室田はボディーガード、松原は調査員、相浦は情報担当で、三人とも小学生でありながらやはり優秀な久保田探偵の手足なのでした。
久保田探偵は皆の顔を見回してから、今後どう動くか、『作戦』の内容を完結に伝えます。
しかし、こうも直ぐに作戦が練れるというのは、やはり探偵の才能なのでしょうか?
「げッ!」
「ええッ!?」
久保田探偵の作戦を聞いた時任少年と桂木ちゃんは同時に嫌そうな声を上げました。
「……本気なの?久保田君」
桂木ちゃんは久保田探偵の方を伺いましたが、本人は至って真面目な顔です。
が、真面目な時ほどろくでもないのがこの探偵です。
「だってさ、真田さんのターゲットは時任と国宝でしょ。両方とも同じトコにいちゃ盗まれ易いだけじゃない?」
「……まぁ、そーなんだけどさ……でも……」
理解しつつもイマイチ納得しきれない相浦。
「でも……大丈夫なワケ?」
「確かに危険がないワケじゃないけど、ココには室田も松原も相浦もいるから大丈夫っしょ。真田さん本人が来ることはない筈だし、雑魚なら十分」
「俺は絶対に嫌だ!」
声を荒げて久保田探偵に突っかかる時任少年。
腹立たしそうにかぶりを振ると、
「いつもと同じがいいッ!」
そう言って駄々を捏ねました。
「時任……この仕事受けるって言ったの誰?」
久保田探偵は窘めましたが、
「でもッ!」
時任少年は頑として聞きません。
「真田さんは冗談みたいな人だけど、油断できる相手じゃないって時任も知ってるでしょ?こっちだって出来る限りの手は打っとかないと。それがお前の安全だったら尚更だ。ねぇ?」
冗談みたいな人、とか言われてます。
久保田探偵の言葉に、むくれて俯いていた時任少年ですが、暫くしてぼそりと呟きました。
「ぜってー二十面相の野郎、やっつけんぞ」
時任少年らしい勝気な言葉でしたが、それは承諾の意です。
「勿論」
久保田探偵はチュッと時任少年のほっぺにキスをしました。
他の少年団員は何時ものことなのでもうなんのリアクションもしたくないようです。
皆さまには、まだ久保田探偵の『作戦』の概要がハッキリ掴めていないかもしれません。
しかし、それは話が進むに連れ明らかになっていくことでしょう。
それから探偵は相浦に二、三、調べて欲しいことを伝え、分かったら直ぐに連絡するよう頼みました。
松原には美術館の事前調査、そして桂木ちゃんにはあるモノを用意するように頼み、葛西さんに連絡を入れた後はもう探偵は何をするでもなく、時任少年と戯れ過ごし、その間にも時間は刻々と過ぎていって……
久保ちゃんが珍しく、放課後買い物に行こうなんて言い出した。
休日に出掛けるのはよくあるけど、放課後に誘われるのは珍しい。
大体校務があるし。
でも今日はバレンタインだぜ?
放課後なんて、チョコを渡そうと俺様を待つ可愛い女の子がわんさか居るに決まってんじゃん!
何でよりによって今日!
けど俺様程じゃないにしろ、久保ちゃんにもチョコを渡そうと思ってる女子が居るだろうし、それはかなりムカつくから、文句も言わず久保ちゃんの買い物に付き合うことにした。
でだ。
着いた先は駅前のデパート。
の地下一階。
の、チョコ特設売場。
なっっっっんでよりによって今日こんなとこ来てんだよ!
男二人で!
さっきから周りの奴らにめっちゃ見られてるじゃん!
俺だってそんな奴ら居たら見るっつーの!
