だけど、大きめの目のせいか、丸い輪郭のせいか、いつも程の険は感じられない。
顔の輪郭だけじゃない。
背丈だって10㎝は低いし、細く締まっていた身体も少し丸みを帯びて柔らかそうなフォルムになっている。
それに……そこまで自己主張してないけど……胸……の膨らみが確実に存在してるし……
椅子に座って不遜な態度で足を組んでる姿はどこからどう見ても時任だ。
けど、どこからどう見ても女の子だよな……
ぶすーっとしている時任(とぼーっと煙草吹かしてる久保田)に聞こえないよう、こっそり桂木に耳打ちする。
「なんでウチの制服じゃなくてセーラー服着てるんだ?」
「女子の制服が用意できなかったからですって。……セーラー服は家にあったそうよ」
幾分げんなりとした表情で、桂木は答えた。
何で家にセーラー服はあったのかはあんま考えたくないな……
しかし急に女の子になっちまうとか、相変わらず面白い奴だな、時任。
本人にはかなり切実な問題だろうけど、こっちに害がある訳じゃないし、時任にゃ悪いが他人事だ。
ついつい珍獣を見るような目で観察してしまう。
色々なパーツが女の子仕様に変化しているものの、髪の長さは変わっていない。
女の子にしては大分短いが、それでも男に見られることはないだろう。
良く見ると、俯きがちな顔の、前髪から覗く瞳には何時もの強気な光よりも不安げな色の方が強くて、不機嫌な表情はそれをごまかす為のものであることに気付く。
そりゃそうだよな……いきなり自分の性別変わったら、流石の時任でも不安になるよな……
そー思うとなんか……
きゅん。
な、なんか胸の奥で変な音がしたぞ!?
落ち着け俺の心臓!!
どんなに女の子の形しててもあれは時任なんだからな!!
けれど、一度可愛く見えてしまえば……
……訂正。
大分有害だ。
「久保田になんか変わった様子は?」
「別にー」
二人してちらちらと久保田に視線をやる。
手元の近麻に目を通すでもなく空を見上げている様は、思案に暮れているようにも見えるし、単にぼーっとしているだけにも見えた。
まぁいつも通りの久保田だ。
「時任の一大事に落ち着いてんなー」
「だって久保田君よ?男とか女とか関係なさそうじゃない?特に時任に関しては」
「それはそれで大いに問題な気がするけどな……」
その時、ふいに久保田は時任の方を向いて、
「時任」
と名前を呼んだ。
顔を上げた時任に手招きをする。
訝しげな表情を浮かべつつも素直に近付いてきた時任の手を軽く握ると、
「こうなってからずっと考えてたんだけどね……」
珍しく真面目な顔をして目の前の猫目を見上げた。
「うん?」
時任は首を傾げて次の言葉を待っている。
あーいつも通りに見えても、やっぱちゃんと時任のこと考えてんだなぁ、久保田なら元に戻る方法とかも思い付きそうだよな、等と思っていたら、
「子作りしよう」
真面目な顔のまま、久保田はそう言い放った。
桂木と俺、そして時任の目が点になる。
子……作…りぃぃいッ!?
「はぁあぁ!?」
数秒遅れて言われた言葉が脳に届いたらしい時任が、素っ頓狂な叫び声を上げた。
そりゃそーだ。
しかし久保田は何食わぬ顔で、
「だって今しかチャンスないじゃない、お前と子供を作る」
いけしゃあしゃあとそんな事を言う。
「そーゆー問題じゃねぇだろ!!俺様一刻も早く元に戻りてぇんだけど!!」
「子供作ってからでいいじゃない」
「アホかーッ!!」
ってかあんな涼しい顔で時任との子作りすること考えてたのか!久保田!!
お前とは結構付き合い長いけど……時々わかんねぇよ……
桂木は呆れ果てた顔して二人を視界から外していた。
関わりたくないらしい。元より時任しか見えていない久保田は、椅子から立ち上がって暴れる時任の腰を抱くと、耳元に顔を寄せる。
「だから、早くウチに帰って……ね?」
低い声で甘く囁いた。
「……」
急に暴れるのを止め、時任は俯いてしまった。
久保田は更に顔を寄せると、そんな時任の顔を覗き込んだ。
その瞬間、狙い済ましたかのように時任の右手の指が久保田の眼鏡を貫いた。
パリーンッ!!
小気味よい音が部屋に響く。
め、眼鏡が割れたぁぁぁってか割りおったぁぁぁっ!!!
動きの止まった久保田の腕からするりと抜け出ると、
「久保ちゃんの変態エロ親父ぃぃぃッ!!!」
捨て台詞を吐きながら、時任は勢い良く部室から飛び出しいずこへと走り去っていった。
「……」
残された久保田は、冷静に割れた眼鏡を顔から外して新しい眼鏡に変えると、特に焦った様子もなく時任を追ってのんびり出て行く。
俺らが何かリアクションする間もなかった。
二人きりになった部屋で俺と桂木は顔を見合わせ、深い深い溜め息を吐き出した。
お前ら……ホント見てて飽きねぇよ……