独りで生まれたんだ
独りで生きて
独りで死んで
何が悪い
独りは気楽でいい
誰にも煩わされることなく
寄り添うのは寂寥の影だけ
群れるのは弱い奴のすること
俺には必要ない
誰かを思いやることに何の意味がある?
腹だって膨れねぇ
夜に生き闇に死ぬ
それでいいはずだった
知らないものを欲しがる道理も無い
無い物ねだりは格好悪い
現状に満足していたのに
なのに
あいつが現れた
BLACK CAT
「そっちに逃げたぞっ!」
甲高い怒鳴り声が鋭く鼓膜を刺す。追いかけてくる罵声と足音。
「悪魔めっ!」
あー……うっせぇ。これだからガキは嫌いなんだよ。
ガキに限らず、俺は俺以外の全てが嫌いだけどな。
休日の真昼間、何時もより賑わっている大通りには耳障りな喧騒が満ちている。
うるさくて仕方ない。
俺はガキ共に追いかけられながら、目の前に林立する幾多の足を器用に避けてすり抜けた。
すれ違い様に俺を見た人間達は皆一様に顔を顰めて、後ろのガキ共と同じ表情を浮かべる。
『不吉だ』『汚らわしい』『悪魔の使者め』『消えてしまえ』
――そんな顔。
別に、慣れっこだ。気にする様なもんでもない。
「待てッ!!」
待つわけねーじゃん。ばぁーか。
捕まれば待っているのは死。ガキに殺されるなんて冗談じゃねぇ。
人込みを突っ切った俺はガキを引き離し、上手く撒くことに成功した。
とろい人間のガキが俺様の俊敏な走りについて来れる筈がない。
立ち止まって後ろを振り返る。
追手の姿が見えないことを確認すると、ゆっくり大通りを歩き出した。
俺は黒猫。
名前はまだ無い――なんて、どっかの小説の猫みてぇに格好付けすぎか。
俺は名前なんかいらない。
俺は独りだから。
呼ぶヤツもいねぇのに、名前なんて何の意味があるんだよ。
邪魔なだけ。重いだけ。
だから名前がない分、俺は他のヤツよりも身軽に走れる。
尻尾をピンと立てて、胸を張って。
毛の色が黒くたって気にしない。
この黒い毛のせいで『不吉だ』と、嫌われ者になっていても。
いーじゃん。かっこいーじゃん。
月すらも呑込んだ星一つない日の、夜の色だ。
誰に嫌われようとも、俺は俺が気に入ってる。
それで十分だ。
「あッ!」
自慢の鍵尻尾を風に泳がせながら堂々と歩いていると、後ろから鋭い叫び声が聞こえた。
御馴染みの、獲物を見つけたガキの声。
振り返ると、さっきとは違うガキ共が石を片手に俺目掛けて走って来るのが見えた。
げッ!
慌てて暗く細い路地裏に逃げ込む。
最初から裏道をコソコソしていれば、ガキに見つかる確率もうんと少なくなるんだろうけど、そんなのは俺の流儀に反するからな。
黒猫の俺が人間共にどれだけ忌み嫌われようと、俺は悪くねぇもん。
胸張って好きなように生きるっつーの。
ただ、こう何度も追いかけ回されると流石に手足が疲労を訴えてくる。
その時、風を切る鋭い音を耳が捉えて、後ろから投げ付けられた石礫が俺の髯を掠った。
げッ!!
背後に意識を集中させながら、走る足に一層の力を込める。
おいおいおい。勘弁してくれよ。
猫にとっちゃ人間の投げる石は大砲のようなもんだ。
当たれば痛いじゃ済まない。骨が砕けるっての!!
石礫は次々と投擲されるが、幸いなことに避けるまでもなく大抵は見当違いの方向に飛んでいく。
これなら大して気を付ける必要もないだろう。
投石よりも、問題なのはガキ共に狩りを止める気配がないことと、良い逃げ道が見付からないことだった。
人間が追手来られないような細い抜け道や塀を期待して裏路地に入ったのに、建物の壁ばかりが続いている。
逃げ回る内にいつの間にか馴染みのない縄張りの外に来ていたようだった。
角を曲がり、袋小路に入り込んでしまったことに気付き、地面に爪を立てて足を止める。
マズい。
身を隠す場所もなさそうだ。
戻るしかないけど、ガキが直ぐそこまで迫ってきている。
走り抜けるか?
どうする。
――その時、先ず感じたのは浮遊感。
次いで、体を包み込む温もり。
ふわりと持ち上げられ、胸元に抱き込む様に抱えられる。
何が起こったのか理解できず、俺の思考も身体もピシリと固まった。
傍を騒々しい足音が通り抜け、去っていく。
「もう行ったかな」
頭上から降る、低く柔らかい響きの声。
俺を覗き込む、硝子越しの細い垂れ目。
「怪我ない?追いかけられてたみたいだけど」
俺は漸く、人間の男に抱き抱えられている現状を認識した。
そこはぽかぽかと、太陽よりも温かかった。
男が、笑って言った。
「可愛いね、お前。真っ黒で」
途端にぞっとして、腕の中から抜け出そうと必死になってもがく。
何やってんだ俺!コイツは人間じゃん。敵だ。
逃げなきゃ殺される。
無我夢中で暴れて、腕なんて引っかきまくってなんとか逃げ出すと、俺はまた走った。
何だアイツ、意味わかんねぇ、何で、何で。黒猫の俺を。
何気なく振り返って俺はぎょっとした。
男が俺の後を追掛けて来るのが見えたからだ。
なんなんだよッ!?