「何考えてんだ久保ちゃん!キワモノチョコ探しなら一人でやれ一人でっ!俺は帰るからな!」
小声で捲し立てる。
変な汗をかいて焦る俺様とは対照的に、人混みの中、久保ちゃんはのんびりショーケースのチョコを物色している。
当日でもこんなにチョコ買う奴いんだな…
久保ちゃんは俺の文句に、
「んー?」
「そーねぇ」
なんて生返事を返すばっかで絶対話聞いてねぇ。
本気で帰ろうと思った俺の口に、何を思ったのか久保ちゃんは試食のチョコを一つ放り込んだ。
「美味しい?」
濃厚な甘さが舌に溶ける。
後味も悪くない。
「旨い…けど」
「じゃ、こっちは?」
もう一つ差し出され、思わず口に入れる。
噛んだ瞬間にふんわり蕩ける生チョコレート。
シャンパン風味。
じゃなくて…
「なんっで俺に食わせんだよ。自分用なら自分で味見すりゃいいじゃねぇか」
「だって」
久保ちゃんは含んだ笑みを浮かべた。
「お前に渡すチョコなんだから、時任が一番美味しいと思ったのが良いっしょ?」
周囲のヒソヒソ話がピタリと止んだ。
視線という視線が俺の方を向いている気がする。
顔に血液が一気に上がって、そして一気に下がった。
返事次第で俺は、この衆目下、目の前ののっぽな眼鏡の男と、男と、バレンタインにチョコを贈り贈られる仲だって認めることになるのか。
一体何でこんなことに!?
バレンタインってこんなハードなイベントだっけ?
っていうかコイツ去年のバレンタインにチョコやらなかったのぜってぇ根に持ってやがる。今確信した!
ホワイトデーにもなんも渡さなかったのは流石に悪いかとは思ってたけど、まさかこんな形で報復食らうとは。
自分の唾を飲む音がやたら大きく聞こえる。
何やら写メを撮る音も聞こえる。
誰だ撮ってる奴は!金撮るぞ!
久保ちゃんは楽しそうに俺の様子を見ている。
ここで、冗談言ってんな馬鹿俺は帰る!と一蹴してしまうことは容易い。
俺のプライドはさっさとそうしろ!って怒ってるし、俺の男気もやむを得ないと頷いてる。
久保ちゃんだって結局は許してくれるだろう。
でも俺の中でたった一つ、それを許さない奴が居た。
試食のチョコを乱暴に手に取ると、久保ちゃんの口に突っ込む。
「……?」
「俺のもんはお前のもんだろ。……久保ちゃんの好きなチョコでいーよ!」
珍しく見開かれた細目を尻目に今度こそ背を向けて一人その場を後にする。
静かだった周囲は、悲鳴のような甲高い声が上がって一気に騒々しくなる。
背中に突き刺さる視線が痛い。
あーもう。
写真でもなんでも撮りやがれ。
今日日どんな恋人だってバレンタインのチョコ売り場でこんなバカップルなやり取りしねーだろ。
俺様はもう知らねぇ。後は一人で恥ずかしい思いしやがれ!
一人置いてけぼりの久保ちゃんが今どんな表情をしているのか少し気になったが、こんな赤い顔を晒せる筈もない。
あーもうマジはずい。
バレンタインなんて最悪だ!
この先何回何十回バレンタインを迎えたって、俺が久保ちゃんにチョコを渡すことはないだろう。
そんな必要なんてない。
久保ちゃんにはチョコより甘い俺様のこのコイゴコロで充分…の筈だ。
時は現代。
都内某所に、両隣を高層ビル挟まれた小さな事務所が慎ましく建っておりました。
然程古くもなく、かといって新しくもない四階建ての平凡なビルです。
一階は喫茶店、二階、三階はテナント募集中で、四階はどこかの事務所のようでしたが一見して何の事務所だかは分かりません。
絶えず子供の気配がする為、隣のビル等の近所には託児所か何かと勘違いしている人間も居るほど、そこは自己主張に欠けた
場所でしたが、そこは東京、いや日本一の名探偵が構える久保田探偵事務所なのでした。
探偵は今日も大きなソファーに座って、事件に全く関係なさそうなスポーツ新聞を読んでいます。
長い前髪から覗く横顔は大層端正でしたが、のほほんとした空気を纏い淫猥な広告が見え隠れする新聞を読んでいる姿は
隠居前のお爺さんのようです。
久保田探偵は例え灰色の脳細胞を擽るような怪奇事件の記事を見つけても、「へぇー」の一言で終わらせてしまいます。
