時は現代。
都内某所に、両隣を高層ビル挟まれた小さな事務所が慎ましく建っておりました。
然程古くもなく、かといって新しくもない四階建ての平凡なビルです。
一階は喫茶店、二階、三階はテナント募集中で、四階はどこかの事務所のようでしたが一見して何の事務所だかは分かりません。
絶えず子供の気配がする為、隣のビル等の近所には託児所か何かと勘違いしている人間も居るほど、そこは自己主張に欠けた
場所でしたが、そこは東京、いや日本一の名探偵が構える久保田探偵事務所なのでした。
探偵は今日も大きなソファーに座って、事件に全く関係なさそうなスポーツ新聞を読んでいます。
長い前髪から覗く横顔は大層端正でしたが、のほほんとした空気を纏い淫猥な広告が見え隠れする新聞を読んでいる姿は
隠居前のお爺さんのようです。
久保田探偵は例え灰色の脳細胞を擽るような怪奇事件の記事を見つけても、「へぇー」の一言で終わらせてしまいます。
早い話、やる気がないのです。
この探偵、実力にやる気が反比例しているようで、
探偵が事務所を大っぴらに宣伝しないのは、そういう訳がありました。
久保田探偵は、ただ静かに新聞を読んでいます。
活字の羅列を目が追って、節のある長い指がページをかさりと捲り、そして時々膝の上で眠るにゃんこを優しく撫でます。
いえ、にゃんこのように丸まっており、雰囲気も大分猫っぽいそれは可愛らしい少年です。
すぴすぴと寝息を立てている少年の名前は時任といいました。
一応久保田探偵の助手です。
一応、が付くのは、彼が事件の引き鉄になったり、騒ぎを起こしたり、攫われたりとトラブルメーカーになることが多いからです。
本人はとても一生懸命なのですけれど……
そんな彼でしたが、しかし時任少年はこの事務所にとってなくてはならない要の存在なのでした。
彼がいないと探偵事務所は成り立たないのです。
それがどういうことかはお話が進むにつれ皆さんにも分かってくるでしょう。
「ちょっとッ!久保田君!!」
滞留していた部屋の空気が、女の子の甲高い声と騒々しくドアが開けられる音で打ち破られました。
小学校六年生ぐらいの年齢に見える女の子が、肩で息をしながら久保田探偵の方を睨みつけています。
彼女は久保田探偵事務所の助手……諸々の事情で久保田に養われている少年探偵団の一員で桂木ちゃんと呼ばれ、
とてもしっかりした彼女は小学生でありながら、怠惰な探偵が生み出す赤字と日々戦い事務所を切り盛りしているのでした。
少年探偵団は他に何人かの団員がおり、団長は時任少年です。
「どーゆーッ……」
「し、時任が寝てる」
久保田探偵はソファー越しに振りかえって、人差し指を唇に押し当てました。
彼は何よりも愛猫を優先させるのです。
桂木ちゃんは眉間に皺を寄せ、それでも声のトーンは落として話の続きを捲くし立てます。
「どーゆーことよ」
「何が?」
「二十面相からの予告状!無視した上に警察からの依頼も断わったんですって!?」
興奮と憤りが蘇り、押さえた声が大きくなってしまいました。
「うー……」
久保田探偵の膝に頭を乗せている時任少年がぐずるような声を上げます。
それを宥める様に頭を撫でて、久保田探偵が首を傾げました。
「何かまずかった?」
「まずいに決まってんじゃない!!」
桂木ちゃんは叫んで、ドアをがんッと殴りました。
その音で、ついに時任少年は目を覚ましてしまいました。
頭を起こして、寝惚け眼できょろきょろしています。
「折角の仕事、なんで受けないのよ!」
「面倒だから?」
「事務所の財政がどんだけ逼迫してるか分かってるワケ!?」
一回一回の仕事のギャラは決して少なくはないのですが、何しろこなす数が少ない上に、予算に組み込まれている『時任費』
の存在が財政を苦しいものにしているのでした。
「ほら、二十面相の予告状だって、『前略、元気かね?久保田君。そろそろ君の顔が見たくなったので、手頃な国宝でも
盗むことにしたよ。逢瀬の場所は国立宝飾美術館。日は10月29日、時間は午後十時ジャストだ。手土産に『泣かない未明』と
君の大事な愛猫を頂くこととしよう。楽しみに待っていてくれたまえ。怪盗二十面相』ってまるっきり久保田君への招待状
じゃない」
二十面相というのは、変装の天才で二十の顔を持つと言われている今世紀最大の怪盗ですが、その内実は
久保田探偵を偏愛するただのストーカーです。
久保田探偵にかまって欲しくて国宝盗んだりする困ったナイスミドルなのでした。
「招待されてほいほい招かれたらただのアホっしょ」
「大事な愛猫も狙われてるよーですけど?」
「俺が関わらなかったら時任だって狙われようがないっしょ」
「……え、俺狙われてんの?」
寝起きの掠れた声を出して、時任少年が久保田探偵を見上げました。
目がまだトロンとしています。
「俺が守るからだいじょーぶ」
そう言って、久保田探偵が小さな額にちゅっとキスをしました。
時任少年の林檎のようなほっぺが更に真っ赤になります。
