時任可愛い
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「落ちついた?」
「……ああ」
暫くしてそう言うと、時任はこくりと小さく頷いた。
全てが納得出来た訳ではないようだったけれど、どうしようもないと割りきれる程度には落ち付いたようだった。
しかし猫目はいつもの強い光を失い、頼りなく揺れている。
それだけで華奢な体は途端にか細く感じられて、腕を伸ばし強く抱き締めたい衝動に駆られたが、それは自らが定めた境界を超える行為だった。
距離を置くようにベットを下りて、クローゼットのドアを開いた。
「じゃ、ガッコ行こっか」
「……へ?」
制服を手渡すと、呆気に取られたような顔をして俺と制服を見比べる。
「俺も……行くのか?」
「勿論。もう昼近いし、執行部に顔出すだけだけど」
「だって俺、パラレルなんちゃらで、学校なんて知らねぇし!!」
「行けば分かるよ」
「……ぜってぇヤだッ!!」
時任は制服を床に叩き付けようとして、その両腕を掴んで止める。
「我侭言わないの」
「我侭なんかじゃねぇよ!家でゴロゴロしてりゃいいじゃん!二人で」
縋るような眼差しに刺貫かれる。
揺らぎそうになる。
吸い寄せられるように顔を近づけて、ぎりぎり理性が留める距離から俺を睨む猫目を覗き込んだ。
「時任。お前が嫌がるのも混乱するのも無理ないと思う。でも、ここそういう風には生きられないトコだから。
元の世界に戻れるのかも分からないし、郷に入りては郷に従え。お前は逃げないっしょ?」
「……逃げねぇよ」
掠れた、しかしはっきりとした言葉が唇から零れる。
そう言った時任は、紛れも無く時任で。
「さっさと行こーぜ。このだっせぇ服着んのは癪だけどなッ」
納得したのかは分からないが、『逃げないっしょ?』は負けず嫌いの時任に思った通り効果的だったようだ。
ブツブツ文句を言いながも制服に着替えてる時任を横目に見ながら、バレないよう小さな苦笑を一つ零した。


 


お前と俺、それだけで構成されている。


そんな都合のいい世界なんてここにはないんだよ。


そんな。


 


