腕の中の水桶を覗き込む。
家の傍の井戸で汲んできた水が満ちていて、そこに俺の顔が揺蕩いながら青空を背に映りこんでいる。
俺だ。
人間だ。
真っ黒な髪、真っ黒な目。
猫みたいなつり目。
俺の顔。
始めてみる様な、見慣れている様なそれをまじまじと見つめていると、ふいに見知った影が背後から覗き込んできた。
「空が青いね」
弾かれた様に振り返って、自然と顔が笑う。
「おかえり!久保ちゃん!」
自分の声がゴム毬みたいに弾んでいるのが分かる。
「ん。ただいま時任」
そこに立って微笑んでいたのは、俺の知らない久保ちゃんだった。
俺の知ってる久保ちゃんは、口角を上げて目を細める度、心の中で自分を切り刻んでるみたいだった。
そんな笑い方しかしなかった。
今、久保ちゃんはその辺のただの人間みたいに幸せそうに笑ってる。
並んで家までの道を歩く。
暖かく柔らかな風が頬を撫で、髪を揺らした。
「すっかり春だよな」
「桜も終わりだねぇ。時任、桜は好き?」
「薄いピンク色の、雲みたいな木だよな……近くで見た事はねーけど」
山間から小さく遠く見える町がある。
木蓮が散る頃になるとその町が淡い桜色に彩られるのが不思議で、遠い昔、母親にあれは桜というのだと教えられた。
知らない花の咲く知らない町にはどんなものがあるのだろうと、ガキの頃の俺は良く丘から町を眺めては夢想していた。
俺の世界は小さな森の中が全てだ。
この森の草木の事ならなんでも知ってる。
何が毒で何が薬か。
先祖代々受け継がれてきた知恵だ。
それが、魔女の力。
俺の力。
それだけが。
「この森にはないもんね」
けれど、魔女裁判も遠い昔となった今でも、信仰と紙一重の偏見だけはしぶとく残り続けている。
近隣の村からは監視され、森から少しでも姿を現せば『不吉だ』『悪魔の末裔め』と罵倒され、石を投げつけられた。
どこにも行くことが出来なかった。
ずっと独りだった。
それでいいと思っていた。
独りが何かなんて知らない癖に。
だって、そんなもの、知ってどうなる。
考えたら、理解したらきっともう生きていけない。
無いものねだりは馬鹿馬鹿しい。みっともない。
自分にそう言い聞かせ、俺は生きていくために必死で目を逸らしていた。
この俺は、俺だ。
何から何まで一緒だ。
黒いことも、忌み嫌われていたことも、独りだったことも、独りで良いと強がっていたことも。
久保ちゃんと出会って、温もりを知ったことも。
身体に風穴を三つ空けて死にかけで俺に拾われた久保ちゃん。
久保ちゃんも、多分、俺と同じだった。
「描いてきたんだろ?見せろよ」
久保ちゃんは時々俺の作った薬草を町まで売りに行って、その金で色々買ってきてくれる。
そして、俺の見られない様々なものを絵に描いて見せてくれた。
それがどんな土産よりも楽しみで、久保ちゃんの描く絵が俺は好きだった。
「おねだりならもっと可愛く」
久保ちゃんは笑った。
それは常の優しい微笑とは違う、何だかエロい笑い方だった。
「上目遣いで、おねだりしてよ」
耳元に唇を寄せて囁かれ、思わず肩が跳ねる。
無駄にエロいんだよな、コイツ。
きっと睨みつけ、ドスの効いた声を出す。
「……見せろ」
「うーん。可愛いけど80点」
そう言って、久保ちゃんが俺の前に差し出したのは、薄紅の花の付いた、小枝だった。
春風に今にも散らされそうな、華奢な造りの五枚弁の花。
初めてみる、桜の花だった。
久保ちゃんは恭しくそれを髪飾りの様に俺の頭に飾った。
腕の中の水桶に、薄紅の花を髪に差して顔を赤くした間抜けな俺の顔が映る。
「綺麗っしょ?」
「久保ちゃんクッサ~~ッ!」
照れを誤魔化すように、俺は盛大に吹き出した。
幸せで、笑っていた。
俺達は毎日下らない事を話して、笑って、普通に、幸せに暮らしていた。
あの日までは。
「時任ッ!!」
久保ちゃん、そんな顔すんだ。
いつもスカした顔してんのに。
お前、そんな必死な顔するんだな。
込み上げる大量の吐血に最早咽る力も無い。
久保ちゃんはどうにかしようとしてるんだろう。
どう見たって手遅れなのにな。
胸も腹もぐちゃぐちゃだろ。
何度も小斧で斬り付けられたし。
今、意識があるのが奇蹟だって。
もう痛いのかも熱いのかも寒いのかも、なんもわかんねー。
別に、ここまでやる気はなかったんだぜ?
