時任可愛い
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久保ちゃんが絵を描かなくなった。


 


毎日毎日スケッチブックを広げて、飽きることなく俺をモデルに絵を描き続けていた久保ちゃんがスケッチブックを最後に閉じて、もう一週間以上経つ。


高台にある日当たりの良い場所で山の方を眺めながら、俺をじゃらしたり、膝で昼寝する俺を撫でたり、煙草を吸っていた。


一日中、ずっと。


絵を描かなくなった久保ちゃんは、食べることも止めた。


頬のこけた久保ちゃんを心配して、俺は狩った鳩を久保ちゃんの前に並べた。


人間は鳩なんて食べないって分かってても、何かせずにはいられなかった。


久保ちゃんは凄いねって言って、俺を撫でて微笑んで、それだけだった。


日が暮れると久保ちゃんは宿に戻った。


俺はいつも宿の中には入らない。


俺には俺の塒がある。


久保ちゃんも俺を引きとめたことはない


けど、今日は違った。


久保ちゃんは俺を抱き上げるとコートの内側に隠すように抱えて 、自分の部屋に連れ込んだ。


床の上に下ろされ、戸惑う。


煙草を一本吸って、久保ちゃんは恐らく普段通り湯浴みをしに出て行ってしまう。


取り残された俺は居心地悪く椅子の上に丸まった。


普段通りに見える筈の久保ちゃんに違和感が募って仕方がなくて、何度も自分の毛皮を舐めて気を落ち着かせた。


部屋に戻ってきた久保ちゃんは所在なさ気な俺に目をやって、ふっと笑った。


ベッドに入ると布団を少し捲って俺を手招きする。


「おいで」


少しの逡巡の後、椅子を下りてシーツの上に飛び乗った。


横向きに寝る久保ちゃんの胸に背中をぴたりとくっつけて丸まる。


大きな手がゆっくりと俺の頭を何度も撫でた。


「……おやすみ」


久保ちゃんの匂いがする。


呼吸の度に久保ちゃんの胸が動くのが分かる。


背中に伝わる生きてる音と温もりに、漠然とした不安が解けていくのを感じた。


その日の朝は一層寒く、身が竦むようだった。


どんよりと暗く重い雲が空に立ち込めて雪を予感させた。


久保ちゃんはそんな空模様にもまるで頓着せずに高台のいつもの場所に赴いて、ただ寒いだけのその場所に座り続けた。


まるで何かを待っているみたいだった。


その足元に座り込んだ俺の胸に、また言い様のない不安が襲う。


「にゃあぁ」


「うん。寒いね」


嘘吐け。馬鹿。


日が暮れても久保ちゃんはその場に腰を下ろしたままだった。


ちらりちらりと白い欠片が空から降ってくる。


帰ろうと膝を引っ掻いて何度も鳴く俺を久保ちゃんは抱き上げて、抱え込む様にコートの内側に仕舞い込んだ。


やがて、酷い吹雪になった。


刺す様な冷たさがコートの内側にも伝わる。


何やってるんだよ久保ちゃん!!このままだと死んじまうだろ!!


その時、久保ちゃんの呟く様な声がごうごうと鳴る風の音に混じって、俺の耳にははっきりと届いた。


「鞄に手紙があるから、吹雪が止んだら届けてね。山一つ越えた先の、あの山の麓にある村に一軒だけ青い屋根の家があるから。行けば分かるよ」


いつか聞いたような響きで。


「約束」


ぞくりと身体が震える。


コートの内側から無理やり顔を出して、久保ちゃんを見上げた。


「『時任』でしょ、お前」


一寸先も見えない真っ白な闇の中で、雪塗れの青白い顔が微かに笑った。


「お前の事、俺が分からないと思った?」


打付ける冷気よりも強い衝撃に打ちのめされる。


呆然と固まる俺に構わず、久保ちゃんは言葉を続けた。


「息をするのがずっと辛かった。何食べても味しないし、何見てもつまらない。水の底で溺れてるみたいだった。


何度も死のうとして、その度に約束を思い出して……でも俺の好きなお前なんて……思い出すこともできなかったよ。まして描くなんてねぇ」


それは、分かっていたことだ。


そうなることが分かった上で、俺は『約束』を口にした。


どんな風になっても久保ちゃんに生きて欲しかったから。


だけど、一人残された久保ちゃんのその言葉は鉛の様に重く俺に圧し掛かった。


「お前にまた会えて、嬉しかったよ」


俺だって嬉しかった。


「でも、もう看取りたくないから」


看取らせてごめん。でも、でも。


「約束は果たした……ごめんね?」


なんで謝んの?


