感情起源論争、というものがある。
情動の起源を巡る歴史的な論争で、身体変化の認知が情動を生むというウィリアム・ジェームズとカール・ランゲの末梢起源説に対し、ウォルター・キャノンとフィリップ・バードが、視床が情動反応を調整する中枢であるとする中枢起源説を唱えた。
ジェームズ=ランゲは、刺激が入力され大脳皮質に達し知覚が生じると末梢神経が活性化される。そして生じた生理的身体的変化が大脳皮質にフィードバックされた結果、情動が生じるとした。しかし、キャノン=バードはそれに異を唱え、情動を生起させる刺激は視床を経由して大脳皮質に達し、その後、大脳皮質に情報を伝達して情動を生起させる。同時に、末梢器官にも信号を出して生理的反応を引き起こすと反論した。
簡単に言えば、泣くから悲しいのが末梢起源説で、悲しいから泣くのが中枢起源説だ。この論争はシャクター=シンガー理論も加わって現在においても科学的な終止符は打たれていないらしいが、そんなことはまぁどうでもいい。
普通は、悲しいから泣く、と思うのだろう。
だが俺は、感情が後付けだというジェームズ=ランゲの末梢起源説に、妙に納得したのだ。
数ヶ月前、時任は久保田に「好きだ」と告げた。相当の勇気を振り絞ったに違いない。彼の耳は真っ赤で、睫毛が少し震えていたことまで久保田は鮮明に覚えている。久保田はその必死の言葉に、「そう」とだけ答えた。俯いていた時任は、それ以上久保田が言葉を発するつもりがないことを悟って顔を上げた。途轍もなく強い時任がその時だけは簡単に手折ることが出来そうな程、ズタズタの表情で、立っていた。
久保田は時任に応えなかった。何の返事もしなかった。そして、無言で今までの関係で居続けることを強要した。
時任のことを愛してないのか?
いや、多分愛してる。正解なんて知らないが、きっとこれは愛の定義に限りなく近い。
時任に欲情しないから?
そんなワケはない。マスタベーションの時に、脳裏に浮かべるのが誰かを考えれば。
じゃあ、何故?
「久保ちゃん、女とキスしてた」
これ以上ない程、不機嫌そうな顔をして時任はそう言った。この世の気に入らないこと全てを眼前に曝されたかのような、もの凄く不機嫌そうな顔だ。
しかし彼の不機嫌は、他の感情をカモフラージュする為の虚勢であることが間々ある。
丁度、今のように。
「あの女と付き合ってんの?」
「いんや?」
即座に否定する。
ソファーに胡座をかいて隣に座っていた時任は、明らかに安心したように力を抜いたが、眉間の皴はそのままに、今度は顔を不可解そうな表情へと変えた。
「でも、キス……」
キス、という言葉を口にする度に震える睫毛を興味深く見詰める。彼くらい長いと、睫毛も感情を表すらしい。
「俺はキス、されただけ。したくてしたワケじゃないよ。向こうが勝手にしてきただけ」
そう。呼び出して一方的に恋情を告げて、断りの言葉を言い終わらない内に唇を押し付けてきたのは名前も知らない女の子であって、久保田ではない。したいようにさせていたら、舌まで入れて絡めてきた。近頃の女の子は随分と積極的だなと感心したが、彼女がそうなだけかもしれない。しかし、久保田に応じる気が一切ないのを悟ると、流石に唇を離して何処かへ駆けて行ってしまった。けれど、見ていた時任には女の子が去った理由は分からなかっただろう。もしかしたら久保田も舌を絡めて応じているように見えたかもしれない。
時任は、見ていた。
そして久保田はそれを、知っていた。
何故?
