夜中に、突然チャイムが鳴り響いた。
扉の向こうに立っていたのは、
「……よぉ、滝さん」
トッキーだった。
「どした?こんな夜更けに」
「…………」
トッキーは答えず、無言で俺の狭い部屋に上がり込むと着ていたパーカーをいきなり脱ぎ捨てる。
露わになった上半身から目を逸らす間もなく、一言。
「ヤろうぜ」
そう言って俺に向き直った。
当然、俺は面食らう。
ヤるって……ヤっていいの?ってか挿れていいの?なんて無粋な事尋ねたくなるくらい、トッキーが雄々しい。
目が据わってる。
「ヤろうってば、なぁ」
狼狽えたままの俺に焦れたのか、トッキーは俺のワイシャツに手を伸ばしてプチプチとボタンを外し始めた。
いや、お兄さん密かに君に惚れてたりするから、吝かじゃあないんだけど。
君とヤるにあたって無視できない巨大な問題が……
その時。
ドゴォッ!!という破壊音が玄関から聞こえた。
いやぁな予感。
恐る恐る玄関の方をを覗き込むと、巨大な問題が我が家の玄関に立っていた。
フツーに蹴り倒したみたいだけど、それ、鉄の扉だよね?
人間離れした事をやってのけたくぼっちは、しかしいつも通りの飄々とした顔付きで上半身裸のトッキーとワイシャツ脱がされかけてる俺を見やり、
「何やってんの?」
聞きにくい事をこれまた平然と聞いた。
そんなくぼっちをトッキーは横目で睨んで、
「浮気」
男らしく言い放った。
いや確かに君がしようとしてることはそうかもしれないけど、それ言っちゃったら俺の命が危なくない?
「時任」
トッキーの威嚇する猫みたいな態度にくぼっちは溜め息を吐いた。
「アレは誤解だって言ってるでしょ?」
「信じられっか」
「俺が時任以外に勃つ筈ないじゃない」
「俺は勃つけどな」
ホント男らしいよトッキー!!
どうやら、くぼっちが浮気したとかしてないとかで揉めているらしい。
夫婦喧嘩は何とやら。
「まぁまぁ、くぼっちは誤解だって言ってるし、後は二人で話し合えばいいじゃない」
これ以上のとばっちりはごめんだと、仲裁を試みるも、
「ヤダ。俺は今から滝さんとヤんの」
トッキーはへそを曲げたまま俺から離れようとしない。
「泊まってってもいいよな!?」
俺のワイシャツを掴むトッキーの後ろに、黒光りする拳銃を構えるくぼっちの姿が見えた。
…………ごめん。
銃口向けられて正直な気持ちを口にできる程、お兄さんは命知らずじゃない、かな……
「んッ……」
煙草くせぇ……
深く沈んでいた意識に煙草の匂いが引っ掛かって、眠りの淵から引き上げられる。
体の下が妙に温かく、気持ち良くて無意識に頬ずりをした。
ふわふわとした心地のまま何故こんなに温かいのか考える。
……俺、どこにいるんだっけ。
瞼を押し上げる。
薄く目を開くと、ピントが合わない程近くに白い物体があった。
瞬きを繰り返す。
「あ、起きた?」
頭上から柔らかい声がして目線を上げると、眼鏡の男とバッチリ目があった。
誰。
っていうかこの状況って……?
寝ぼけた頭のまま、妙にスースーするなぁと思い視線を下げる。
裸だった。
全裸だった。
一瞬で覚醒する。
「ちょッ、俺なんで真っ裸なんだよ!!」
悲鳴のような声で叫んで、ばっと体を起こすと辺りを見回す。
狭い部屋の中、ベッドの上で全裸の俺と眼鏡の男は一緒に寝ていた。
温かかったのは眼鏡男の体温だ。自らすり寄ったことを思い出して鳥肌が立つ。
なんだこの状況!?
ここには俺と眼鏡の男の二人しかいない。
俺に自ら裸になった覚えがない以上、コイツが俺を裸に剥いたのだろう。
その上、ベッドに寝かせて……
へ、変態だ、コイツ絶対変態だ!!