「そんな目をしないで、今度こそ……許してよ」


そういって久保ちゃんはゆっくりと目を瞑った。


凍死しかけている人間の力とは思えない強い力でコートの内側に固く抱き込まれる。


駄目だ!!ふざけんな!!!


久保ちゃん!!!!久保ちゃんッ!!!!!


久保ちゃんッ!!!!!


噛んでも、引っ掻いても、どれだけ鳴き叫んでも、久保ちゃんは一言も発せず、その場から動こうとはしなかった。


こんな時なのに全く生きようとしない久保ちゃんが怖くて怖くて仕方なかった。


歯の根が噛み合わない程震えているのは寒いからじゃない。


縋る様に爪を立てて、呼び止める様に鳴いて、吹雪の夜に消えていきそうな心音と体温を必死に追掛けた。


 


一番長い夜だった。


 


吹雪が止んだ頃、久保ちゃんの身体から体温は残らず失われていた。


コートの合せ目から無理やり這い出る。


背を丸めて座り込んだそのままの姿でその身体は雪で殆ど覆われていた。


身体を伸ばして、僅かに覗く頬を舐める。


ただ、冷たかった。


急に足元に穴が空いた気がしてよろける。


どこにも穴なんて空いてなかった。


けど、四肢に力が入らない。


頭がぼんやりとして、現実感がなくって、まるで白昼夢を見ている様だった。


悪い、夢を。


そうやってぼうっと動かない久保ちゃんを見ていたのが、何分だったのか何時間だったのか、俺にも分からない。


やがてのろのろと雪を掻いて鞄を掘り起こすと、頭を突っ込んで中の手紙を口に咥えた。


ゆっくりと歩き出す。


徐々に足が速く動いて、弾かれたようにがむしゃらに走り出した。


温かい久保ちゃんの腕から逃げたあの日のように、必死に。


走って走って走って。


町を駆け抜け、雪の積もる山道を直走る。


雪の冷たさが肉球を刺し、悴む足先の痛い筈だったが何も感じなかった。


心臓が馬鹿みたいに痛いせいだ。


今まで、どんなに嫌われても罵倒されても、一人でも、死にたいなんて思ったことなかったけど、俺、お前死んで、今、死んじまいたいくらい心臓が痛い。


俺、久保ちゃんにこんな思いさせたんだな。


すっげー好きだったのに。


魔女の子孫と差別された人間の俺も、悪魔の使者だと罵倒された黒猫の俺も、その優しい腕で抱きしめてくれた。


お前に出会わないままだったら、俺、独りで強がるばっかで、それだけだった。


絡まり付く悲しみと後悔を引き摺る様に足を動かす。


小さな山の頂を越え、下りも中腹に差し掛かった頃、日暮れの薄い闇の帳が辺りに下りる。


先ず拾ったのは無数の足音。


続いて死臭。


横道から姿を現したのは無数の人間だった。


鍬を担ぎ、一様に黒い服を着て目元以外を布で幾重にも覆った異様な風体だった。
 
嫌な予感に本能が警鐘を鳴らして、咄嗟に隠れようとしたが、黒い体は白い雪に映えて良く目立つ。


目敏く俺を見つけた人間達が昂奮したように何かを捲し立てて、風に乗った言葉の切れ端が耳に届いた。


黒猫。何かを咥えて。悪魔。魔女の手先。黒死病。こいつが。不吉な。黒猫のせいで。村が。逃がすな。


殺せ。


本気の憎悪と殺意に毛が逆立つ。


鍬を持つ手に力が入っているのを見て身体を翻した時、風を切って投げつけられた石が直撃して身体が吹き飛ばされた。


強かに身体を地面に打付ける。


身体の中で骨が砕けた音がした。


血が泡になって口の端からこぼれ出る。


肺と、恐らく他の内臓も、折れた骨で傷つけた。


いってぇ……!