「……なんか学校って、改めて見ると気持ち悪ぃな」
「何が気持ち悪いの」
「だってさー……同じ年のヤツ等が同じ場所にこんな一杯集まってさーしかも同じカッコで。なんの宗教だよッ!」
「ま、一種の宗教かもね。学歴信仰っていう」
「さっぱりわかんねぇ……」
俺の一歩後ろを歩きながら物珍しげにキョロキョロと校内を眺めている時任。
その態度に演技のような不自然さは無い。
俺は違和感ありまくりだけどねぇ。
心中でひっそりと溜息する。
昨日まで一緒に学園生活をエンジョイしていた相手に、そんな青春の日々がまるで無かった事の様に振舞われるのは、正直、寂しさみたいなものがある。
時任は時任だから良いんだけど。
それに、初々しい姿も可愛いしね。
学校へ来て改めて自分の中の仮定が確信に近くなった気がする。
即ち、この時任がパラレルワールドの時任ではないかということ。
時任には如何にも確信がある風な言い方をしたけれど、はっきり言って平行宇宙説は荒唐無稽過ぎる。
有り得ない話だ。
平行宇宙の存在でさえ疑わしいのに、並行宇宙の自分と入れ替わるなんて。
混乱していた時任を宥める為に持ち出した説だけど、自分で話しながら俺も信じてはいなかった。
俺が信じていたのは、時任が嘘をついていないということだけ。
俺を覚えているから記憶喪失とは思い難く、語られた「時任の記憶」も作り話とは思えない程に矛盾がなく淀みがなかった。
何より、時任は嘘がつけない。
登校の道程も、駅までの道順は知っている様だったし。
それこそ、同じ横浜の、違う舞台の世界から来たかのような……
……時任は、時任だ。
窓から身を乗り出して外を眺める時任の腕を引き、
「こっち」
部室の扉に手を掛けた。
「ども~」
「遅いッ!何やってんのよあんた達、もう放課後じゃない!!」
「んー色々あってねぇ」
「どーせまた下らないことでしょッ!」
扉を開けた途端に、桂木ちゃんから嵐のような叱責攻撃を食らう。
それを何時もの様にのらりくらりと躱して、俺の背後で固まったまま動かない時任の背に手を回し中に入るよう促した。
「もー!二人が来ないから松原君と室田君に、巡回代わってもらうトコだったわよ」
「ちゃんと来たから問題ないじゃない」
「これで巡回中に器物破損しなきゃもっと問題ないけどな~」
パソコン前の相浦が横槍を入れつつ、
「時任、なぁ、巡回終わったら対戦しよーぜ?」
何時もの様に時任をゲームに誘った。
「…………」
ワイシャツの生地が強く引かれる感触。
時任の右手が俺のワイシャツを握り締めていた。
黙ったまま答えない時任に、相浦が訝しげな顔をする。
「さっきから時任大人しいですネ」
松原の言葉に、大きく頷く室田。
「まさか熱でもあるんじゃ……」
心配そうに桂木ちゃんが、時任の額に手を伸ばして、
「さわんなッ!!」
その手は、時任によって払い除けられた。
「……時任?」
吃驚した顔で桂木ちゃんは動きを止める。
固まる部屋の空気。
いつもと違う様子の時任に、漸く皆が気付いた様だった。
視線が時任に集まり、そして一斉に俺に移動する。
「……えーと」
口を開く。
「実はコイツ、記憶喪失になっちゃって」
「え……」
小さく声を上げた時任の肩を抱き寄せ、目配せすると時任は開きかけた唇を閉ざした。
「記憶喪失って……ッ!?」
「俺達のこと覚えてないのか!?」
「なぁ……時任ッ!!」
「…………」
黙って首を振った時任に、相浦は絶句する。
他の面子も言うべき言葉を見失ったかのように静まりかえった。
「どうも、学校の事とか綺麗さっぱり忘れちゃってるんだよねぇ。一般常識も一部。階段から落ちて軽く頭打ったのが原因らしいけど、直に元に戻るだろうから心配ないよ」
「……ねぇ、久保田君のことも忘れちゃってるの?」
時任に払われた手を胸に抱く様にぎゅっと握って、桂木ちゃんは俺の顔を伺うようにそう問うた。
「俺のことは覚えてるよ?」
当然のことのように言うと、皆、驚いた様に目を見開く。
その事実と皆の反応に甘い優越感が胸を満たす。
時任の中の世界が変わっても、俺は変わらずそこに居るのだ。
中身の無い二つの鞄を纏めて机に投げ置くと、
「じゃ、巡回行ってきまーす」
時任の肩を抱いたまま、物言いたげな空気に背を向けた。


 


「なぁ……」
部室の扉が静かに閉められた後、二人の背中を見送った相浦がおずおずと私の方を見た。
「時任が記憶喪失で、でも久保田の事だけ覚えてるって……」
「ありえないわよね、普通」
「あいつらならありえそーだけど……だよなぁ……」
久保田君と時任なら、見えない鎖で心が繋がっているような二人なら、もしかしたら有り得るのかもしれないと、有り得ない事と分かっていながらそう思ってしまう。
世界の他全てを忘れても、それだけは忘れ得ない、そんな絆。
「そんな、久保田に…・・・」
そんな、久保田に都合のいい時任なんて。
相浦が言いかけて止めた言葉を、この部屋に居る誰もが分かっていた。
時任が私の手を払った時に久保田君は一瞬、口角を上げた。
気付いたのはきっと私だけ。
彼は直ぐにいつもの仮面を被り直してしまったから。念入りに。
嫌な、男。
「でも、時任は本当に記憶喪失のようだし……久保田君だけ覚えてるっていうのも、本当なんでしょ」
あの時の時任の目は確かに知らない人間を見るような警戒と拒絶に満ちていた。
それに、いつもの時任だったら例えどんな事情があっても私の手を払ったりなんてしない。
「ただ、何かワケアリっぽいわよね」
階段から落ちて、という言い訳は恐らく嘘。
話せないような事情があるのか、単に話したくないだけなのか。
そのどちらもなのかもしれない。
私は誰にともなく溜息の様にそっと呟いた。
「結局、私達には黙って見守ることしか出来ないのかしら……」