早い話、やる気がないのです。
この探偵、実力にやる気が反比例しているようで、
探偵が事務所を大っぴらに宣伝しないのは、そういう訳がありました。
久保田探偵は、ただ静かに新聞を読んでいます。
活字の羅列を目が追って、節のある長い指がページをかさりと捲り、そして時々膝の上で眠るにゃんこを優しく撫でます。
いえ、にゃんこのように丸まっており、雰囲気も大分猫っぽいそれは可愛らしい少年です。
すぴすぴと寝息を立てている少年の名前は時任といいました。
一応久保田探偵の助手です。
一応、が付くのは、彼が事件の引き鉄になったり、騒ぎを起こしたり、攫われたりとトラブルメーカーになることが多いからです。
本人はとても一生懸命なのですけれど……
そんな彼でしたが、しかし時任少年はこの事務所にとってなくてはならない要の存在なのでした。
彼がいないと探偵事務所は成り立たないのです。
それがどういうことかはお話が進むにつれ皆さんにも分かってくるでしょう。
「ちょっとッ!久保田君!!」
滞留していた部屋の空気が、女の子の甲高い声と騒々しくドアが開けられる音で打ち破られました。
小学校六年生ぐらいの年齢に見える女の子が、肩で息をしながら久保田探偵の方を睨みつけています。
彼女は久保田探偵事務所の助手……諸々の事情で久保田に養われている少年探偵団の一員で桂木ちゃんと呼ばれ、
とてもしっかりした彼女は小学生でありながら、怠惰な探偵が生み出す赤字と日々戦い事務所を切り盛りしているのでした。
少年探偵団は他に何人かの団員がおり、団長は時任少年です。
「どーゆーッ……」
「し、時任が寝てる」
久保田探偵はソファー越しに振りかえって、人差し指を唇に押し当てました。
彼は何よりも愛猫を優先させるのです。
桂木ちゃんは眉間に皺を寄せ、それでも声のトーンは落として話の続きを捲くし立てます。
「どーゆーことよ」
「何が?」
「二十面相からの予告状!無視した上に警察からの依頼も断わったんですって!?」
興奮と憤りが蘇り、押さえた声が大きくなってしまいました。
「うー……」
久保田探偵の膝に頭を乗せている時任少年がぐずるような声を上げます。
それを宥める様に頭を撫でて、久保田探偵が首を傾げました。
「何かまずかった?」
「まずいに決まってんじゃない!!」
桂木ちゃんは叫んで、ドアをがんッと殴りました。
その音で、ついに時任少年は目を覚ましてしまいました。
頭を起こして、寝惚け眼できょろきょろしています。
「折角の仕事、なんで受けないのよ!」
「面倒だから?」
「事務所の財政がどんだけ逼迫してるか分かってるワケ!?」
一回一回の仕事のギャラは決して少なくはないのですが、何しろこなす数が少ない上に、予算に組み込まれている『時任費』
の存在が財政を苦しいものにしているのでした。
「ほら、二十面相の予告状だって、『前略、元気かね?久保田君。そろそろ君の顔が見たくなったので、手頃な国宝でも
盗むことにしたよ。逢瀬の場所は国立宝飾美術館。日は10月29日、時間は午後十時ジャストだ。手土産に『泣かない未明』と
君の大事な愛猫を頂くこととしよう。楽しみに待っていてくれたまえ。怪盗二十面相』ってまるっきり久保田君への招待状
じゃない」
二十面相というのは、変装の天才で二十の顔を持つと言われている今世紀最大の怪盗ですが、その内実は
久保田探偵を偏愛するただのストーカーです。
久保田探偵にかまって欲しくて国宝盗んだりする困ったナイスミドルなのでした。
「招待されてほいほい招かれたらただのアホっしょ」
「大事な愛猫も狙われてるよーですけど?」
「俺が関わらなかったら時任だって狙われようがないっしょ」
「……え、俺狙われてんの?」
寝起きの掠れた声を出して、時任少年が久保田探偵を見上げました。
目がまだトロンとしています。
「俺が守るからだいじょーぶ」
そう言って、久保田探偵が小さな額にちゅっとキスをしました。
