その時の私は何にも持って無くて、誰とも繋がってなくて、世界に独りぼっちで、絶望だけ抱えていてまるで空っぽだった。
彼が、行くあてもなく町の片隅でうずくまっていた私を拾ったのは、雨の日だった。
成り行きで拾われた私は、何となくそのまま彼の部屋に居着いている。
彼が私を拾った理由は分からない。
理由なんてなかったのかもしれない。
彼は不思議な人だった。
何を考えているのか少しも分からなくて、掴みどころがなくて、夜の霧のような人。
彼のことを理解しようとするのは、闇の中で更に霧を覗き込むようなものだった。
何も見える筈がない。
その癖、ひしひしと伝わってくるのだ。
悲しみよりも絶望よりも尚深い感情が。
呼吸を続けることすら苦痛で仕方がないとでもいうような、雰囲気を、彼は常に纏っていた。
私達の関係も、奇妙なものだった。
彼は、居候の見返りに何かを求めてくるようなことはなかった。
何にも、求めなかった。
私はそれを不思議に、そして少しばかり不満に思っていた。
自分の魅力を過信していたワケではないが、彼は男で、私は女だ。
男女が一つ屋根の下に暮らしていて必ずしも恋人関係なるということはないだろうが、肉体関係になることは、少なくないのではないか。
今までの男は皆そうだった。
少なくとも、現状よりはずっと自然。
ホモなの?
思わず面と向かって尋ねてしまった。
どうだろうねぇ。
彼は何時もはぐらかす。
ソファーに座って何時ものセブンスターを吸い、煙を吐いて、何時もの虚ろを瞳に浮かべている彼。
彼は暫く虚空を見詰めていたが、
そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。
酷く曖昧な言葉を発した。
なんせ、たった一人しか好きになったことがないからね。
そのたった一人は男だったけど。
そのたった一人という言葉には、後にも先にもという意味が込められているような気がした。
私は無性に悔しくなる。
やっぱりホモなんじゃない。
たった一人しか好きになれないなんて、可哀想な人。
彼は笑った。
一生に一度の恋だったんだよ。
その日、私は初めて彼について知った。
彼は、夜の霧なんかじゃなかった。
誰かを好きになって、
誰かに恋をして、
誰かを愛した、
ただの人だった。
そして喪った人。
その日の夜、夢の中に『彼』が出てきた。
『彼』の顔なんか見たことないのに(彼は一枚も『彼』の写真を持っていないらしかった)やけにはっきりとした姿で、彼が猫好きなせいか猫っぽい印象の吊り目だった。
『彼』は不機嫌そうに言った。
アイツは俺のモンだけど、ぜってーやんねーけど、アイツのことよろしくな。
不本意そうに。
拗ねた子供みたいな顔をして。
けれどこちらを見る眼差しは恐ろしい程に真っ直ぐで、真摯で、『彼』の言葉は全て本心でしかないのだと分かる。
躊躇いなく彼は自分のものだと言った『彼』は、決して浅くはない独占欲を抱えていながら、それでも私に彼を頼むと言った。
『彼』は彼に生きていて欲しいのだ。
でも、私は宜しくと言われても直ぐには答えられなかった。
彼がこのままじゃ駄目だということは分かっていた。
生きる気がないのだ。
これっぽっちも。
その上で、生きてる。
まるで毎日罰ゲームをこなしているかのように。
彼がそうなった原因が『彼』を喪ったことにあるのは今では明白だった。
私はまた悔しさが体を満たしていくのを感じる。
恨み言の一つでも言ってやりたかった。
彼は君しか見ていない。
君しか見えないから、私のことを見てくれない。
君にさえ出会わなければ彼は生きてられたのに。
でも、何も言えなかった。
彼は『彼』に会えて良かったと、心底幸福だと思っているから。
喪った今でさえ。
俺は全部間違えて生きてきたけど、アイツを拾ったことだけは間違いじゃなかった。
微笑みながらそう言っていたから。
だから私はこう言うことにした。
君が、死んじゃうから、悪い。
彼は目を丸くして、
そーだな。
笑った。
その笑顔は何だか泣きそうに切なかった。
目を覚まして、私は少しだけ泣いた。
それから大分経って、私は彼とキスもセックスもするようになった。
でも求めるのは何時も私の方からで、彼は拒絶こそしなかったけど、それだけだった。
つまり、彼にとって特別な意味などなく、どうでも良いことなのだ。
どうでも良くないことは、彼にはもうないのだから。
一緒にいて、それなりの時間が流れて、でも彼は変わらなかった。
何一つ。
変わっていくのは私ばかりだった。
ある日、彼は言った。
もう、無理かも。
手に黒光りする拳銃を持って。
その言葉にも、その凶器にも私は驚かなかった。
彼がいつかそう言うであろうことも、彼がそんなモノを所持している人間であることも全て、どこかで分かっていた事だった。
自分の無力さも。
『彼』の事を思う。
彼を生かし、人にして、そして死なせる『彼』。
ごめんね、私じゃアナタを救ってあげらんなかった。
銃口がこめかみに押し当てられる。
ごめんねって言われるの、こんな気持ちなんだ。
分かって良かったと彼は笑い、そして私の目の前で静かに引き金を引いた。