 


放課後の喧騒が肌を撫でていく。
何時も通りの巡回コースを時任と二人歩いて周る。
何時も通り。
「……久保ちゃん……」
「ん?」
「なんで……あいつらに嘘ついたんだ?記憶喪失だって……」
俺の半歩後ろを並んで歩きながら時任は俺に言った。
「その方が説明しやすいからねぇ、平行宇宙とかパラレルワールドなんて言うより。記憶喪失っていうのも強ち嘘じゃないし?」
実際、そんな現実味のない話をするよりも、記憶喪失だと説明した方が余程説得力がある。
事実を話したって、皆納得しなかっただろうし。
ただ、嘘吐いてる事はバレてるっぽかったけど。
それはそれで面倒だなぁ。
「…………」
再びワイシャツを握られる感触。
俺の知らない、時任の癖。
「……あの女さ、何?」
「桂木ちゃんの事?」
「久保ちゃんと仲いいわけ?すっげ馴れ馴れしい……」
拗ねた口調でボソボソと語られたのは桂木ちゃんへの嫉妬の言葉。
「仲良いっていうかねぇ……同じ執行部の仲間だから。色々お世話になってるし。
お前にとっては初対面だったかもしれないけど、だからって女の子に乱暴なことしちゃ駄目じゃない」
ずるいなぁ俺。
本当はそんなこと思っちゃいないのに。
「だって……」
「桂木ちゃんも、あそこにいた他のやつらも皆、お前の仲間なんだよ」
お前の中に俺しかいないこの状況を内心酷く好ましく思っているのに、それがさも悪い事の様にお前を責めてる。
そんな俺の内面にはまるで気付かない素振りで時任は口を尖らせた。
「……久保ちゃんがいりゃいーもん」
駄目だなぁ。
甘やかして骨抜きにして駄目にしたくなる、そんな衝動が腹の底から迫り上がる。
そんな可愛いこと、言わないでよ。
むくれる時任の頭を軽く抱き寄せて、それ以上言葉を重ねるのを止めた。
そんな事言って、どうせ、俺が放っておいても皆と仲良くなっちゃうんでしょ?
「初めての学校、思い切り楽しみなさいな」
「ん」
初々しい姿を暫く堪能できそうだなぁ。
そんなしょうもない事を考えていたら、足音が付いて来ない事に気付いて振り返った。
「時任?」
時任は俺を見ていた。
真摯な、睨み付けていると言っても良い位に強い眼差しが俺を炙る。
そのまま数秒、じぃっと俺を見ていた時任はふっと表情を緩めた。
「学校に行ってる久保ちゃんって、こんな感じなんだな」
その笑みは時任のモノなのに、見知ったモノなのに。
刹那的な、明日も見えない生き方をしている人間がするような、酷く不安を掻き立てる儚い笑顔だった。
胸がざわついて、引き留める様にその体を抱き締めたくなる強い衝動を、拳をキツく握り締めることで耐える。
俺達は抱き締め合う様な、恋人の様な間柄じゃなかったから。


 


時任は時任。
その想いに揺るぎは無い。
けれど、一方でこう思わずにはいられなかった。
昨日までの時任は、何処へ、と。

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「さっむ~~~~ッ!!!」
バンッ!!
騒々しい音を立てて時任はドアを開け、大袈裟に身震いをする。
頭に積もった雪がパラパラと落ち、滴となって玄関に散った。
「おかえり」
「うげッ!!!何だよ久保ちゃんそのカッコ!!!見てるコッチが寒いっつーの、服着ろ服!!!」
「って言われても、俺風呂上がったばっかだしねぇ」
腰にバスタオルを巻いただけの格好で久保田は小首を傾げ、よれよれになった雑誌で肩を叩く。
「何、照れてんの?恥ずかしがるよーな仲じゃないでしょ?俺達」
「て、照れてなんかねーよ!!ヤラシイ顔すんなッ!!」
肩に回された手を払いのけ、時任は久保田の体から素早く逃げると、
「風邪ひく前に服着ろよ!!エロ親父!!」
そう言い捨てて、リビングに去って行ってしまった。
残された久保田は、
「鍵閉めろって言ってんのにねぇ……」
溜め息を吐き、しかし酷く柔らかな顔で忘れっぽい同居人の代わりに鍵を閉めた。