俺様が寝てるのを良いことに、変なこと色々するつもりだったに違いない!!
いや、もしかしたらもうされたのかも……ッ!!
よくも世界一の美少年である俺様の体に!!
ぜってー殺すッ!!
「んー確かにこの状況だと弁解の余地はないんだけど……」
変態はのほほーんと頭をかいて、
「俺をベッドに引きずり込んだのは、ソッチよ?」
と、胸元を指し示した。
指差す先には、ソイツのワイシャツをしっかり掴んでる、俺の右手。
「……ッ!!」
慌てて手を離して、ソイツを睨みながら後ずさる。
勿論、シーツで前を隠すことも忘れない。
目に付いた異形の右手とか、すっからかんな俺の記憶とか、逃げろとうるさい心の声とか気にすべきことは山程あったけど、今この瞬間の危険を乗り越えるのが先決だ。
「そんなに警戒しないで欲しいなぁ」
変態は楽しそうにそう言いながら躙り寄ってくる。
「よ、寄るなッ!!」
「裸で一緒に寝た仲じゃない」
裸だったのは俺だけだッ!!
壁に張り付いて限界まで離れようとする俺を見て、変態は動きを止めた。
右手じゃなくて、俺の目を、覗き込むように。
「ああやって、寝ぼけて誰かに抱き付く癖でもあるの?」
その視線は何故か、とても真摯なものだった。
ゆっくりと離れていくそれを呆然と眺める。
見慣れた顔の中で厚めの唇がヤケに目に付いた。
「何……して……」
頭が上手く回らない。無意識に漏れ出たのはそんな言葉。
「何って?言わなきゃ分かんないほど子供じゃないでしょ?」
久保ちゃんは笑った。
割とシニカルな奴だけど、俺にこんな皮肉っぽい言葉を向けることはあんまり……殆ど、無かったのに。
責めるような眼差しを向けられていることが釈然としない。
だって被害者は俺の方じゃん。
学校の屋上で、いきなり、
……キスされたのは、俺の方。
「なん、で」
「我慢の限界だったから。人間って死を回避するよう本能に組み込まれてるじゃない」
俺だって死にたくないし、と久保ちゃん肩を竦めた。
意味わかんねぇ。
意味わかんねぇよ、と吐き捨てる。
「どう言えば分かるかなぁ。例えばさ、砂漠でオアシスが目の前にあるのに、足枷嵌められてて水が飲めない人、みたいな。勿論、水が飲めないままなら渇いて死ぬ」
屋上の柵に背中を預けて、久保ちゃんはぼやくように言葉を続けた。
「酷いよねぇ。こんだけ渇いてるのに、目の前にあるのに、飲めない。オアシスが許してくれさえすれば足枷なんて無くなるのに」
だってそんなん例え話だろ?