時任少年の林檎のようなほっぺが更に真っ赤になります。
桂木ちゃんはその胸焼けしそうな光景を、げっそりした顔で見つめています。
「……どうあっても仕事受ける気はないワケ?国宝が狙われてんのよ!」
「盗難されそうな国宝を守るのなんて、探偵の仕事じゃないっしょ。そこに解くべき謎があるならまだしも。密室とか。
大体、密室の謎なんて解かなくても物的証拠出れば一発お縄で意味ないんだけどねぇ。警察がしっかり警備してれば
いくら怪盗といえども簡単に盗めないっしょ。それで盗まれるんなら警察の怠慢なんじゃない?」
さらさらと久保田探偵が探偵とも思えないような、しかし至極当然な事を口走り、桂木ちゃんが反論できず言葉につまって
いると、
「……悪かったな。怠慢な警察でよ」
「あらら……」
桂木ちゃんの後ろから憮然とした顔の葛西さんが事務所の中へ入ってきました。
葛西さんは久保田探偵の伯父さんであり、刑事でもあります。
「おっちゃんだ!」
「よ、久し振りだな。時坊」
苦い表情を浮かべながらも葛西さんは時任に笑いかけ、ソファーに腰を下ろし久保田探偵と向き合いました。
「葛西さんは怠慢っていうより不良でしょ」
「まーな」
頭をがしがし掻いて、どう切り出そうか迷ってるらしい葛西さん。
「桂木ちゃんに予告状のこと教えたの、葛西さん?」
「ああ。さっき下で会ってな」
そう言って、桂木ちゃんが淹れてくれたコーヒーを啜ります。
久保田探偵はふぅんと返しただけでしたが、付き合いの長い葛西さんには、余計なことをと思っている探偵の内心が手に取るように
分かって冷や汗ものです。
「どうあっても受ける気ねぇのか?警察の依頼」
「受ける意味ないし?真田さんは俺が出てきたら張り切るだけっしょ」
真田さんとは二十面相のことです。探偵はそれなりにちゃんと調べているのでした。
「そーなんだけどよ……だが、お前が出てこなくったってブツはちゃんと盗んでいきやがるんだ。悔しいがな、警察の機動力じゃ
あの腹黒野郎に太刀打ちできねぇんだ」
腹黒野郎とは二十面相のことです。無茶苦茶言ってます。
「民間人のお前に頼るのは筋違いだってことは分かっている。だが頼む誠人。力を貸してくれ」
葛西さんは久保田探偵に向かって頭を下げました。
しかし探偵は、葛西さんがここまでしているのに返事を渋る様にボーっとしたままです。
その様子に桂木ちゃんが二度目の噴火を起こしました。
「国宝も危機!財政も危機!あんたが仕事すれば一石二鳥即解決なのになんでそんなにやる気ないのよ!!」
「だって……ねぇ」
その時、黙って座っていた時任が動きました。
「久保ちゃん。おっちゃんが困ってんだろ。受けてやれよ!」
久保田探偵の膝に向かい合わせに乗っかって、その頬を両手で挟むと顔をじっと覗きこみます。
傍から見ると中々扇情的な格好をして、
「最近、久保ちゃんが仕事しねーから俺様つまんねぇ!!いーじゃん。久々に暴れてやろーぜ?二十面相の変態なんて
俺らの敵じゃねーだろ」
変態とか言われてます。
「んー」
時任少年のお願い攻撃に、かなり心が揺らいだらしい探偵。
そうです。国宝が盗まれよーが事務所が赤字だろーが何処吹く風の探偵でしたが、愛する時任少年にお願いされるなら
話は別でした。
事務所と国宝の運命が時任少年にかかっている為、葛西さんと桂木ちゃんははらはらしながら二人の動向を見守っています。
後一押し!と思った時任少年は、
「……探偵やってる久保ちゃんって……か、カッコイイしさ……やって?」
ほっぺを赤くして、照れまくりながらも頑張って、久保田探偵がかなりやる気を出すようなことを言いました。
「んー……しょうがないなぁ」
そうは言いつつも、探偵の垂れ目は更に垂れています。
しかし抜け目ないのがこの探偵。
「受けるけど、その代わりチューしてよ」
「はぁッ!?」
ぼんッと音のでる勢いで時任少年の顔が真っ赤になりました。
「な、なんで俺がッ!」
「俺を動かしたのは時任でしょ?」
「……うッ……」
時任少年は助けを求めるように周りを見渡しました。