「時任、コーヒー」
「んあ」
頭上から何時ものように声をかけられて、テレビ画面から目を離さないままに時任は右手を久保田がいるであろう方に伸ばす。
しかしソファー越しに伸ばされた手はマグカップの取っ手を掴むことなく、久保田の手に掴まれる。
それを訝しく思う間もなく、右手に嵌めた黒の手袋が取り去られ、また再び嵌められる感触。
「これって……」
まじまじと見つめる視線の先には、先程まで嵌めていたものとは違う、新品の手袋。
「サンタさんに貰ったヤツなんだけどね。俺は使わないからさ。時任にやるよ」
時任はポカンと久保田の顔を見つめ、それからハッとしたように目を見開くと、目の前の顔から眼鏡を取り上げた。
ぼやける視界。
しかし、久保田が時任の行動を不思議がる前に眼鏡は元通り時任の手によってかけ直される。
今度は久保田が驚く番だった。
「俺もさ、手品の上手いガキにそれ貰ったんだ。俺は使わねぇから久保ちゃんにやるよ」
その『手品の上手いガキ』は俺のトコロに来たあの子だろうな。
そう久保田は思ったが、時任には言わなかった。
例え彼が本当のサンタであったとしても、きっと時任が信じることはないだろうから。
生きる事だけに前向きな彼には、生きていく為の些細な夢など必要としていないのだ。
「でも、なんでコレにしたの?お前PSP欲しいって騒いでたのに」
CM見ながらさ。
二人並んで座りながら、ふと思った疑問を口にする。
時任は本当のことしか言わない。
だからPSPが欲しかったというのは紛れもなく本当のことだったのだろう。
なのに、彼が欲しいと願ったのは。
「……何でだろな、わかんね」
時任は苦笑にも似た彼には珍しい感情のはっきりとしない笑みを浮かべて、
「PSPだって欲しかったんだけどな。でも改めて聞かれると、コレだったんだよな」
らしくない曖昧な返答。
「久保ちゃんこそどーなんだよ」
「……さぁ。何でだろ?」
久保田にはその答えが明確に分かっていたけれど、はぐらかして、くしゃりと時任の頭を撫でる。
なんだよソレ、と時任は頬を膨らませて、しかし直ぐに表情を緩めた。
「なーんか俺ら、二人して馬鹿みたいだよな」
「そう?」
「別にあのガキに自分の欲しいモン貰ったって大して結果は変わらなかったろ?なのにさ……」
「変わらないんだったら、コッチの結果のがいいと思うけど?俺は」
頭を撫でていた手を頬に滑らせて、愛しげに輪郭をなぞる。
二人だから、きっと、コレでいい。
互いのことだけを想って、考えていれば綺麗に回る世界なのだ。
「……そだな」
擽ったそうに首を竦めて、それから思い出したように
「メリークリスマス。久保ちゃん」
「メリークリスマス。時任」
「ホワイトクリスマスだしさぁ、明日はどっか行こーぜ」
「携帯買う?お揃で」
「……野郎二人で不気味じゃね?ヤダ」
「そーかなぁ?」

雪は、灰色の街中を塗り潰すように、深々と。


些細な痛みをごまかすように、昏々と降り続ける。


「積もるだろーな、雪」


明日になっても溶けない雪が何もかも覆い尽くして。


「……そうだね」


溶ける時は一緒に、世界諸とも消えてしまえばいいのに。


 


