「俺のことは久保ちゃんって呼んでね」
塀の上を歩く俺の横を並んで歩きながらあいつはそう言った。
この男、出会ったばかりだというのに妙に馴れ馴れしい。
害がなさそうだから放っているだけで、別に友達になった訳じゃねーし。
大体、何て呼んだって分かりゃしねぇだろ!
ばーか。
「にゃーぅ」
「酷いなぁ。『久保ちゃん』でしょ?」
俺を見上げて垂れ目が笑う。
……なんで分かるんだよ……
「お前はなんて呼ばれたい?」
だからどう伝えろっつーんだよ。
好きに呼べっての。
美しい俺様に相応しい美しい名前でな。
クロなんてぜってー嫌だからな!
「ホントはもう……決めちゃってるんだけどね」
なら聞くなよ!
イラついて尻尾を左右に緩く振る。
不機嫌そうな俺を見て男はまた笑い、そして一呼吸置いた。
それは何だか口に出す事を躊躇うような素振りで、仕舞って置いた大切な宝物を取り出すようにそっと唇を動かすと、
「お前は真っ黒だからさ……」
クロか!?クロなのか!!???
「『時任』は、どう?」
はぁ?
黒なの関係なくね?
ってゆーか人間の名前じゃん。それ。
「俺の知る限り一番黒が似合う奴の名前」
俺は思わず男を見たけれど、男は前を向いたままだった。
歩調に合わせてゆらゆらと頭の天辺が揺れ、焦げ茶色の髪が風に少しなびいている。
「後、名前を呼んだ人間が幸せになれる名前、かな」
男が俺を見上げた。
「幸せってどんなもんか知ってる?」
問われて、ふいっと顔を背ける。
知るワケない。
「お前なら知ってると思ったんだけど」
知るワケなかった。
俺は不吉な黒猫。
幸せとは対極的の存在。
でも。
「じゃ、改めてよろしく。時任」
生まれて初めて名前というもので呼び掛けられ、その名前は妙にすとんと胸の中に落ちて馴染んだ。
「時任、空が青いね」
低い落ち着いた声がその音をなぞって、俺の鼓膜を震わせる。
「もう桜も終わりか。時任、桜は好き?」
胸に馴染んだ箇所が熱を持って、じわりじわりと周りに伝染していく。
知らない感覚。
妙に照れくさくて、落ち着かない、変な感じだ。
でも、案外悪くねーかもな。
……時任、か。
「……にゃッ!」
俺は返事をして、『久保ちゃん』の肩に飛び乗った。
呼ぶ名前、呼ばれる名前があるということは、一人じゃないことを俺に実感させた。
『時任』は、きっとただの名前じゃなかった。
『時任』という名前には温かいものが一杯詰まってて、久保ちゃんはそれを俺に名前ごとくれた。
名前を呼ばれれば呼ばれるほど幸せになったのは俺の方だった。
「上目遣いでおねだりしてよ」
……またか。
もう日常茶飯事になってしまった、久保ちゃんのポーズ指定。
こっち向いてって普通に言えばいいのにな。
久保ちゃんの言い方は一々エロい。
ばーか。
じろりと睨み上げれば、
「イイ顔」
なんて言って、大きなスケッチブックにさらさらと鉛筆を滑らせていく。
紙の上を走る慣れた動きを、俺は寝そべりながらじっと見つめる。
描かなきゃいけない絵があるんだよねぇ、と、この男は言った。
そのたった一枚の絵の為に、それまで居た村を出てこの町にやって来たと。
別にこんなくだらねぇ街にわざわざ出てこなくても、村で絵を描いてりゃ良かったのにな。
久保ちゃんが描きたい絵を俺は知らない。
絵を描きながら久保ちゃんはいつもぽつりぽつりと俺に話しかける。
出会って以来、久保ちゃんは俺以外を描こうとはしなかった。
でも、その理由を俺は知らない。
久保ちゃんが話すのは他愛もないばかりで、この街に来る以前のことを口にしたことはない。
スケッチブックに俺の姿が増えるほど俺の中にも久保ちゃんが増えていくのに、同じくらい久保ちゃんの知らないことが積み上がっていく。
絵を描いてる時のアイツは、とても、遠かった。
俺を描いて、俺に話しかけている筈なのに、その目は俺を見てはいなかった。
