遠くから名前を呼ばれ、振り返った。
「またな、潮!」
「……おう!」
屈託のない笑顔に左手を降って、背を向けた。
定時制の高校には色んな奴がいる。
30過ぎた奴もいれば引きこもりだった奴も、明るい奴も暗い奴も、お調子者もしっかり者も居て、個性派揃いだ。
でも、皆良い奴だ。
個性の違いを誰も責めたりしない。
学校は楽しい。
家までの帰途を一人歩く。
夕日に染まる町が橙色をしていた。
陰影が濃い。
俯くと、自分の影が黒く長くたった一つ足元から伸びていた。
それだけのことで無性に寂しくなる。
家族が居る、友達が居る、そんな恵まれた環境に居て寂しいなんて思う自分に腹が立った。
擦違う人とは目も合わない。
でも、じろじろ見られるよりは余程マシだ。
それだけでも義手を付けて良かったと思う。
人気のないバス停に腰を下ろした。
バスを待つ間、懐からセッタを取り出して火を付ける。
いつものように指先に挟んで、細くたなびく煙を眺めた。
吸いはしない。こんな苦くて不味いものを吸う奴の気が知れないと思う。
それなのに、美味しくもない煙草の、不健康なその香りがただ懐かしかった。
「おかえり、稔」
「……婆ちゃん、ただいま」
玄関で出迎えてくれた婆ちゃんに笑顔を向ける。
一瞬空いた間は上手く誤魔化せただろうか。
潮も、稔も、俺の名前だ。
それなのに他人の名前で呼ばれているような違和感が拭えない。
俺はなんて呼ばれていたんだろう。
俺には16年間の記憶がない。
小さな背中に続いてリビングに入ると、TVを見ていた爺ちゃんが振り返った。
目が合うと、爺ちゃんは目を細めて笑う。
「おやつ食べるか?」
「また羊羮かよ~~~」
文句を言うと、髪をくしゃくしゃに撫でられた。
温かな感触。
甘やかされ子供扱いされることが擽ったいが嫌な気持ちはしなかった。
「着替えておいで。夕飯出来てるよ」
「分かった」
鼻を擽るスパイスの香りはカレーだ。
不意に胸が締め付けられて、二人に見えないように自分のシャツを強く強く掴んだ。
夜半に腕の痛みで目が覚めた。
肘から先が存在しない右手が、まるでそこにあるかのようにズキズキと痛む。
何処にあるのかも分からねぇのに、痛みだけ思い出させやがって。
歯を食い縛り声を殺して一人耐える。
腕を抱え込む様にすると、痛みは伝播して心臓の辺りがじくじくと疼いた。
まるで、共鳴するかのように。
失った記憶が思い出せと俺に訴えているのだと思った。
俺は俺の正体を知っている。
潮稔。
爺ちゃんや婆ちゃんが見せてくれるアルバムには五歳までの俺が居て、家族に囲まれて笑っていた。
今でもうっすらと覚えているし、目の前で母と兄を失った瞬間はそれこそ鮮明に焼き付いていて今でも時折フラッシュバックする。
なのに、それ以降の記憶は全くの空だ。
ベトナムで行方不明になった俺が何故横浜で発見されたのか。
なんで右手がないのか。
16年間、誰と何をしてどうやって生きてきたのか俺だけが知っている筈なのに。
爺ちゃんも婆ちゃんも、無理に思い出すことはない、今、俺が生きている、それだけで良いと言ってくれる。
一度死んだ筈の幽霊みたいな俺を孫として本気で愛してくれている二人に心配を掛けたくない。
だけど失った16年間の俺を知らずに俺は俺を知っていると言えるのだろうか。
バスを待つ。
行き交う車とその向こうに見える雑踏をぼんやりと眺めながらまたセッタを取り出す。
今や習慣になってしまった。
火を付ける前に煙草の匂いを鼻先を掠め、反射的に振り返った。
同時に蘇るのは火薬の臭い。
背後に立っていたのはのっぽで眼鏡をかけた男だった。
垂れ目で開いているのか分からない程、目が細い。
知らない人。
なのに俺は息を呑んで、その男から目を逸らすことが出来なかった。
男もじっと俺を見ていた。
そのままどれ程の時間が経ったのか分からない。
やがて男は静かに口を開いた。
「約束通り拾いに来た」
視界が滲み、世界が歪む。
泣きたくなかった。
何故かこの男の前では特に。
けれどそれ以上に強い感情が喉から競り上がってきて涙を止めることが出来なかった。
「俺は、お前の右手と心中しても良かったんだけどね」
歪んだ視界の中で男は笑っているようだった。
「でも、お前の嫌がることはしないよ」
セッタの煙が身体に纏わりつく。
ずっと嗅いでいた匂いなのに全く違うものの様に思えた。
上手く息が出来ない。
肺の中に流れ込む感情の海に溺れて沈んでしまいそうだった。
「お前の望みは?」
俺の望み、は。
「名前、呼んで」