暖かい中でそう、何かに願った。

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時任は手を止めて窓の外に目をやった。
ガラスの向こう側は猛烈に吹雪いている。
出掛けた久保田の身を無意識に案じている自分に気付くと、自嘲気な笑みを薄い唇に浮かべた。吹雪は俺と同じモノだ。
心配するなんて馬鹿げてる。
けれど、今、己が身に纏わりつく吹雪に似た冷たい何かもまた己と同じモノだとは思えなかった。
ソレに触れると刺すような痛みを胸の奥に感じる。
己と久保田との間にある壁を時任は明瞭に感じ取っていた。
二人の間にある『約束』という名の隔絶。
あの日、この出会いを決して喋ってはならないと己が約束させた。
その約束を久保田が守っている限り、二人の隔絶が溶けることはないだろう。
欺かれている現実。
欺いている現実。
しかしそんなもの、本当はどうでも良かった。
心を凍えさせているのは、久保田が時任を見る折に時々見せる、遠い眼差し。
久保田が一番大切に思っているのは人間の時任稔ではない。
あの日吹雪の中で出会った、顔も覚えてない筈の、雪の妖の時任稔だ。
久保田の中にあるその存在が、己と久保田の距離を決定的に遠いものにしている。


久保田の中に居る自分に嫉妬している。


やり場のない凍てつく様な感情。
感じる筈のない寒さに凍えそうでたまらない。
耐えるようにぎゅうぅっと強く拳を握った。
拳の中からガラスの砕けるような高い音が零れ、はっと我に返る。
指を開くと、中には粉々に砕けた氷があった。
時任の白い顔貌に広がったのは、悲しみと絶望がない交ぜになった色。


雪女が怒ると吹雪になる。


感情の高ぶりから生まれた氷。
雪の化身である証。


人間ではない。
久保田と同じモノではない。


突きつけられた現実。
いくら姿形が似ていても、似せていても、自分には温度すらない。
吐息も指先も肌も何もかもが冷たく、熱を奪うだけのモノ。
それなのに。


「久保ちゃん……」


寒ぃよ。
温めてくれるっつったのに。
てめぇのせいで寒ぃよ馬鹿。

涙すら身の内で凍りつき流れることのない己が久保田に惹かれたのは、一見、氷よりも冷たい瞳の奥にある温かな何かを、強く、求めているからだろうか。

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久保田は唐突に立ち止まった。
雪混じりの風が横殴りに吹き付けてくる。
雪が狂い風が悶えている。
久保田は立ち止まったまま、吹雪の奥を見つめ続けた。
目を凝らしても何も見えない。
白い闇。
こんな吹雪の中、一歩外に出ることすら危険なのに、意味もなくただ歩き回るなどそれこそ自殺行為だった。
だが久保田には、家を――時任のいる場所を見失わないという妙な確信があった。
実際、何度となく一寸先も見えない白一色の中、家路を辿ったが不思議と迷うことはなかった。雪に、助けられているが如く。


「     」


名前を呼ぶ。
しかし言葉にはならない。
その名前を確かに聞いた筈なのに、心に届いた筈なのに、記憶のどこを掻き分けても霞のように掴むことは叶わない。
名前の主の顔すらも、覚えていない。
名前も。
顔も。
声も。
白く塗りつぶされている。
辛うじて記憶に残っているのは、白く美しいたおやかな手と、それが触れた時の魂が凍り付くような温度。
逢ったことを誰にも話すな、忘れろという言葉。
約束した。
あれはきっと、雪の化身だったのだ。
美貌で男を虜にし、身も心も凍らせ殺す雪女。
美しく無慈悲な。


俺は命を救われたけど。


しかし命の代わりに心を奪われた。
心臓に氷の如く突き刺さっている約束。
その約束が少しずつ時任と久保田の距離を遠くしている。
何度も忘れようとした。
時任だけを愛したくて。
だが時任の白く玲瓏たる相貌が否応無しにあの日の面影を思い出させる。
縛られている。
吹雪けば家を飛び出して当ても無く放浪してしまう足を止められないし、一年中雪に閉ざされたこの地から離れることも出来ない。
ただ、会いたくて。
もう一度。
そのことに時任は多分、薄々気付いている。
自分以外の誰かが久保田の心を握っていることに。
また一歩足を踏み出しかけ、顔に次々と突き刺さる雪の冷たさに久保田ははっと我に返った。


