時任可愛い
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「どうして平気な顔してるの?」
脳で反芻されないままに言葉が口から滑り出て、言ってしまった後に後悔する。
「どうしてって?」
久保田君は相変わらず何考えているのかまるで読み取れない、上っ面だけの微笑を浮かべていた。
窓から差し込む陽の光はオレンジで、二人しか居ない部室に黒い影とのコントラストを描いている。
日が暮れる。
「桂木ちゃんは俺に怒ったり凹んだり、泣いたりして欲しいの?」
そうじゃない。
そうじゃないけど、でも。
「私は久保田君に殺されるかもって、そういう覚悟をしていたわ」
生半可な覚悟じゃなかった。
どんなに憎まれるだろうと思っていた。
それでも好きだったから、私は。
久保田君は肩を竦めて、
「だって仕方ないじゃない。時任は桂木ちゃんが好きなんだから」
事も無げに言った。
「…………」
私は何が言いたかったのだろう。
彼に私の言葉はとても傲慢に響いている筈。
責める様な立場じゃない。
それが分かっていながら言葉が口を衝いて出てきたのは、私を突き動かしたのは、きっと恐怖。
私の知ってる久保田君はいつも時任と一緒に居て、隣で微笑んでいて、時任を大事にしてて、きっと好きで、愛していて、それ以外にはこれっぽっちも興味が無い、それが失われたら世界も共に崩れ去って消えてしまう、そんな眼差しで時任を見ていた。
そんな久保田君が、時任の恋人になった私を目の前にして、こんなに穏やかに平然とした面持ちでいることがとても怖かった。
「時任と恋人になりたくなかったワケじゃないけど、別に最初から何もする気はなかったよ?キスもセックスも」
何時もの笑みを浮かべたまま、彼は言った。
「時任が他の誰を好きで誰を愛していても、俺は時任が好きだし時任を愛してるよ」
深くて深くて、ただ深いだけの一途な想いで、
「それはずっと変わらない」
私の胸を穏やかに突いて、静かに抉った。
日がまた少し落ちて部屋の影が長く、濃くなる。
「あれ?二人しかいねーの」
静かになった教室にガラガラと戸の開く音が響いて、時任が顔を覗かせた。
「皆帰ったよ。美術の課題終ったの?」
「おー。この俺様に居残り命じるとかふざけた教師だぜ」
「お前が卵割っちゃったからじゃない」
「手が滑ったの!大体、イースターエッグなんて時期外れにも程があるっつーの」
久保田君に一通り課題の文句を言い、鞄を担いだまま時任は私に向ってにっと笑いかけた。
「報告書なんて明日でいーじゃん。帰ろーぜ」
「殆どあんた達がしでかした事の報告書なんだけどね」
内心の動揺が表に出ないように何時も通りの態度を装いながら、重ねて揃えた書類をテーブルの隅に置いて鞄を手に取る。
時任は謝りながらも悪びれない。
「久保田君、戸締りよろしく」
「りょーかい」
「久保ちゃん、またな」
「またな」
二人のまた、は、また明日という意味じゃない。
私が先に部屋を出て、時任がドアを閉めた。
一人残った久保田君がどんな顔で時任を見送ったのかは分からない。
でもきっと穏やかに微笑んでいるんだろう、薄暮に沈んだ部屋で一人佇みながら。
脳裏に浮かんだ光景は残照そのもののように寂しくて、切なくて、それは私が作り出してしまったような気がして、胸がギリギリと締め付けられるように痛むのを感じながら目の前の背中をじっと見詰めた。


 


日の沈みきった夜道を並んで歩く。
すれ違う人も疎らで、私達がぽつりぽつりと喋る取り留めの無い会話も夜気に良く響いた。
付き合い初めて直ぐに、一緒に帰るようになった。
学校ではずっと久保田君の隣に居る時任と、二人きりになるのはこの帰り道だけ。
一緒に帰ろうと時任に言われた時は驚いた。
もしかしたら、俺も好きだと言われた時以上に。
帰る場所が同じ久保田君に、時任はどう言ったんだろう。
何を思ってたの?
今、どう思ってる?
私と、一緒に居たいと思ってくれていたら、嬉しい。
彼の手に触れる。
彼が私の手をそっと握る。
それだけで泣きたくなる程幸せなのに。
「時任」
「……何だよ」
改まって名前を呼んだ私に、時任は訝しげな声を上げた。
軽く眉根を寄せて此方を伺う顔が、切れかけた電灯の瞬きに合わせて照らされている。


「一緒に暮らさない?」


時任がぴたりと歩みを止めた。
私も立ち止まる。
此方を凝視する時任の表情には戸惑いが多分に含まれていて、思いがけない私からの提案に言葉も出ない様だった。
暫く逡巡した後に口から出てきたのは、
「……だって、お前ん家、親とか駄目だろ?」
似合わない、現実的な言葉。
そう。私の望みは現実的じゃない。
「じゃあ、大学生になったら」
「…………」
「そう、先の長い話じゃないわ」
時任は唇を閉じたまま、言うべき何かを頭の中から探しているようだった。
私には分かっていた。
時任が探しているのは断る為の理由。
月に雲が掛かって、辺りの闇が一層濃くなる。
「あんたは……久保田君と離れる気なんてないのよ。この先もずっと」
分かっていたのに、きっと初めから。
それでも期待してしまった。
久保田君より私を選んでくれるんじゃないかと。
「何で……久保田君を好きにならなかったのよッ!」
「……久保ちゃんは、男だろ」
「久保田君は男のあんたが好きなのよ!恋愛対象として」
「…………」
責めてしまう。
非難してしまう。
止まらない。
彼自身にさえどうにもならない事なのに。
「時任が、久保田君を好きになってたら……ッ!」
私は諦める事が出来ていただろうか。
言葉に嗚咽が混ざる。