どこか、もう決して手の届かない、求めて止まない何かを見てるみたいな、突き刺すように鋭くて飲み込まれそうな程飢えた目をして、久保ちゃんは俺を描いている。
普段、柔和な態度と笑顔で隠している久保ちゃんの、剥き出しの中身がそこにはあった。
それは正直哀しくて、その視線に晒されるのは痛くて、それ以上に俺をちゃんと見ていないことがムカついて仕方なかったけど、久保ちゃんの中身とちゃんと向き合いたくて、俺は絶対逃げたりしなかった。
……それに長い前髪を邪魔そうに払う仕草とか、さらさらと流れるように鉛筆を動かす指とか結構好きだし。
暫くして久保ちゃんは顔を上げて、スケッチブックを俺の前にトンッと置いた。
「どう?」
どうって言われても、猫の俺には紙に描かれたただの線だし。
でも、その絵からは何だか、久保ちゃんが毎日生きる為に必死に押さえ込んでいるモノが滲み出てる気がした。
剥き出しの感情で描かれたからだろうか。
見てる側にとってもそれは全然気持ちいいモノじゃなくて、例えば、愛し合う恋人達の三秒後の別離のような、直視したくない何か。
久保ちゃん、絵描くの、本当は全然楽しくねーんだろ。
好きじゃねぇのになんでそんなに絵を描いてんだよ。
俺は久保ちゃんの目を見て、にゃんッと鳴く。
「実物のほうが美しいって?」
久保ちゃんがそう言って、いつも通り微笑んだ。
見当外れなことを口にした様でいて、人間離れした察しの良さで猫である俺の内心の機微まで解するコイツは、分かっててワザとはぐらかしたのかもしれない。
そして、俺の頭を一撫でしてスケッチブックの中の『知らない』俺にじっと目を落とした。
俺達は毎日、何となく一緒にいる。
久保ちゃんは俺の飼主じゃない。
俺は餌を自分で狩ってるし、久保ちゃんはたまにフラッとどっか行っちまう。
でも俺がこの街のどこで昼寝をしていても、久保ちゃんがどの宿を寝床にしていても、俺達はお互いを見つけて一緒に居た。
何の約束もなかったけれど、一緒に居た。
スケッチブックと鉛筆を脇に置いて、久保ちゃんは俺を自分の膝の上へと抱き上げた。
膝の上は温くて気持ちがいい。
喉元を優しく撫でる手も心地いい。
ゴロゴロと喉を鳴らす俺のことを、何時も通りの優しくて温かい眼で見ているんだろう。
俺と『時任』以外には見せない優しい瞳。
「時任はさ、神様って信じてる?」
何を突然。
久保ちゃんの脈絡のない、意味も分からない問いに耳をピクリと動かした。
猫に神様なんか居ねぇよ。あるのは自分と明日だけ。
「お前は強いもんね」
今度は俺の心の声をちゃんと聞き取った様だ。
正確に、何の疑いもなく。
それは察しの良さだけじゃなくて、久保ちゃんが俺の行動とか感情とかのパターンを知り尽くしているからだと、まるで何年も何年もずっと一緒に居てそれこそ言葉なんか必要ないくらい俺を熟知しているから、そんな有り得ない感じもした。
有り得ない。
俺たちはまだ出会って一年も経っていない。
「俺には神様が居たんだけどね」
過去形だ。
久保ちゃんの、過去。
「俺の神様は死んじゃったんだ。2年前に」
神様って死ぬもんなのか?
何が言いたいのかよくわからない。
でも、それがあの遠い眼差しに関係していることは気配で察せられた。
耳を欹てるが、ぽつりぽつりと耳を擽る久保ちゃんの低い声、ゆっくり背を撫で続ける大きな手の平の動きに段々と目蓋が重くなる。
あったけぇ……
いつの間にか俺はに眠りの淵へと導かれていた。
久保ちゃん。
なんで遠くばっか見てんの?
誰を見てんの?
誰に優しくしてんの?
俺じゃねぇだろ。
『時任』って誰だよ。
時任は俺だろ。
俺を見ろよ。
生きてる俺を、ちゃんと見ろ!
俺は夢を見た。
それはやけにリアルで。
不思議なくらい懐かしくて。
微笑む程に幸せで。
胸が抉られるように痛い、夢だった。