しかし、葛西探偵は両手を合わせて拝んでいるし、桂木ちゃんはハリセンを構えています。
「とーきーとー」
「……」
仕方なく腹を括った時任少年は、真っ赤な顔を久保田探偵に近づけました。
底意地悪く目を開けたまま、その羞恥に染まる表情を堪能している探偵。
ギャラリーの二人は何故か固唾を飲みながらその様子を食い入る様に見ています。
時任少年が涙目をギュッと瞑って。チュッと触れるだけのキスを落として。
「……ありがと」
探偵は笑い、精神的疲労からくったりした時任少年を膝の上に抱きかかえました。
「じゃ、そーゆーワケで引き受けるよ。その依頼。予告の日にちまでまだ時間があるし、こっちも準備とかあるから
今日のトコは帰ってもらっていい?また後で連絡するから」
「あ、ああ。悪いな。頼むぞ」
多少呆気に取られながらも葛西さんはそそくさと帰り、探偵は呆れ顔の桂木ちゃんに笑いかけました。
「もう直ぐ室田達も帰ってくるし、作戦会議でもしましょーかねぇ」
彼を知ったのは行きつけの雀荘でだった。
煙草をくわえながら、なかなか火の付かないライターをカチカチやってる俺にスッと彼がライターを差し出して。
火を借りると、あんたのことここで良く見る、と言って彼は痣だらけの笑顔を見せた。
そーかもね、なんて軽く返して彼をまじまじと観察する。
若くて、細い体躯と鋭い眼差しは猫を彷彿させる。綺麗な顔をしていたが、顔にも体にも痣と絆創膏を沢山貼り付けていた。
とても麻雀をするような風貌ではなかったが、俺を良く見ると言っていたからココには頻繁に来るんだろう。
彼は急に顔を近づけると、俺の目をのぞき込んだ。
心の何かを絡め取られるかのような眼差しだった。
彼は魅惑的な表情を見せると、一言、
「俺を買ってくれない?」
と囁いた。
俺にしか聞こえない声で。
お互い、男だった
でもそれは彼を抱かない理由にはならなかった。
安くてボロいラブホテルで俺達は抱き合った。
濡れて悶える彼は魅力的で、俺は自分でも驚くくらい余裕なく彼を貪った。
彼は男の相手をすることに馴れていて、それが幾ばくかの不快感を与えることを不思議に思う。
ただの行きずりの相手なのに。
深く考えるのが嫌で、目の前の快楽に溺れた。
事が済んでも俺はベッドから出なかった。
彼は驚いたように目を丸くして、さっさと帰らない奴はあんたが初めてだと言った。
俺は久保田だと名乗った。
彼は時任だと笑った。
笑うと、唇の傷が引き連れて痛そうで。
俺は痛くないの?と尋ねた。
痛くないわけないだろと彼は返した。
シーツの中で俺達は色んな話をした。
彼はライターを持っていたが彼自身煙草を吸うことはないらしい。
傍にいる奴が良く吸うんだ、と、何故か自嘲気な笑みを見せて。
ソイツが、記憶のない彼を拾ったんだと彼は語った。
売りをするように言ったのもソイツ。
痣をつけたのもソイツ。
ソイツが彼の飼い主。
その頃にはすっかり彼が気に入っていた俺は、そんなヤツの代わりに俺と住もう、そう言ったけど、彼は首を横に振るだけだった。
アイツが俺の全てだから、そう言って。
ありがとうと、それだけ俺に応えて。
彼の飼い主になるには俺には何かが足りなかった。
なんだろう。金じゃない。見えない何か。
金を払うと俺はホテルを出た。
彼は引き止めなかったし、俺もこれっきりだと思った。
だが、意外なことにそれ以後も雀荘で彼とちょくちょく会った。
俺を見ると彼は笑顔で駆け寄って、他愛ない話をしたりした。
見る度に彼の痣と傷は増えていた。
彼を知って、彼の飼い主も何度か見かけた。
どうしようもないチンピラだった。
彼を拾って介抱したという彼の話がとても信じられないくらいに、どうしようもない男だった。
雀荘に通い詰め、負けては良く彼を殴っていた。
彼は歯を食いしばり、ソイツを見据えて一切抵抗しなかった。
しかし俺は知っている。
以前カモにされた男が雇った破落戸と共に俺を襲ってきた時、俺と共に平然と蹴散らした彼の強さを。
なぜ黙って殴られている?愛しているから?