あいつ等も。
でも、俺抵抗しちまったし、なまじ強いし。
斧振り回さないと俺の動き、止められなかったんだよ。
馬鹿だろ? 俺。
まぁ、どの道殺されてただろうけど。
だって、さぁ、嫌だったんだよ。
お前と離れ離れになるの。
俺、お前と居たかっただけなんだよ。
一緒に生きたかった。ずっと。
町になんて行けなくったってよかった。
死ぬまでこの森の小さな家で、久保ちゃんと生きたかった。
「……く……ちゃ……」
「しゃべるな、時任」
有無を言わさない強い口調。
でも、俺は黙らない。
今伝えなかったら永遠に、伝わらない。
「ご……め……」
「何言ってんの。時任は何も、何も悪くないっしょ?」
俺だってそう思ってる。
黒死病が流行ってることだって、山の向こうの村がそれで全滅したらしいことだって、俺、何も関係ねーし知らねーよ。
今日初耳だって、それ。
俺が原因な訳ねぇじゃん。
でも、信じてくれなかった。誰も。
もう、どうでもいいけどな。
俺をこんなザマにした村人たちは久保ちゃんに全員殴り殺された。
家の中に転がっているその骸に対しても、特に思う所はない。
俺のミンチになった胸を満たす罪悪感は久保ちゃんにだけ向けられている。
「時任」
「……」
「お前が死んだら俺も死ぬから」
ごめんな。
俺は残酷だ。
俺達はお互いに孤独を知ってたから惹かれあった。
なのに、俺は久保ちゃんを、俺も知らない雪より冷たくて夜よりも寂しい孤独の中に置き去りにしようとしてる。
温もりを知った肌にそれはどれ程、冷たく感じるのだろう。
ごめん。
酷い奴だろ?
恨んで良いよ。
それでも俺は久保ちゃんに死んで欲しくない。
「お……れ……」
手を握る久保ちゃんの掌の感触も遠くなっていく。
もう目も見えない。
「か……い…………て……」
一度も俺を描かなかった久保ちゃん。
どんなに強請っても描いてくれなくて、むくれた俺にぽつんと久保ちゃんは呟いた。
『絵だけあっても、辛いだけでしょ』
その一言だけでも、久保ちゃんが俺を失うことをどんなに恐れているのか痛い程に伝わってきたのに。
それなのに。
「す……き……な………お………………れ………」
自分の言葉が音になっているのかも分からない。
ただ必死に唇を動かす。
ごめんな。
どんな風になっても、久保ちゃんに生きて欲しい。
俺の我儘、最後にもう一個だけ叶えてよ。
「や……………そ……く……」
約束は、果たしてくれなくて良いから。
はっと目を開く。
空が青い。
一瞬、自分がどこに居るか分からず、飛び起きて辺りを見回した。
「起きた?気持ち良さそうに寝てたねぇ」
のんびりとした久保ちゃんの声が頭上から降ってきて、俺は久保ちゃんの膝でいつの間にか眠っていたことに気付いた。
久保ちゃんの腹にぐりぐりと額を擦り付ける。
「どしたの?」
甘えてると思ったのか、久保ちゃんはまた大きな手の平で俺の背を撫でてくれた。
俺は体温を確かめる様に、何度も何度も身体を摺り寄せた。
久保ちゃん。あったけぇ。
久保ちゃんが生きてる。
生きてる。
良かった。
約束、して。
見た夢について俺はそれ以上考えることはなかった。
久保ちゃんが生きていれば、それで良かったから。
ただ、早く久保ちゃんが今の俺を見てくれればいいのに、
そう思った。
また、冬が来る。
久保ちゃんと出会って二度目の冬が。