桂木ちゃんはその胸焼けしそうな光景を、げっそりした顔で見つめています。
「……どうあっても仕事受ける気はないワケ?国宝が狙われてんのよ!」
「盗難されそうな国宝を守るのなんて、探偵の仕事じゃないっしょ。そこに解くべき謎があるならまだしも。密室とか。
大体、密室の謎なんて解かなくても物的証拠出れば一発お縄で意味ないんだけどねぇ。警察がしっかり警備してれば
いくら怪盗といえども簡単に盗めないっしょ。それで盗まれるんなら警察の怠慢なんじゃない?」
さらさらと久保田探偵が探偵とも思えないような、しかし至極当然な事を口走り、桂木ちゃんが反論できず言葉につまって
いると、
「……悪かったな。怠慢な警察でよ」
「あらら……」
桂木ちゃんの後ろから憮然とした顔の葛西さんが事務所の中へ入ってきました。
葛西さんは久保田探偵の伯父さんであり、刑事でもあります。
「おっちゃんだ!」
「よ、久し振りだな。時坊」
苦い表情を浮かべながらも葛西さんは時任に笑いかけ、ソファーに腰を下ろし久保田探偵と向き合いました。
「葛西さんは怠慢っていうより不良でしょ」
「まーな」
頭をがしがし掻いて、どう切り出そうか迷ってるらしい葛西さん。
「桂木ちゃんに予告状のこと教えたの、葛西さん?」
「ああ。さっき下で会ってな」
そう言って、桂木ちゃんが淹れてくれたコーヒーを啜ります。
久保田探偵はふぅんと返しただけでしたが、付き合いの長い葛西さんには、余計なことをと思っている探偵の内心が手に取るように
分かって冷や汗ものです。
「どうあっても受ける気ねぇのか?警察の依頼」
「受ける意味ないし?真田さんは俺が出てきたら張り切るだけっしょ」
真田さんとは二十面相のことです。探偵はそれなりにちゃんと調べているのでした。
「そーなんだけどよ……だが、お前が出てこなくったってブツはちゃんと盗んでいきやがるんだ。悔しいがな、警察の機動力じゃ
あの腹黒野郎に太刀打ちできねぇんだ」
腹黒野郎とは二十面相のことです。無茶苦茶言ってます。
「民間人のお前に頼るのは筋違いだってことは分かっている。だが頼む誠人。力を貸してくれ」
葛西さんは久保田探偵に向かって頭を下げました。
しかし探偵は、葛西さんがここまでしているのに返事を渋る様にボーっとしたままです。
その様子に桂木ちゃんが二度目の噴火を起こしました。
「国宝も危機!財政も危機!あんたが仕事すれば一石二鳥即解決なのになんでそんなにやる気ないのよ!!」
「だって……ねぇ」
その時、黙って座っていた時任が動きました。
「久保ちゃん。おっちゃんが困ってんだろ。受けてやれよ!」
久保田探偵の膝に向かい合わせに乗っかって、その頬を両手で挟むと顔をじっと覗きこみます。
傍から見ると中々扇情的な格好をして、
「最近、久保ちゃんが仕事しねーから俺様つまんねぇ!!いーじゃん。久々に暴れてやろーぜ?二十面相の変態なんて
俺らの敵じゃねーだろ」
変態とか言われてます。
「んー」
時任少年のお願い攻撃に、かなり心が揺らいだらしい探偵。
そうです。国宝が盗まれよーが事務所が赤字だろーが何処吹く風の探偵でしたが、愛する時任少年にお願いされるなら
話は別でした。
事務所と国宝の運命が時任少年にかかっている為、葛西さんと桂木ちゃんははらはらしながら二人の動向を見守っています。
後一押し!と思った時任少年は、
「……探偵やってる久保ちゃんって……か、カッコイイしさ……やって?」
ほっぺを赤くして、照れまくりながらも頑張って、久保田探偵がかなりやる気を出すようなことを言いました。
「んー……しょうがないなぁ」
そうは言いつつも、探偵の垂れ目は更に垂れています。
しかし抜け目ないのがこの探偵。
「受けるけど、その代わりチューしてよ」
「はぁッ!?」
ぼんッと音のでる勢いで時任少年の顔が真っ赤になりました。
「な、なんで俺がッ!」
「俺を動かしたのは時任でしょ?」
「……うッ……」
時任少年は助けを求めるように周りを見渡しました。
しかし、葛西探偵は両手を合わせて拝んでいるし、桂木ちゃんはハリセンを構えています。
「とーきーとー」
「……」
仕方なく腹を括った時任少年は、真っ赤な顔を久保田探偵に近づけました。
底意地悪く目を開けたまま、その羞恥に染まる表情を堪能している探偵。
ギャラリーの二人は何故か固唾を飲みながらその様子を食い入る様に見ています。
時任少年が涙目をギュッと瞑って。チュッと触れるだけのキスを落として。
「……ありがと」
探偵は笑い、精神的疲労からくったりした時任少年を膝の上に抱きかかえました。
「じゃ、そーゆーワケで引き受けるよ。その依頼。予告の日にちまでまだ時間があるし、こっちも準備とかあるから
今日のトコは帰ってもらっていい?また後で連絡するから」
「あ、ああ。悪いな。頼むぞ」
多少呆気に取られながらも葛西さんはそそくさと帰り、探偵は呆れ顔の桂木ちゃんに笑いかけました。
「もう直ぐ室田達も帰ってくるし、作戦会議でもしましょーかねぇ」