俺は問いつめた。
彼は曖昧に笑って、どうしようもないんだと言った。
刷り込みみたいな現象だったのかもしれない。
初めて認識した世界がソイツだったのだ。
それが暴力に満ちた世界であっても逃れられない。
愛ってナニ?逆に彼は聞いた。
俺は答えようとして言葉に詰まった。
人並みの愛すら己の中にないことに気付いて。
知っていたら良かったのに。
知っていて教えてやれればよかったのに。
そしたら彼は誤った世界から抜け出そうとしただろうか。
その頃にはもう、俺は絶ちがたい執着を彼に感じていて。
でも、あの日以来彼は俺と体の関係を結ぶことはなかった。
彼は、一度寝た相手とは決して寝なかった。
それは彼の飼い主がそう定めたからだ。
多分……彼の飼い主は、彼に執着していて。
体を売ることを強制する反面、客と懇意になるのを良しとしない。
歪んで屈折した愛情。
でも俺の知ったことではなかった。
俺は彼が欲しかった。
救おうなんて思ってなかった。ただ欲しかった。
暴力しか知らない彼に、散々甘い言葉をかけ優しくした。
辛い時は助けてあげる。
お前が助けてと一言言えば必ず。
例えお前の飼い主を殺すことになっても。
何度も何度もアプローチした末、ついに彼は言った。
「久保ちゃんと寝たい」
二度同じ男と寝る。
その意味をわかった上で。
嫉妬深い彼の飼い主がどうするか理解した上で。
朝。目を覚ますとベッドに彼の姿は無かった。
すぐさま追いかけると、ホテルの前で彼は殴られていた。
尾行されていたのだろう。
ソイツは口汚く罵りながら何度も何度も彼を打ち付けて。
殺す気だったのかもしれない。
髪を鷲掴みにされた彼と俺の目があった。
彼は少しの躊躇の後、はっきりと言った。
「助けて」
俺は笑った。足りない何かはその一言で補われた。
懐に手を突っ込んで無骨な拳銃を取り出す。
尚も彼を殴り続けるソイツに向かって引き金を引いた。
乾いた音がしてソイツは崩れ落ちた。
それで、継承式は終わった。
倒れ込んだままの彼に手を差し伸べる。
彼は俺の手を握った。
もう、前の飼い主には見向きもしない。
当たり前だ。
だって、今現在、彼の飼い主は俺なのだから。
抱き寄せて、優しく抱擁する。
彼の前の飼い主は暴力で縛った。
俺は優しさで彼を縛ろう。
巧妙に巧妙に砂糖で鎖を包んで。
微睡みのように抜け出せない檻に彼を閉じこめよう。
そして気付く。
愛なんてなくても、知らなくても、得られるものはあるのだと。
愛と執着が均衡ならば。
絶対の関係性が。
最初から久保ちゃんに拾われていればよかったのに。時任が言った。
俺じゃない方が良かったんだよ。思ったけれど、言葉にしないまま微笑んだ。
その時の私は何にも持って無くて、誰とも繋がってなくて、世界に独りぼっちで、絶望だけ抱えていてまるで空っぽだった。
彼が、行くあてもなく町の片隅でうずくまっていた私を拾ったのは、雨の日だった。
成り行きで拾われた私は、何となくそのまま彼の部屋に居着いている。
彼が私を拾った理由は分からない。
理由なんてなかったのかもしれない。
彼は不思議な人だった。
何を考えているのか少しも分からなくて、掴みどころがなくて、夜の霧のような人。
彼のことを理解しようとするのは、闇の中で更に霧を覗き込むようなものだった。
何も見える筈がない。
その癖、ひしひしと伝わってくるのだ。
悲しみよりも絶望よりも尚深い感情が。
呼吸を続けることすら苦痛で仕方がないとでもいうような、雰囲気を、彼は常に纏っていた。
私達の関係も、奇妙なものだった。
彼は、居候の見返りに何かを求めてくるようなことはなかった。
何にも、求めなかった。
私はそれを不思議に、そして少しばかり不満に思っていた。
自分の魅力を過信していたワケではないが、彼は男で、私は女だ。
男女が一つ屋根の下に暮らしていて必ずしも恋人関係なるということはないだろうが、肉体関係になることは、少なくないのではないか。
今までの男は皆そうだった。
少なくとも、現状よりはずっと自然。
ホモなの?