久保ちゃんは遠回しに俺を責め続けてたけど、なんで、なのかやっぱり分からない。
語られる言葉は殺伐と渇いていて、愛とか、恋とか、そういう甘い言葉は出て来なくて、余計に混乱した。
唇はまだジンジンと熱を帯びている。
「でもさ、そんな極限状態でいきなり大量の水が与えられたら節度なんて考えられないまま飲んで飲んで内臓壊れるまで飲んで死んじゃうだろうなぁ」
久保ちゃんは自分の唇をなぞった。
「結局、どっちにしても死んじゃうね」
「どんな死に方を俺にして欲しいかお前が選んでよ」
それは告白なんて生温いモンじゃなくて、ただの脅迫だった。
何勝手なこと言ってんだよ。
目の前の飄々とした男を睨み付ける。
「嫌だ。どっちも。久保ちゃんが死ぬのは」
お前が生きる為なら何だってするのに、俺は。
それを聞いて、久保ちゃんは。
やっと何時もの柔らかい、優しい笑い方をして、言った。
「お前が一緒に死んでくれるならそれが一番だけどね」
そう。黒く薄くしかし決して離れないもの。
何も望まず何も望ませず、しかしけして離れることは無い。
光と共に存在し、光が消滅すれば共に消える。
表裏であり無二の存在でありながら、しかし決して交わることはない。
そういうモノに、俺はなりたかったのかもしれない。
久保田と時任は二人並んでテレビを見ていた。流れている番組そのものはつまらなく、惰性で見続けているといっていい。夕飯後のカレーが詰まった腹は満腹感と眠気を訴えていて、ゲームをするのも億劫。煙草吹かしてるコイツの隣でただぼーっとしてたい。時任は半分以上眠りの淵に入った頭でそう思っていた。ぼぅっとしたまま久保田の肩に頭を乗せる。肩が微かに揺れた。笑ったのかもしれない。
「……時任」
久保田が優しく名前を呼んだ。くってりとした時任の体を抱き寄せ、腕を時任の腰に回した。何時ものように。後背に久保田の体温を感じ、時任は体重を預けた。抱き締められるのは純粋に気持ち良いと思う。項に掛かる息とか、体温とか鼓動とか久保田の存在を直に感じることが出来るからだ。後頭に軽い感触がした。久保田の唇が当たった感触だ。音を立てて繰り返し頭や首筋に落とされる唇が擽ったくて、時任は笑いながら微かに身を捩った。久保田も多分笑っているのだろう。優しい、キスの感触。
「時任……」
腹に回された手の力が僅かに強まる。ちゅッ……首筋に吸い付かれて体がビクリと震えた。
久保田が何を言いたいのか、したいのか、しようとしているのか、時任には分かっている。けれど。
「……久保ちゃん」
時任は久保田の名を呼んだ。久保田は返事をせずに項につけた赤い痕を舐める。聞き分けの悪い犬のように。
「久保ちゃん」
その一線は越えちゃ駄目だろ。
越えたら、もう戻れなくなる。
時任は己の腹の上で組まれた手を叩き、久保田は素直に手を離した。解放されると何事もなかったかのように立ち上がる。その顔に影は無い。時任は、久保田が背にしていたソファーに飛び乗ると、
「お前はベッドで寝ろよ。今日は、やさしー俺様がソファーで寝てやっから」
寝転がった時任に、久保田はさっさと背を向けられる。
「おやすみー」
「……お休み」
その背中に苦笑し、リビングを出る。取り残されたような気分だ。寒いのは、冬の所為ばかりじゃないだろう。
パタン――
やけに大きく、ドアの閉まる音が響いた。
その次の日、久保田と時任は久し振りに遠出をした。新しい服が欲しいと、時任が言い出した為だ。外は快晴。そして埃混じりの風。目に砂が入らなきゃいいけどと、隣を歩く自分よりも小さな影を心配した。
「いい天気だねー」
「そだな」
「デート日和」
「言ってろ」
いつもの受け答え。時任の顔はこの青空と同じくらい陽気に晴れ渡っている。
「服買ったらさ、カラオケ行かね?」
「いーけど、なんか歌えるの?」
「馬鹿にすんなよ久保ちゃん! 俺様の『狙い撃ち☆』聞いて腰抜かしやがれッ!」
「うわぁ。ちゃんとフリも付けてね」
「……それはヤダ」
「俺は『ラブマスぃーン』でも歌おうかなぁ?」
「キモッ!」
小首を傾げて言った久保田の冗談に、時任は顔を顰めて、それから機嫌良さそうに笑った。
その帰りだった。時任の肩には大きな紙袋が下がっており、自分が気に入ったシャツが二、三枚と久保田のセーターが入っていた。全て時任が選んだものだ。
「あー!!スッキリしたー!!」
途中からマイクを独占していた時任は本当にスッキリした顔をして、大きく伸びをする。久保田は夕闇に浮かぶ黒い雲の影に向かって、ふぅと煙草の煙を吹きつけた。