帰らなきゃ、ね。


踵を返して家路を辿る。
時任の待つ、温かい家に。
抱きしめる度に、愛しさと罪悪感と懐旧の情を生じさせる、細い身体を抱き締める為に。


幸せも安らぎも時任の傍にしかないこともまた、消えない約束と同じくらい、久保田にとって確かなことだった。

拍手[3回]

久保ちゃんと二人だけでずっとずっと過ごしたい。


嫉妬で心がグチャグチャになるようなことを何も感じたくない、考えたくない。


二人だけの世界が、あればいい。


 


……あったけーなー
何かにぎゅっと抱き締められている感触。
すっぽりと包まれていて、触れているソコからじわりじわりと温かさが滲んでくる。
幸せな夢でも見ているような心地だ。
すり……っと頬をすり寄せると、嗅ぎ慣れた煙草の香が鼻先を掠めた。
うっすらと目を開ける。
開けるが、目の前にあるものが近すぎるのかピントが合わない。
視線を上に上げる。
そこには、目を瞑り寝息を立てる久保ちゃんの顔があった。
あ―――――久保ちゃんだ……
久保ちゃん……
久保……
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁああッ!!!」
吐息を感じる程に近い久保ちゃんの顔に驚いて、思わず叫ぶ。
眠気のすっ飛んだ頭で己の状態をよくよく認識してみれば、久保ちゃんの腕にぎゅっと抱き締められたまま寝ていたのだった。
し、しかも久保ちゃんマッパだし!
「……どしたの?時任」
叫び声で目覚めたらしい久保ちゃんが、開いているのかも定かじゃない糸目で俺を見た。
必死になって久保ちゃんの腕から抜け出そうとする俺に構わず、
「おはよう」
なんて言って額にちゅっとキスをした。
カッと体中の血液が猛烈な早さで顔に集まってくるのを感じる。
「な、何寝ぼけてんだよ久保ちゃん!!止めろって、離せっつーの!!」
「なーに今更照れてんの。可愛いなぁ」
今更ってなんだ!?
尚も、んー―とかいって顔を近づけてくる久保ちゃんに必死で抵抗しつつ、
「何で俺とお前が一緒に寝てるんだよ!!」
と怒鳴る。
「それはお前が先に寝てた俺のベッドに潜り込んできたからっしょ。忘れたの?」
……昨日は確かに久保ちゃんが先に寝て、ゲームやってた俺の方が後にベッドで寝た。
けど、久保ちゃんはゲームやってる俺の後ろで小説読んでて、そのままソファーで寝落ちてた筈……
「じゃ、じゃあ何でマッパで寝てんだよ」
「風呂上りで服着んのめんどくてそのまま寝たから」
う……久保ちゃんらしい……
らしいけど、拭えない違和感。
……だって、久保ちゃんは例え寝惚けてたって俺にキスしたことなんか、ない。
なんとか久保ちゃんの腕から脱出して、一息ついて、時計を見て再び絶叫した。
「い、一時ぃいいいいいッ!!?」
台風でも来てなきゃもう午後の授業が始まっている時間だった。
「今度は何?」
大遅刻決定だってのに、久保ちゃんは時計を一瞥して悠々と煙草を吸い出した。
今日休みだっけ?いや、昨日は日曜だったしそんなハズねぇよな。
「おまッ、ちょッ、煙草吸ってる場合じゃねぇだろ!!!ガッコ!!大遅刻!!もー昼じゃねぇかよ!!」
怒鳴りながら詰め寄ると、久保ちゃんは、
「……何言ってんの?時任」
突然宇宙の言葉を喋り出した人間を見る様な顔をした。
「久保ちゃんこそ何寝惚けてんだよ!執行部だけでも顔出すぞ!」
今からガッコに行っても午後の授業には殆ど出れねぇだろうけど、今日は俺らが巡回の当番だ。
サボると桂木がコワイ。
ノートはどーすっかなー。高くつきそうだけど、桂木に借りるしかねぇよな……
俺が悶々と悩む様を妙に感情のない目で見詰め、久保ちゃんは静かに言った。
「……時任、また記憶なくなった?いや、記憶が戻った?」
「……はぁ?」
また……っつったよな?俺、記憶喪失になったことなんか一度たりともねーぞ?
「久保ちゃんこそ記憶喪失なんじゃねぇの?大体、久保ちゃんのこと忘れてねーし」
「うーん」
「執行部とか、相浦とか桂木とか忘れてねぇし」
相浦とか桂木とか。
その名前を舌に乗せた瞬間、久保ちゃんは凄く珍しい表情をした。
眉根を顰め、口角を下げ、はっきりと不愉快そうな顔をしたのだ。
怒ってても笑ってるような顔をすることの多いコイツが、こんなあからさまに不機嫌そうな顔をすんのは珍しい。
っつーか、なんでその名前で不機嫌になんだよ。
それだけでもワケわかんねぇのに、
「誰ソレ。時任の友達だった人達?」
なんて、耳疑うよーなコトまでぬかしやがる始末。
「現在進行形で俺らのダチだろーが。大体、桂木を執行部に引きこんだの俺達じゃん」
「“俺ら”?」
久保ちゃんはソレを聞いて、考え込む様に口を閉ざした。
煙草が灰皿に強く押し付けられて、潰れる。
「……久保ちゃん?」
「……時任さ、ガッコでいつも何やってんのか、ちょっと言ってみてくれない?」
「いーけど、遅刻……」
「いーからいーから」
何がいーんだと思いつつ、変な久保ちゃん相手に俺は話した。
授業が眠いけど、俺はちゃんとノートをとってること。
久保ちゃんはいっつも眠ってて、俺様のノートをテスト前に見てること。
放課後は巡回したり喧嘩したり制裁したり、執行部として二人で事件を解決したりしてること。
桂木達のこと。
藤原やオカマ校医との戦い、大塚達の馬鹿な悪事のこと。
俺達の、それなりに楽しい日常を。
「……へぇ」
全部聞き終えた久保ちゃんの反応はそれだけで、
「じゃ、時任。右手見てみ?」
と、また妙な事を言った。
「一体なんなんだよ……」
ブツブツ言いながら、俺は手袋に指をかけた。
脱ぎ捨てて、