「私は…ッ…久保田君以上に時任を好きに……幸せにしてあげられない……ッ!」


何て情けない泣き言だろう。
誰よりも幸せにしてあげると胸を張って言えない。
好きで、好きである分だけ悔しくて惨めな気持ちになる。
私には家族がいて、友達もいて、皆大事で、捨てられるようなものじゃない。
だけど久保田君は……時任だけ、大事に思って大切にしている。
……そんなの、敵うワケない。
情けなくて、居た堪れなくて、涙が止まらず唇を噛んで俯く。
こんな泣き顔を見られたくなくて手を振り解こうとした時、逆に強く身体を引かれた。
唇に触れる、柔らかい感触。
顔を離した時任は照れ隠しの時の、ぶっきら棒な調子で、
「お前の好きがでけーかちいせーかなんて俺様は気にしねーよッ!っつーか好きとかに大小なんてねーだろ。……久保ちゃんが俺の事どんだけ好きでも、桂木の気持ちと比べる必要ねぇしそもそも比べるの無理じゃん。桂木が俺を幸せにする自信がなくてもいーよ。足りねぇ分は俺が埋めてやるから」
カッコ良くて頼り甲斐のある彼氏に感謝しろと嘯いた彼に私は馬鹿ねと返して少し笑った。
しょーもねぇこと考えてねぇで帰るぞと言う、街灯に照らされたその頬が少し赤くて、照れ屋な彼にそれ以上何も言えず手を引かれるまま歩き出す。
「俺は桂木が好きなんだからな」
ぶっきら棒な言葉の裏にある温かな気持ちに、また涙が溢れてきた。
眦から溢れ、後から後から頬を伝う雫を手の甲で拭うと、私の手を包む掌に少しだけ力が籠った。


 


彼は嘘が吐けない。


 


まだ胸裏に焼きついている昨日の光景。
部室の窓際に並んで青空を見上げる二人の背中。
風が吹いて、久保田君の煙草の香が僅かに部屋の中へ流れ込んできた。
時任は久保田君に顔を向けて、
「お前さー、そんなに煙草吸ってっと肺癌になんぞ。未成年で」
「肺癌になっても吸い続けてそうだなぁ」
「死ぬって」
久保田君なら有り得ると思ったのか、時任の肩が小さく揺れる。
「っつーか俺の方が肺癌になりそうだっつーの。お前の所為で」
「一緒に死ねるかなぁ。肺癌で」
久保田君のその言葉はふざけたような響きを伴っていて、冗談の衣で何重にも厳重に包まれたソレは、きっと切実な彼の願い。
時任は笑った。
「ばーか。肺癌で死ぬ前に俺が煙草止めさせてやるよッ」
「それは無理なんじゃない?」
「無理じゃねぇよ。この先、肺癌になるまでに時間もチャンスも腐るほどあんだろ」
当然のように言い放たれた言葉。
「それでもいいけどね」
その言葉は久保田君の満足の行く答えだったのだろうか。
青空にそのまま溶け消えてしまいそうな二人の姿。
これがあるべき姿なのだと世界に責められるような錯覚に息が苦しくなって、それ以上見ていられず目を離した。
煙草を止めさせるより、離れる方がずっと簡単なのに。
一緒に肺癌で死ぬ、それまでの長い時間を共に、手の届く距離で過ごすことを彼は微塵も疑っていない。
当然のように。
時任のこの先、はどれぐらい先までを指しているのだろう。
私は死ぬまでずっと、そう言っているように聞こえた。


 


時任は、この言葉には答えなかった。
『久保田君と離れる気なんてないのよ。この先もずっと』
多分、無意識に。
久保田君の穏やかな態度は諦観なんかじゃない。
余裕だ。
久保田君は知っているから。
例え時任が他の誰を好きで誰を愛しても、決して自分から離れない事を。
それは時任が気付いていない彼の真実。


 


夜空の雲は流れてまた月が顔を出す。
同じ夜空の下を久保田君も一人歩いているんだろうか、それとも、もう家に着いて時任を待っているのだろうか。
駅に着いたら私達の時間はお終い。
家に帰った時任の時間は久保田君と共に始まる。
それはきっと彼本来の時間。
彼の心の中に私は居ても、彼の世界に私は居ない。
好き。
好き。
だから苦しくて悲しい。
胸が破けそうなほど。


恋して貰えない彼。
選んで貰えない私。


私が好きで彼が大事な時任はいつ真実に気付いてしまうんだろう。
駅になんて永遠に着かなければ良いのに。
私の祈りは呪いの様に世界に響いて、消えた。

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