彼を知ったのは行きつけの雀荘でだった。
煙草をくわえながら、なかなか火の付かないライターをカチカチやってる俺にスッと彼がライターを差し出して。
火を借りると、あんたのことここで良く見る、と言って彼は痣だらけの笑顔を見せた。
そーかもね、なんて軽く返して彼をまじまじと観察する。
若くて、細い体躯と鋭い眼差しは猫を彷彿させる。綺麗な顔をしていたが、顔にも体にも痣と絆創膏を沢山貼り付けていた。
とても麻雀をするような風貌ではなかったが、俺を良く見ると言っていたからココには頻繁に来るんだろう。
彼は急に顔を近づけると、俺の目をのぞき込んだ。
心の何かを絡め取られるかのような眼差しだった。
彼は魅惑的な表情を見せると、一言、
「俺を買ってくれない?」
と囁いた。
俺にしか聞こえない声で。
お互い、男だった
でもそれは彼を抱かない理由にはならなかった。
安くてボロいラブホテルで俺達は抱き合った。
濡れて悶える彼は魅力的で、俺は自分でも驚くくらい余裕なく彼を貪った。
彼は男の相手をすることに馴れていて、それが幾ばくかの不快感を与えることを不思議に思う。
ただの行きずりの相手なのに。
深く考えるのが嫌で、目の前の快楽に溺れた。
事が済んでも俺はベッドから出なかった。
彼は驚いたように目を丸くして、さっさと帰らない奴はあんたが初めてだと言った。
俺は久保田だと名乗った。
彼は時任だと笑った。
笑うと、唇の傷が引き連れて痛そうで。
俺は痛くないの?と尋ねた。
痛くないわけないだろと彼は返した。
シーツの中で俺達は色んな話をした。
彼はライターを持っていたが彼自身煙草を吸うことはないらしい。
傍にいる奴が良く吸うんだ、と、何故か自嘲気な笑みを見せて。
ソイツが、記憶のない彼を拾ったんだと彼は語った。
売りをするように言ったのもソイツ。
痣をつけたのもソイツ。
ソイツが彼の飼い主。
その頃にはすっかり彼が気に入っていた俺は、そんなヤツの代わりに俺と住もう、そう言ったけど、彼は首を横に振るだけだった。
アイツが俺の全てだから、そう言って。
ありがとうと、それだけ俺に応えて。
彼の飼い主になるには俺には何かが足りなかった。
なんだろう。金じゃない。見えない何か。
金を払うと俺はホテルを出た。
彼は引き止めなかったし、俺もこれっきりだと思った。
だが、意外なことにそれ以後も雀荘で彼とちょくちょく会った。
俺を見ると彼は笑顔で駆け寄って、他愛ない話をしたりした。
見る度に彼の痣と傷は増えていた。
彼を知って、彼の飼い主も何度か見かけた。
どうしようもないチンピラだった。
彼を拾って介抱したという彼の話がとても信じられないくらいに、どうしようもない男だった。
雀荘に通い詰め、負けては良く彼を殴っていた。
彼は歯を食いしばり、ソイツを見据えて一切抵抗しなかった。
しかし俺は知っている。
以前カモにされた男が雇った破落戸と共に俺を襲ってきた時、俺と共に平然と蹴散らした彼の強さを。
なぜ黙って殴られている?愛しているから?
俺は問いつめた。
彼は曖昧に笑って、どうしようもないんだと言った。
刷り込みみたいな現象だったのかもしれない。
初めて認識した世界がソイツだったのだ。
それが暴力に満ちた世界であっても逃れられない。
愛ってナニ?逆に彼は聞いた。
俺は答えようとして言葉に詰まった。
人並みの愛すら己の中にないことに気付いて。
知っていたら良かったのに。
知っていて教えてやれればよかったのに。
そしたら彼は誤った世界から抜け出そうとしただろうか。
その頃にはもう、俺は絶ちがたい執着を彼に感じていて。
でも、あの日以来彼は俺と体の関係を結ぶことはなかった。
彼は、一度寝た相手とは決して寝なかった。
それは彼の飼い主がそう定めたからだ。
多分……彼の飼い主は、彼に執着していて。
体を売ることを強制する反面、客と懇意になるのを良しとしない。
歪んで屈折した愛情。
でも俺の知ったことではなかった。
俺は彼が欲しかった。
救おうなんて思ってなかった。ただ欲しかった。
暴力しか知らない彼に、散々甘い言葉をかけ優しくした。
辛い時は助けてあげる。
お前が助けてと一言言えば必ず。
例えお前の飼い主を殺すことになっても。
何度も何度もアプローチした末、ついに彼は言った。
「久保ちゃんと寝たい」
二度同じ男と寝る。
その意味をわかった上で。
嫉妬深い彼の飼い主がどうするか理解した上で。
朝。目を覚ますとベッドに彼の姿は無かった。
すぐさま追いかけると、ホテルの前で彼は殴られていた。
尾行されていたのだろう。
ソイツは口汚く罵りながら何度も何度も彼を打ち付けて。
殺す気だったのかもしれない。
髪を鷲掴みにされた彼と俺の目があった。
彼は少しの躊躇の後、はっきりと言った。
「助けて」
俺は笑った。足りない何かはその一言で補われた。
懐に手を突っ込んで無骨な拳銃を取り出す。
尚も彼を殴り続けるソイツに向かって引き金を引いた。
乾いた音がしてソイツは崩れ落ちた。
それで、継承式は終わった。
倒れ込んだままの彼に手を差し伸べる。
彼は俺の手を握った。
もう、前の飼い主には見向きもしない。
当たり前だ。
だって、今現在、彼の飼い主は俺なのだから。
抱き寄せて、優しく抱擁する。
彼の前の飼い主は暴力で縛った。
俺は優しさで彼を縛ろう。
巧妙に巧妙に砂糖で鎖を包んで。
微睡みのように抜け出せない檻に彼を閉じこめよう。
そして気付く。
愛なんてなくても、知らなくても、得られるものはあるのだと。
愛と執着が均衡ならば。
絶対の関係性が。
最初から久保ちゃんに拾われていればよかったのに。時任が言った。
俺じゃない方が良かったんだよ。思ったけれど、言葉にしないまま微笑んだ。