「でも久保ちゃんがマジに『ラブマスぃーン』歌うとは思わなかった」
「お前の『狙い撃ち☆』も迫力あったけどねぇ」
そう言って久保田は時任の肩を抱き寄せた。
見上げる猫目の耳元に一言。
「走るよ」
時任は何も言わずただ頷いた。背後で影の様に尾行て来ていた黒い男達に気付いていたのだろう。カラオケボックスを出てからだった。
走って、走って走って。
逃げた後、ビルの影で立ち止まる。振り切れたかは五分五分といったところだった。壁に手を付いて荒い息を吐く時任に、
「こっからは別れよう。待ち合わせは家ね」
そう伝えると、時任は視線だけこちらに寄越して無言で首肯した。その身体を、少々強引に抱き寄せる。
時任は目を閉じて上を向き、久保田はその唇に同じソレを重ねた。
久保田は目を閉じない。何時もより強く、少しだけ長く、キスをした。熱の全てが唇一点に集中する。この熱は確かに甘いと思う。手は身体を強く抱き、唇で熱を交わしながら、久保田の目は地面に落ちた二人の影を見ていた。
まるで一つのモノのように重なり交わった影を。
音を立てて唇が離れると、赤い顔を背けて時任は走り出した。
その後ろ姿に呟かれた言葉は、音にならずに消えた。
愛してるよ?
愛しているのに、何故……
駅向かって時任は走った。人ごみに紛れてしまえば迂闊には手を出せない、そう判断した上の行動だった。軽々しくやり合って殺されたくも、殺したくもなかった。
走りながら、まだ熱の残る唇を指でなぞる。久保田が残した熱。時任は、昨日のやり取りを思い出した。
傍にいるだけで心地よいのに。
抱き合い繋がって得られるモノも、きっと心地良いのだろう。それが分かっていても、触れ合うだけで幸せを感じられるこの関係をあえて壊したいとは思わない。久保田は、繋がりたいのだろう。その気持ちに目を伏せている事に罪悪感が無い訳ではない。抱き合うことが嫌な訳でもないし、心の底では自分もそれを望んでいるのかもしれない。
けれど一線を越えた先にあるのは確実に別の関係だ。例えその変化が好ましいものだったとしても、今この手にある幸せを簡単に破棄出来るほどに強い訳ではない。
……いつからこんなに弱くなったんだ。
甘えているんだ、多分。
そして甘えている自覚にすら時任は幾らかの心地好さを感じていて、それは久保田相手であればこそで。
「久保ちゃんが甘やかすから」
俺が駄目になっていくんだ。
時任は心の中で呟き、小さく笑った。彼にとってそれは惚気だったのかもしれない。
駅は近い。角を曲がって突如、避けていたものと遭遇した。黒い服の男が一人、恐らくあちらにとっても想定外だったのだろう。目を見開き、そして。
男が胸元に手を入れソレを抜き出し引き金を引くまでの数秒間に選択を迫られた。BGMは脳内のカウントダウン。笑えない。
殺らなきゃ 殺られる。
ほら、手が背広の中に差し込まれた。威嚇して睨む。体は、まだ動かない。風が軋む。耳鳴りがまるで潮騒。血も滾って。背広の合せ目から黒光りする暴力が顔を覗かせた。さぁ、早く。
選べ。
己の中の野生が理性に選択を迫った。答えは、勿論。
完全に銃口が向けられる前に走り出し、間合いを詰める。右足で蹴り上げて牽制。相手が蹌踉めいた隙に、歯で脱ぎ捨て露わになった自らの凶器を、狂気の成れの果てを振り翳す。男がそれを避ける為にグリップで殴りつけてきたがそんなものは当たらない。直ぐに標準を合わせようとしなかった時点で命運は決していた。男の一撃を避けた時任は、一撃を穿つ。男の太い首の、柔い肌の、その直ぐ下を流れる血脈を裂く。吹き上げる動脈血が赤い雨のようだった。喉笛をやられ、断末魔を上げることも出来ずに男は絶命した。
殺した。
崩れ落ちた肉塊の前で立ち竦む。そんな時任の耳に聞きなれない声が流れ込んできた。
「少し意外だな。君はもう少し躊躇するかと思っていたが」
「……誰だあんた」
とっぷりと暮れた夜の闇を照らす外灯の死角に停められていた車から見慣れない男が出てくる。ストライプのスーツを着こなす男。堅気には見えない。
「君が私のことを知る必要はない」
男は笑って、アークロイヤルに火を付けた。その顔に浮かんだ笑みと、漂うバニラの香りに吐き気が込み上げる。血臭に混じる甘い醜悪な香。時任は顔を顰めると、臨戦体勢を崩さぬままにじり寄った。背後は壁だ。突破するしか生き残る道は無い。
「君は大人しく我々に付いて来るだけでいい」
男の影から、二人の男が姿を現した。どちらも銃口を時任に向けている。一対二。加えて飛び道具。煙草を燻らせる男も銃を所持していることは明白だった。
どうする?