「まぁ、それなりに気持ち良かったけどね。男だし?」
言う程良かったワケではないが、敢えて口にする。
その言葉に傷付いたように項垂れる時任を見て、口角を上げる。
時任が自分の言葉に一々苦しむ様子を見て、暗い喜びが身の内から湧き上がる下種な性を、久保田はとっくに自覚していた。
時任が久保田の挙動に傷付き苦しむのは、久保田のことが好きだから。
彼はその全てで自身の言葉と気持ちを証明してみせる。下手すれば雑音よりも煩わしいと思っていた他人の感情が、これ程の喜悦を脳髄に生じさせるということも時任が教えた。
俯く頭の頂に手を置き、猫っ毛をさらりと撫でる。
今、甘く愛してると囁けば、時任は心を削る懊悩からいとも簡単に逃れることができるだろう。愛し合っていると知った二人の心はきっと繋がるのだろう。
体も。
だが、久保田は言わない。
今、この時、時任が久保田の事を好きで、隣に居る、それだけで久保田には十分だった。
何も変えたくない。
猫は、追いかければ逃げてしまう。
擦り寄ってくるのを待つしかない。
触れても抱いてもいけない。
時任を不可触な存在に仕立てあげ、それさえ守ればこのままでいられるなどというのは久保田の勝手な思い込みで、願いだ。
そんな愛だの恋だのではなくもっと現実的で一方的な久保田の都合。
残酷なことをしている自覚はあった。時任が今抱いている不安や恐怖は、久保田のそれと同一のモノなのだから。
愛してるよ。ずっと側にいるよ。
心の中でだけ囁く。
だからずっと側に居て。
その為の手段を選ぶ気は元よりない。
前髪の隙間から時任は久保田を仰ぎ見た。瞳には変わらぬ痛苦が滲んでいる。されるがまま頭を撫でられながら時任は、もうそれ以上その件について、何かを言うことはなかった。
しかし、叶わぬと知っているからこそ人は願うのだろうか。
久保田は、時任を探して校内を歩いていた。放課後、時任が久保田の側を離れ、行き先も告げず一人でふらりと何処かへ行ってしまうことは珍しい。どちらかといえばそれは久保田の行いだ。だが、猫の気まぐれには慣れている。放課後の喧騒が空気を震わせる廊下を、久保田は屋上に向かって歩いていた。今の彼の機嫌は決して悪くはなかった。
時任から言われた好き、を思い出す度、久保田は幸せな気分になる。綿菓子の様なふわふわとした覚束無さと糖度のそれは決して久保田好みのものではない筈なのに、何度でも噛み締めたくなった。
この幸福感は時任にも手にする権利がある。
だが、久保田は言わない。
言わなくて済むなら、一生言わないかもしれない。
独り善がりな願いの為に。
屋上へと続く階段を上っている途中で、微かに聞こえてきた話し声が時任のものであることに久保田は直ぐ気付いた。時任に関してのみ五感が鋭敏になる。著しく衰えた視覚でさえも。
階段の踊り場、屋上の鉄扉の前で時任と見知らぬ女の子が話していた。いや、どう見ても告白の場面だった。女の子の瞳は涙と恋心で潤み揺らめき、時任は照れたように俯いて女の子の言葉に耳を傾けている。そして久保田は影からそっとそれを見ている。その情況は、立場こそ逆転しているものの、先日のそれと酷似していた。違いは、久保田が見かけたのは偶然で、時任が見かけたのは偶然じゃないということか。
ごめん、一際強く、その言葉が久保田の鼓膜を打った。
時任が彼女の想いを断ることは予定調和だった。時任は、久保田が好きなのだから。
そんな驕りが招いた、というのは考えすぎだろうか。
女の子が俯き、時任が気まずそうに視線を反らした直後だった。顔を上げた彼女は、時任の方に一歩踏み込むと、極自然に、唇を、時任の唇に、そっと押し当てた。その口付けに、彼の意志が微塵も介在していないことは明白だった。
俺はキス、されただけ。
いつぞやの、誰かの言葉が脳裏に蘇る。
羽根のように軽く、瞬きする間の刹那的なキスだった。目が合った瞬間に零れ落ちた涙は、演技かと思う程のタイミングの良さだった。それを計算なしでやってのける。女は強かな生き物なのだ。そのまま倒れ込むようにして抱き着いた豪胆な神経にも驚嘆を禁じえない。
時任は、突き放しはしなかった。胸の中で泣きたいだけ女の子を泣かせてやった。でも、その細い背中を抱き返すようなことはしない。その場凌ぎの優しさを与えてやれるほど、彼は器用ではないのだ。
最後まで見届けることなく、久保田は踵を返した。結果が分かり切っているから、そうではない。
余裕がなかった。二人の唇が触れた瞬間、脳内で何かが静かに爆ぜ、そこからタールのように粘っこく流れ落ちるモノが胸と気管を塞ぎ重く絡みつく。指先がやけに冷える。何らかの感情が、圧倒的な質量と重量で神経を攻撃していたが、それが何かまでは分からない。
今、何を感じているのかは良く分からないが。
今、何をしたいのかは明白だった。
しかし今、あの場でこの衝動を解放したら、単なる惨劇に終わることを久保田は自覚していた。自覚できるだけの理性があったことは奇跡とさえ言えた。
血液に乗って全身を巡り細胞を刺激するこの不快な衝動を如何に効果的に解放するか、その事だけを久保田はずっと考えていた。
そうして気を、紛らわせていた。
この感情は、何と言う?
分からないなら分からないまま衝動に身を任せてしまえばいい。