俺は再びぞっとして全力で逃げまくった。
その変わった男はどこまでも、どこまでも着いて来た。
俺は今、何で逃げてるんだ?
何から逃げてるんだ?
人間が俺を助けた、のか?
ありえねぇ。
信じられるわけがない。
今まで散々に罵倒され、暴力を振るわれ、とばっちりを恐れた同じ猫でさえも俺に近づかなくなっていた。
俺は独りだった。
それでいいと思っていた。
独りが何かなんて知らない癖に。
だって、そんなもの、知ってどうなる。
考えたら、理解したらきっともう生きていけない。
無いものねだりは馬鹿馬鹿しい。みっともない。
自分にそう言い聞かせ、俺は生きていくために必死で目を逸らしていた。
なのにあの男は勝手に、不意打ちで、 さもそれが当たり前の様に俺を抱き上げて優しい言葉を投げかけた。
俺はその温もりを否定した。
逃げ出すしかなかった。
その腕が温かいと、温もりが心地良いと感じてしまったら、俺はもう独りじゃ生きていけなかったから。
背後に迫るのは、人の形をしていない、酷く大きくてもっと恐ろしいものであるかのような気がした。
はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……
「鬼ごっこはもう終り?」
心臓は限界を訴えてバクバク鳴り、腹は大きく上下している。
もう走れない。
それでも俺は四足に力を込め、何時でも走り出せる体勢でその男と対峙した。
疲弊し息切れした俺の前にしゃがみ込み、息一つ乱れてはいない男はそう言って薄く微笑んだ。
どー……なって……んだ……よ……コイツ……
俺は男から逃げ切ることが出来なかった。
その人間の足が俺より早かった訳じゃない。
読まれていた。俺の行く先、全部。
走っても走っても男のことを振り切れなくって、撒けたと思った瞬間、男は目の前で俺を待ち構えていた。
「やっと見つけたんだからさ。逃げないでよ」
やっ……と……見つと……た……?わっ……けわかんねぇ……
疲れて動けない俺の横で男は何やらごそごそと持ってた鞄を漁ると、干した小魚を俺の鼻先に差し出した。
「食べる?つまみの残りだけど」
餌付けってか?馬鹿にしやがって。
人間の寄越す食い物なんて食えるわけない。
毒でも入ってんじゃねーの?
けれどその匂いは俺のすきっ腹にガツンと強烈なボディブローをかました。
食えない、食えるわけないけど、視線が干し魚から動かない。
干し魚を見つめたまま、じっと動かない俺を見て 、
「食べないの?なら、勿体無いから俺が食べちゃうけど」
男は干し魚ごと手を引っ込めた。
「にゃぅッ」
自分の口から思わず名残惜しげな鳴き声が漏れて、俺は自分に仰天する。
何鳴いてんだよ俺!
それに男は笑って、
「初めて鳴いたねぇ」
と言った。
鳴く訳なかった。
伝える相手もいないのに。
なのに。
男は干し魚を少し齧ると、咀嚼しながら残りを俺に差し出した。
「毒なんて入ってないっしょ」
何だか悔しくなって、俺はがぶりと干し魚に食いついた。
ボリボリと干し魚を齧る俺を変な男は、ある色をのせて静かにじっと見つめていた。
それは初めて見る色だった。
様々な感情を滅茶苦茶に詰め込んで、煮詰めて煮詰めて、焦がしてしまったかのような黒だった。
夜の黒じゃない。
もっと暗くて、苦くて、底の見えない色だった。
けれど不思議と冷たくは感じなかった。
そんな目で、男は俺を見ていた。
真っ暗な夜空の中にたった一つの星を探すみたいに、直向きに。
不思議なことに、その視線は干し魚よりも俺を満たした。
やがて男はゆっくりとこちらに手を伸ばしてきた。
大きな掌が俺の頭に触れ、柔らかく撫でる。
何度も、何度も。
今度は俺も、引掻かなかった。
こいつは害さない。
そんな風に、自分以外を生まれて初めて信じた瞬間だった。
これが俺とアイツ馴初め。
以来、俺とアイツはずっと一緒だ。
黒猫の俺に人間を相手にする様に話しかけ、優しくする変わり者のアイツ。
ただ、硝子越しのその細目は俺を素通りして、何か別のものを見ている様でもあった。
それは陽だまりの様にぽかぽかと温かくなるような視線の時も、胸を切裂く様な感情が見え隠れする危うい視線の時もあった。
けれど俺に向ける眼差しは例外なく、いつも優しいものだった。
アイツのどこを気に入って今まで一緒に居るのか、ハッキリ言葉には出来ないけど、結局、居心地が良いからだと思う。
離れがたかった。
心の一部があいつに縫い付けられちまったような不思議な感じ。
まぁ、俺が何処に行こうとアイツは勝手について来たけど。
俺ももう逃げやしなかった。
アイツ相手に逃げても無駄だしな。
多分、それで良かったんだろう。
もしあの時アイツのことを信じなかったら、俺は何のために生まれて来たのかすら分からないまま生きていただろうから。
この夜の黒の中を、独りきりで、ずっと。