こんな時に久保田の影が脳裏に浮かぶのは甘えている証拠だろうか。自嘲が、時任の顔に影を落とした。
大人しく捕まるわけにはいかない。殺らなきゃ。
「君は躊躇わないのかな?」
再び男が聞いた。男の手下も間合いを詰めて来る。
「躊躇わねぇよ」
殺すのには躊躇する。
だが生きるのには躊躇しない。
久保田は駅とは逆方向に走っていた。時任は駅に向かっただろうから。敵が自分を追ってくればいい、人気の無い場所ならば銃で応戦できる。簡単に、殺せる。そう判断した上での行動だった。時任さえ無事ならば。
走りながら、まだ熱の残る唇を指でなぞる。時任が残した熱。久保田は、昨日のやり取りを思い出した。
実際、良く耐えていると思う。鎖で縛って首輪で繋いで、昼夜を問わず犯し続けて、嫌がり暴れる時任の涙も苦鳴も呑み込んで、なお「愛してるよ」と囁ける程にはエゴイストである自分を、久保田は自覚している。
何故、無理矢理抱いてしまわない?
……そんなこと、俺が、聞きたい。
そろそろ駅に向かおうと考えていた矢先だった。自分の中の獣が警告を発して、向かいのマンションに目をやる。階段から男が、銃口が心臓を狙っていた。
「 」
咄嗟に頭を伏せて物影に滑り込む。無意識に唇から滑り出た言葉は何だったのか。考えていたのは時任のことだけだったけれど。想いは、何故という言葉に埋め尽くされている。
愛していいなら抱かせて下さい。
直情的で動物的な、拙い、だからこそとても切実な想い。
サイレンサーの間抜けな狙撃音が直ぐ傍を通り過ぎる。空気の振動が頬を打った。
愛しているから証拠を見せたい。
愛しているなら証拠を見せてよ。
音が途切れた隙にこちらから銃弾を叩きこむ。少し距離が遠かったが外れない、外さない。耳障りな悲鳴が闇の中から上がった。
光で出来る影のように愛で生まれる付加感情。それ自体は愛じゃなくても、でも愛しているからこそ。
「久しぶりね」
聞き覚えのある声が耳朶を打つ。振り返ると、以前対峙した男が立っていた。関谷。余裕の笑み。手の中の拳銃は無論久保田に標準を合わせている。
「出雲会が動いたっていう情報が入ったのよ」
出雲会。……真田。
「うちも鼠狩り。いや、子猫狩りかしら?」
耳障りな笑い声が響く。
「で、お宅の猫ちゃんはドコ?」
「ウチで寝てるけど?」
「そう……」
獣性が犇く。
「貴方好みなんだけどね。残念」
銃声が響く。
撃合いの末、久保田は関谷を蒔いた。どちらかが死ぬまで徹底的にやってもよかった。それだけの殺意は今も抱いている。しかし、出雲会も動いているというのが本当であれば、既に時任と真田が遭遇している可能性がある。
「もし殺されてなんかいたら……死んでても抱くからね」
何故抱いてしまわないのか?