ぎりりと手紙を噛締め、足に力を込めて立ち上がる。


殺意を込めて次々と投げつけられる投石をどうにか避けながら、人が追いかけて来られない獣道をふらふらと駆け降りた。
 
また、黒死病。


知らねぇって言ってんだろ、俺が原因な訳ないって、何回も、あの時も。


俺に悪魔や魔女の力があれば、どんな手使ってもお前を死なせなかった。


呼吸の度に肺が痛んで血に咽そうになる。


息をするのが辛い。


生きながら溺れている様な苦しみだったと言っていた、これは久保ちゃんの苦痛だ。


俺のエゴで久保ちゃんに味あわせた二年間の苦痛。


俺、何の為に生まれて来たのかな。久保ちゃん。


お前に約束を果たさせて、心置きなく死ねるように生まれて来たのかな。


今度こそお前と一緒に生きるためだと思ってた。


俺、お前と居たかっただけなんだよ。


一緒に生きたかった。ずっと。


魔女の子孫に生まれたことも、毛の色が黒く生まれたことも、どうだっていい。


お前と一緒に生きられる俺に生まれなかったことが一番悔しい。


猫でよかった。


人間だったら今きっと、みっともなく泣き喚いていただろうから。


躓いて、無様にすっ転ぶ。


立ち上がる力はもう、ない。


畜生ッ!


動けッ!動け俺の足ッ!!


負けんなッ!


痛みと後悔に負けてここで倒れれば俺は約束すら果たせない。


生きるのがどんなに辛くても久保ちゃんは俺との約束を果たしてくれた。


そんなあいつだから好きになった。


お前との約束も果たせない様じゃ、相方だなんて言えねぇよ。


千切れそうな足で鉛の様な体を引き摺る。


歩みは亀の様だ。


何度も倒れそうになって、漸く俺はその村に辿り着いた。


明け方の静まり返った村を一件一件回って青い屋根の家を探す。


求める家は村の一番奥の、森の入り口にあった。


……ここ……だ……


安堵した途端、急に体から力が抜けて目の前が暗くなる。


……変だな。なんか温かい。


お前の、腕の中みたいだ。


なぁ久保ちゃん、生まれ変わったら俺達、今度こそ……


 


彼女がドアを開けると、家の前に黒猫の死骸が横たわっており、驚いた彼女は小さな悲鳴を上げて一歩後ずさった。


その小さな骸には大小無数の傷があり、黒い毛に乾いた血が絡んで襤褸切れの様な有様だった。


顔を上げれば、白い雪の上に赤い足跡が点々と続いている。


この猫は己の意思で彼女の家に赴き、そして力尽きたようだった。


どうして……


彼女は息を呑み、そして黒猫が咥えている封筒に気づいた。


抜取った封筒には歯が食い込んだ痕があり、血が滲んでいた。


封筒に入っていたのはスケッチブックの切れ端と、折り畳まれた一枚の便箋だった。


黒髪の勝気そうな少年が、彼そっくりな黒猫と一緒に、笑顔でこちらを見上げている絵だった。


片や魔女の子孫。


片や悪魔の使者。


世間で不吉の象徴と忌み嫌われる彼らは、そのスケッチブックの切れ端の中で、ただ幸せそうに笑っていた。
 
これを描いた人間は彼らをとても大切に思っていたのだろう。


線が少し掠れているところがあるのは指先で何度もなぞった為だろうか。


その絵の少年を、彼女は知っていた。


この絵が描けるのがたった一人であることも。


懐かしそうな眼差しでその絵を暫くの間見詰めた後、彼女は同封の便箋を開いて読み始めた。


 


「桂木ちゃんへ


久しぶり。元気にしてるかなぁ。


時任の墓、今も手入れしてくれてるって聞いたよ。有難う。


世話掛け通しで申し訳ないんだけど、最後に二つ、お願い。


同封の絵を、アイツの墓に供えて欲しい。


それは時任が死ぬ間際、俺に押し付けた約束。


俺の好きなアイツを描いて欲しいっていう約束のせいで俺は今まで死ねなかった。


生きたくないのに、生きる意味があるって辛かったよ。かなりね。


二つ目のお願いは、この手紙を届けた黒猫の面倒を見てくれないかな。


生まれ変わっても時任ってば石投げられたりとかしてるから、一人にさせとくのが心配でねぇ。


アイツは町に帰りたいかもしれないし、桂木ちゃんの都合もあるだろうから、できればだけど。


生まれ変わりなんて言って、頭がおかしくなったと思う?


そうかもしれない。


でも、俺を救うのも幸せにするのもアイツ以外にできない芸当っしょ?


約束なんて口にしたあの時の時任の気持ちがずっと理解できなかったけど、今になってやっと分かったよ。


好きな奴に、自分が死んだ後も生きて幸せになって欲しいって思うのは、当然だよねぇ。


こうなって、やっと分かった。


だから、時任をよろしく」


 


紙の上に雫が幾つも幾つも軽い音を立てて零れ、インクを滲ませる。


互いの幸せを願った二人の、そのささやかな願いすら叶わぬ現実に、彼女は一人、嗚咽した。


 


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