思わず面と向かって尋ねてしまった。
どうだろうねぇ。
彼は何時もはぐらかす。
ソファーに座って何時ものセブンスターを吸い、煙を吐いて、何時もの虚ろを瞳に浮かべている彼。
彼は暫く虚空を見詰めていたが、
そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。
酷く曖昧な言葉を発した。
なんせ、たった一人しか好きになったことがないからね。
そのたった一人は男だったけど。
そのたった一人という言葉には、後にも先にもという意味が込められているような気がした。
私は無性に悔しくなる。
やっぱりホモなんじゃない。
たった一人しか好きになれないなんて、可哀想な人。
彼は笑った。
一生に一度の恋だったんだよ。
その日、私は初めて彼について知った。
彼は、夜の霧なんかじゃなかった。
誰かを好きになって、
誰かに恋をして、
誰かを愛した、
ただの人だった。
そして喪った人。
その日の夜、夢の中に『彼』が出てきた。
『彼』の顔なんか見たことないのに(彼は一枚も『彼』の写真を持っていないらしかった)やけにはっきりとした姿で、彼が猫好きなせいか猫っぽい印象の吊り目だった。
『彼』は不機嫌そうに言った。
アイツは俺のモンだけど、ぜってーやんねーけど、アイツのことよろしくな。
不本意そうに。
拗ねた子供みたいな顔をして。
けれどこちらを見る眼差しは恐ろしい程に真っ直ぐで、真摯で、『彼』の言葉は全て本心でしかないのだと分かる。
躊躇いなく彼は自分のものだと言った『彼』は、決して浅くはない独占欲を抱えていながら、それでも私に彼を頼むと言った。
『彼』は彼に生きていて欲しいのだ。
でも、私は宜しくと言われても直ぐには答えられなかった。
彼がこのままじゃ駄目だということは分かっていた。
生きる気がないのだ。
これっぽっちも。
その上で、生きてる。
まるで毎日罰ゲームをこなしているかのように。
彼がそうなった原因が『彼』を喪ったことにあるのは今では明白だった。
私はまた悔しさが体を満たしていくのを感じる。
恨み言の一つでも言ってやりたかった。
彼は君しか見ていない。
君しか見えないから、私のことを見てくれない。
君にさえ出会わなければ彼は生きてられたのに。
でも、何も言えなかった。
彼は『彼』に会えて良かったと、心底幸福だと思っているから。
喪った今でさえ。
俺は全部間違えて生きてきたけど、アイツを拾ったことだけは間違いじゃなかった。
微笑みながらそう言っていたから。
だから私はこう言うことにした。
君が、死んじゃうから、悪い。
彼は目を丸くして、
そーだな。
笑った。
その笑顔は何だか泣きそうに切なかった。
目を覚まして、私は少しだけ泣いた。
それから大分経って、私は彼とキスもセックスもするようになった。
でも求めるのは何時も私の方からで、彼は拒絶こそしなかったけど、それだけだった。
つまり、彼にとって特別な意味などなく、どうでも良いことなのだ。
どうでも良くないことは、彼にはもうないのだから。
一緒にいて、それなりの時間が流れて、でも彼は変わらなかった。
何一つ。
変わっていくのは私ばかりだった。
ある日、彼は言った。
もう、無理かも。
手に黒光りする拳銃を持って。
その言葉にも、その凶器にも私は驚かなかった。
彼がいつかそう言うであろうことも、彼がそんなモノを所持している人間であることも全て、どこかで分かっていた事だった。
自分の無力さも。
『彼』の事を思う。
彼を生かし、人にして、そして死なせる『彼』。
ごめんね、私じゃアナタを救ってあげらんなかった。
銃口がこめかみに押し当てられる。
ごめんねって言われるの、こんな気持ちなんだ。
分かって良かったと彼は笑い、そして私の目の前で静かに引き金を引いた。