それは、傍に居るだけで心地好いから。傍に居るだけで満たされる。気持ちいい。結合に必要性を感じないほど。それはきっと時任も同じで、だから一線を越すことで何かが変質することを恐れているのか……嫌がっているのか。
時任が嫌だというのならば待つつもりだった。
でも、そろそろ、限界。
今日みたいな日は尚更。
打たれた肩がじんじんと疼く。足はただ時任の元へと走る。
俺はそんなに聞き分けの良い犬じゃないんだよ?
――ガウンッ!ガウンッ!
「ごはァッ!!」
「がッ!!」
突然響いた銃声。時任に今にも掴みかかろうとしていた男二人は血を噴いて地に臥した。黒いコートを翻し、背後のブロック壁からひらりと飛び降りた久保田。驚いたように目を見開く時任の腕を掴むと、走り出す。車内からこちらを見遣る真田の歪んだ笑みに一瞥を残して、間に合ったことに安堵で心を震わせながら。
走って走って走って、ようやく辿り着いた我が家。ソファーの前に倒れるように座り込むと、疲労から口を利くことが出来なかった。荒い息を吐いて隣の時任を見詰める。暗い外では分からなかったが、顔や服の至る所に赤い血痕が付着していた、時任自身に怪我はない。返り血だろう。
殺したの、だろうか?
久保田は心の底から愛しさが湧いてくるのを感じた。人を殺してでも生きていたいと、久保田の傍に居ることを選んだ結果であろうから。
この想いは歪んでいるのだろうか、歪んでいても良い。
「ね、抱き締めていい?」
「ん」
久保田は時任の腰に腕を回した。何時ものように。時任が久保田に凭れ掛かり、より強く体温を感じる。少し熱い。久保田はしっとりとした髪に口付けた。唇に当たるさらさらの感触が擽ったい。時任もそうなのか軽い音を立てて唇が頭頂や項に触れる度、安堵したように笑い、しかし少しばかり警戒もして微かに身を捩った。それを咎める様に更に強く抱きしめる。気持ちの良い体だ。抱き締める度思う。自分の為に用意された存在だと、そう思い込めるからかもしれない。それが錯覚だとしても。
抱き締めると気持ちのいい体を抱いたらもっと気持ちいいのかな?
ねぇ、時任。教えてよ。
「!?」
時任は呆然と猫目を見開いた。天井の方にある顔を穴が開くほど見つめる。
「久保……ちゃん?」
自分を押し倒し覆い被さった、久保田の顔を。
「久保ちゃんッ」
時任が身を捩った。
「もういいじゃない」
我慢したんだ、今までずっと。
「一緒にイこうよ、戻れなくなる所まで」
そう言って口付けた。
そこはきっと心地良い筈。
上着を剥ぎとって、シャツの裾から手を差し込みながら久保田は訊ねる。
「ね、嫌?」
「嫌」
「俺のこと嫌い?」
「……ずるい」
「うん」
愛を言い訳に、お前も自分も誤魔化す俺は確かにずるいよ。
「愛してる」
その言葉に答えはなかったけれど、背中に腕が回されたから、久保田は安心してキスを再開した。
そう。黒く薄くしかしけして離れないもの。
何も望まず何も望ませず、しかしけして離れることは無い。
光と共に存在し、光が消滅すれば共に消える。表裏であり無二の存在でありながら、しかしけして交わることはない。
そういうモノに、俺はなるべきだったのかもしれない。
もう……遅いけど。
幽霊の存在を信じたことも疑ったこともないが、この目で見たことはただの一度もなかった。
少なくとも、今までは。
ソファーに寝転がって時任が気持ち良さそうに惰眠を貪っている。その寝顔を、床に座ってソファーに凭れ掛かりながら飽きもせずに眺めていた時だ。
「キモッ」
右斜め上からそんな声が聞こえて、反射的に顔を上げた。
目が合う。
ソファーの背凭れに腰掛けている時任と。
