「俺は別に、時任が死んでもいいよ」
久保田は笑っていた。
「俺も死ぬ。それだけ」
沙織は歯噛みをして久保田を睨みつけた。
久保田の事は怖くて怖くて仕方がなかったが、恐怖を上回る怒りが全身を満たしていた。
こんな恐怖に立ち向かえるほど自分が強くなったのは、一度でも母親になったからだろうか?
それとも――時任を愛してしまったからだろうか。
「あなたが死ねばいいのに」
沙織は吐き捨てた。
「君の彼氏さんみたいに?」
ずくりと胸が痛む。
酷い死に方をした恋人のことはまだ、生々しい傷跡を胸に残している。
久保田はその事を、その傷の深さまで理解した上で抉っているのだろう。
「最低」
「自分は、死ねって言っておいて?」
久保田の口調はあくまで穏やかだ。
「俺が死んだら、時任も死ぬと思うよ」
「そんなの分からないじゃない!」
「そーかなぁ?」
全く焦りを感じさせない久保田にイラついて沙織は怒鳴った。
「そんなのどうでもいいからッ!!早く、時任を離してよ!!」
何で自分の方がこんなにも悲痛な声を上げなければならないのか、頭の隅でそんな疑問を抱く。
久保田よりも、何故。
「死んじゃうじゃないッ!!!」
久保田は微笑んだままだ。
その久保田の足元には、時任が倒れている。
撃ち抜かれた腹は赤く、応急処置もされていない傷口から流れる血で床を覆う赤は面積を増す一方だった。
一刻も早く処置をしなければ危険な状態であることは瞭然だったが、久保田は手当てをするどころか近付くものに銃を向け、誰にも手を触れさせようとしない。
ただ待っている。
時任が死ぬのを。
そして、手に持った銃で自分が死ぬ時を。
時任を撃ったのは久保田ではない。
だが、時任を殺そうとしているのは、久保田だ。
血の気が失せて青褪めた時任はピクリとも動かず、呼吸のため、微かに胸が上下しているのが見て取れるだけだった。
意識はない。
このままでは、本当に。
「だから、死んでもいいんだってば」
久保田は銃を向けたまましゃがんで、時任の猫っ毛を撫でる。
「生きてても、死んでても同じなんだよ。一緒にいられるなら」
久保田は、時任の窮地を前に狂ってしまったのだろうか。
狂っていればいいのに、と思う。
これが正常な思考で、正しい理性の元に行われた行動だというのなら、其方の方がずっと異常だ。
「そんなの、貴方の勝手な言い分じゃないッ!!時任はそんなこと思ってないわよッ!!」
「どうかな」
結局久保田ははぐらかす。
沙織は焦る。
こんな会話を続けている間にも時任は死に向かってゆっくりと進んでいるのに、自分に出来る事はこんな言葉の応酬だけ。
焦りと苛立ちと恐怖で全身が震える。
早く、早く、でないと。
久保ちゃん。
意識がない筈の時任の唇から掠れた声が漏れる。
必死で助けようとしているのは自分なのに、久保田は見殺しにしようとしているのに、時任がうわ言のように呟くのは冷酷なこの男の名前だけなのだ。
多分。
時任が死ぬのが嫌なのではないのだ。
この男の思い通りになるのが心底嫌だった。
ずっとずっと時任の全部を独占して死んでまで全てを自分のものにしようとしている、久保田の。
そして、後幾許も経たない内に全て彼の思い通りになってしまう。
時任!
沙織は、望む玩具を買って貰えず地団駄を踏む子供のような気持ちで時任の名を叫んだ。