心臓が止まるかと思った。


「……な……んだよ……コレ……?」
手袋の下から現れたのは、人間の手、じゃなかった。
見慣れない、毛で覆われた右手。
毛は猫科の動物の様で、爪は肉食獣のように鋭く長い。
形が人間の手である分、余計に歪で気持ちが悪かった。
なんだこれは?
人間じゃ、ない。
こんなの、俺の手じゃない!
「う……ッ」
吐き気が込み上げてきて、口元を押さえる。
俯いた俺を、久保ちゃんが強く抱き締めた。
「……この手で時任の言ってたような、普通の学校生活ができると思う?」
「でも……ッ!!」
だって、でも、昨日までのあの日々は夢なんかじゃないのに。
絶対違うのに。
全てを否定するようなこの右手の存在。
「違う……ッ!!」
久保ちゃんの胸に額を押し付けて、何度も頭を振る。
「だからね、時任」
耳朶に唇を寄せ、久保ちゃんは低い声で囁いた。


「これは全部夢なんだよ」


「え……」
「だってそーでしょ?人間がこんな右手してるなんて、ありえないんだから」
夢……
こんなにハッキリしているのに?
俺を抱き締める久保ちゃんの腕の強さも、直に感じる肌の温もりも、鼓動も。
セッタの匂いでさえも。
全部、荒磯の記憶と同じくらいリアルなのに。
そんな言葉で、片付けていいのか……?
「俺は覚えてるんだよね」
久保ちゃんが念を押すように言った。
「忘れるワケ……ねぇじゃん……ッ」
「ならいーんだよ。他のコトは全部、どーでも」


 


混乱した頭に久保ちゃんの言葉がゆっくりと浸み込んで、麻薬のように甘く犯されていくような気がした。

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