その顔は時任のものにしか見えなかったが、しかし時任は今もソファーの上で眠り続けている。寝息が指を擽る感触はリアルだ。
「…………時任?」
懐疑と困惑を含んだ問いに、彼は片眉を上げ、悪戯っぽく笑った。
「時任じゃないよ、俺も、その子も」
時任をその子と呼んだ彼は、良く見れば、時任よりもずっと幼い容姿をしていた。中学生位だろうか。
「俺は稔のお兄ちゃんだよ。久保田誠人」
時任の兄を自称する少年は、穏やかな口調で辛辣に言い放つ。
「あんたキモ過ぎ。いつまで稔の寝顔眺めてんだ」
「その顔でキモいとか言わないで。傷つく」
「正直だな。嘘つきの癖に」
彼はずっと微笑んでいる。幼い顔立ちに老成した笑みを浮かべて、知ったような事を言った。
「……時任にお兄ちゃんいたんだ」
「いたし、死んだ」
うーん。
何を信じて何を疑うべきか。
彼の言を信じれば、彼は時任の死んだ兄、つまり幽霊ということになる。
彼の言を疑えば、彼は時任そっくりのただの不法侵入者ということになるが、何故、いつ、どうやって、この部屋に侵入したのかという疑問が残る。
そのどちらも現実味がなく、寧ろ彼の存在を認識している俺の正気を疑う方が現実的のように思えた。
頼みの綱の時任は未だ夢の中。
しかし俺の方こそ夢を見ているみたいな気分だ。
「つまり幽霊」
「そう、幽霊」
彼はソファーに座るそのままの体勢でふわりと宙に浮かんで天井付近に漂い始め、俺はますます自分の正気を疑いたくなった。
と同時に、時任が目を覚まさないかが気になった。
彼が本当に時任の兄であるのならば、俺は時任に彼を会わせたくない。
「なんで幽霊が見えるのかな?」
「俺は今までずっと稔の傍に居たぜ?お前が突然霊感湧いたんじゃねーの」
「ずっと?」
他人に時任との生活の一部始終を見られていたというのはぞっとしない話だった。
「ずっと。あんたが稔を拾うまでも、拾ってからも」
彼は目を細めた。
「聞きたい?」
「遠慮しとく」
彼の語る言葉に俺の知りたいことなんて一つもある訳がない。
「ほんっと正直者な、あんた」
彼は天井を仰ぎ、時任はむにゃむにゃと寝言を言って、寝返りを打った。
以来、時任と俺と、時任の兄(の幽霊)との奇妙な同居生活が始まった。
始まったと思っているのは俺だけで、彼曰く、元々そういう状況だったらしいが、三人目の存在を認識しているのとしていないのでは天と地程の差がある。
見えなかった頃に戻りたいと切に思ったが、一度覚えた自転車の乗り方を忘れることができないのと同じで、どうすれば見えなくなるのか見当もつかなかった。
不思議なことに、彼以外の幽霊が見えることはなかった。
それについて彼に尋ねてみたところ、
「ラジオの周波数みたいなもんなんだろ」
等と事も無げに言っていた。
自分のチャンネルと合わない霊は見えないということか。
ならば、彼の周波数と合ったのが何故、俺なんだろう。アイツではなく。
第一声から気付いてはいたが、彼は俺のことがとても気に食わないらしく、 時任と並んで座っていたら「近すぎる」と言って実態のない手で俺の頭を叩いたり、時任の眠るベッドに添い寝して俺の侵入を阻止したり、嫌がらせに余念がなかった。
成仏してもらおうと塩を撒いたりもしてみたが、
「不快だから止めろ」
と言われただけで、時任には、
「なにやってんだよ!ソファが塩まみれじゃん!」
と怒られてしまった。
時任は彼が見えないようだった。
見えなければ居ないのと同じ。
視線が身体を素通りする感覚は覚えがあるもので、自分を見ることのない相手をただ見つめ続けるその様は身につまされたが、
「稔でヌいてんじゃねぇよ、この変態」
些細な同情は彼の茶々によってすぐに掻き消えるのだった。
彼は時任の側から離れることはなかったので、彼と会話するのは専ら時任が眠っている時だった。
ベットに丸まって猫よろしく寝入る時任の髪を、触れられない手で彼が何度も撫でている。
俺は時任の足元に座って、恨みがましくその様子を眺めていた。
彼の身体を素通りして時任に触れることは簡単だったが、何故かそれは憚られた。
「早く成仏しなよ。お兄ちゃんが現世でさ迷ってるって知ったら時任も悲しむと思うけど」
「俺の可愛い稔に悪い虫が付いてる内は成仏なんて出来ねぇな」
「ブラコン」
「昔は稔の方が俺にべったりで、にーちゃんにーちゃんってずっと後ろをくっついてきてた。年は離れてたけど仲は良かったよ。異国の地で、たった二人の兄弟だったしな」
彼は聞きたくもない昔話を俺に聞かせる。
「分かってる?稔はあんたに俺を重ねてるんだ。だから無邪気に甘えてる」
こちらを振り返って、彼はにっこりと笑う。乱暴な言葉遣いとは裏腹に、彼は穏やかな笑みを浮かべていることが多かった。
「役得じゃん。良かったな」
「……俺は時任のお兄ちゃんにはなれないよ。死んでまで弟を思うような良いお兄ちゃんには」
「別に良いお兄ちゃんだった訳じゃねぇよ。俺は死ぬ時、自分の事しか考えなかった。熱くて痛くて苦しくて、窓から一人放り出された稔がどうなったかなんて全然頭に浮かばなかった」
彼は目を伏せ、初めて自嘲気な笑みを浮かべた。
「……だからかな。こんなんになったの」
ふわりと時任のこめかみに口付ける。その口付けは髪一筋すら動かすことはなく、微睡みに漣一つ起こすことはない。
「俺はずっと見てた。俺が死んだ後、稔がどんな目にあったのか。見てただけだ。何もできない。稔が苦しんで、痛がって、泣いて、叫んで、すがっても救われない様を側でずっとただ見てた。やっと逃げ出せて、それで拾われたのがあんたにとか。なかなかお兄ちゃん泣かせだぜ、稔」
ポツリ、と呟く。
「人間はなんで運命を選べないんだろうな」
それは時任のことか。彼のことか。
後から思えば、仕草や振舞いは似ていないようでいて、自ら運命を変えたいと願い強い思いでやり遂げる所は時任と同じだった。
彼は時任の兄だった。
身体を起こし此方を見た彼の表情は既にいつものものに戻っていた。
「稔を見るあんたの目が嫌い。太陽見てるみたいな目付きしやがって」
自覚があるから言い返せない。
眩しく明るい、圧倒的な熱と光の塊。
俺は時任をそう見てるし、そうであれと信仰している。
「太陽に焼かれて死ねれば満足か?焼かれんのも、一人残すのもロクなもんじゃねーぞ。先輩からの忠告な」
時任と同じ顔で、時任と違う様に笑う。
「稔が太陽ならあんたはさしずめ、氷か雪かな。吹雪の夜は脅威だけど、日差しには滅法弱い。あっという間に溶けてなくなる。溶ける前に凍らせる位の気概見せろよ。それで太陽が太陽じゃなくなっても、一人にするよりはよっぽどいいぞ」
「詩人だね」
「誤魔化すな」
「君は俺と時任の邪魔をしたいの?それとも実はくっつけたいの?」
「からかってるだけ!俺の可愛い稔とあんたをくっつけたいワケないだろ」
少し考える素振りを見せてから此方を伺うようにして、
「あんた、稔の為なら何でもできる?」
そう言った彼の目は猫の目の様に光る時任の目と違って深く、底が見えない色をしていた。
「割と何でもできるつもりだけど」
それは腹の底からの本心だったが、恐らく俺は罠にかかったのだろう。
全ての言葉はこの為の布石だった。
俺が彼の周波数に合ったのではない、彼が俺のチャンネルに合わせて現れたのだ。
彼は天使のように微笑んで、悪魔のように囁いた。
「じゃ、体貸して」