幽霊の存在を信じたことも疑ったこともないが、この目で見たことはただの一度もなかった。
少なくとも、今までは。
ソファーに寝転がって時任が気持ち良さそうに惰眠を貪っている。その寝顔を、床に座ってソファーに凭れ掛かりながら飽きもせずに眺めていた時だ。
「キモッ」
右斜め上からそんな声が聞こえて、反射的に顔を上げた。
目が合う。
ソファーの背凭れに腰掛けている時任と。
その顔は時任のものにしか見えなかったが、しかし時任は今もソファーの上で眠り続けている。寝息が指を擽る感触はリアルだ。
「…………時任?」
懐疑と困惑を含んだ問いに、彼は片眉を上げ、悪戯っぽく笑った。
「時任じゃないよ、俺も、その子も」
時任をその子と呼んだ彼は、良く見れば、時任よりもずっと幼い容姿をしていた。中学生位だろうか。
「俺は稔のお兄ちゃんだよ。久保田誠人」
時任の兄を自称する少年は、穏やかな口調で辛辣に言い放つ。
「あんたキモ過ぎ。いつまで稔の寝顔眺めてんだ」
「その顔でキモいとか言わないで。傷つく」
「正直だな。嘘つきの癖に」
彼はずっと微笑んでいる。幼い顔立ちに老成した笑みを浮かべて、知ったような事を言った。
「……時任にお兄ちゃんいたんだ」
「いたし、死んだ」
うーん。
何を信じて何を疑うべきか。
彼の言を信じれば、彼は時任の死んだ兄、つまり幽霊ということになる。
彼の言を疑えば、彼は時任そっくりのただの不法侵入者ということになるが、何故、いつ、どうやって、この部屋に侵入したのかという疑問が残る。
そのどちらも現実味がなく、寧ろ彼の存在を認識している俺の正気を疑う方が現実的のように思えた。
頼みの綱の時任は未だ夢の中。
しかし俺の方こそ夢を見ているみたいな気分だ。
「つまり幽霊」
「そう、幽霊」
彼はソファーに座るそのままの体勢でふわりと宙に浮かんで天井付近に漂い始め、俺はますます自分の正気を疑いたくなった。
と同時に、時任が目を覚まさないかが気になった。
彼が本当に時任の兄であるのならば、俺は時任に彼を会わせたくない。
「なんで幽霊が見えるのかな?」
「俺は今までずっと稔の傍に居たぜ?お前が突然霊感湧いたんじゃねーの」
「ずっと?」
他人に時任との生活の一部始終を見られていたというのはぞっとしない話だった。
「ずっと。あんたが稔を拾うまでも、拾ってからも」
彼は目を細めた。
「聞きたい?」
「遠慮しとく」
彼の語る言葉に俺の知りたいことなんて一つもある訳がない。
「ほんっと正直者な、あんた」
彼は天井を仰ぎ、時任はむにゃむにゃと寝言を言って、寝返りを打った。
以来、時任と俺と、時任の兄(の幽霊)との奇妙な同居生活が始まった。
始まったと思っているのは俺だけで、彼曰く、元々そういう状況だったらしいが、三人目の存在を認識しているのとしていないのでは天と地程の差がある。
見えなかった頃に戻りたいと切に思ったが、一度覚えた自転車の乗り方を忘れることができないのと同じで、どうすれば見えなくなるのか見当もつかなかった。
不思議なことに、彼以外の幽霊が見えることはなかった。
それについて彼に尋ねてみたところ、
「ラジオの周波数みたいなもんなんだろ」
等と事も無げに言っていた。
自分のチャンネルと合わない霊は見えないということか。
ならば、彼の周波数と合ったのが何故、俺なんだろう。アイツではなく。
第一声から気付いてはいたが、彼は俺のことがとても気に食わないらしく、 時任と並んで座っていたら「近すぎる」と言って実態のない手で俺の頭を叩いたり、時任の眠るベッドに添い寝して俺の侵入を阻止したり、嫌がらせに余念がなかった。
成仏してもらおうと塩を撒いたりもしてみたが、
「不快だから止めろ」
と言われただけで、時任には、
「なにやってんだよ!ソファが塩まみれじゃん!」
と怒られてしまった。
時任は彼が見えないようだった。
見えなければ居ないのと同じ。
視線が身体を素通りする感覚は覚えがあるもので、自分を見ることのない相手をただ見つめ続けるその様は身につまされたが、
「稔でヌいてんじゃねぇよ、この変態」
些細な同情は彼の茶々によってすぐに掻き消えるのだった。
彼は時任の側から離れることはなかったので、彼と会話するのは専ら時任が眠っている時だった。
ベットに丸まって猫よろしく寝入る時任の髪を、触れられない手で彼が何度も撫でている。
俺は時任の足元に座って、恨みがましくその様子を眺めていた。
彼の身体を素通りして時任に触れることは簡単だったが、何故かそれは憚られた。
「早く成仏しなよ。お兄ちゃんが現世でさ迷ってるって知ったら時任も悲しむと思うけど」
「俺の可愛い稔に悪い虫が付いてる内は成仏なんて出来ねぇな」
「ブラコン」
「昔は稔の方が俺にべったりで、にーちゃんにーちゃんってずっと後ろをくっついてきてた。年は離れてたけど仲は良かったよ。異国の地で、たった二人の兄弟だったしな」
彼は聞きたくもない昔話を俺に聞かせる。
「分かってる?稔はあんたに俺を重ねてるんだ。だから無邪気に甘えてる」
こちらを振り返って、彼はにっこりと笑う。乱暴な言葉遣いとは裏腹に、彼は穏やかな笑みを浮かべていることが多かった。
「役得じゃん。良かったな」
「……俺は時任のお兄ちゃんにはなれないよ。死んでまで弟を思うような良いお兄ちゃんには」
「別に良いお兄ちゃんだった訳じゃねぇよ。俺は死ぬ時、自分の事しか考えなかった。熱くて痛くて苦しくて、窓から一人放り出された稔がどうなったかなんて全然頭に浮かばなかった」
彼は目を伏せ、初めて自嘲気な笑みを浮かべた。
「……だからかな。こんなんになったの」
ふわりと時任のこめかみに口付ける。その口付けは髪一筋すら動かすことはなく、微睡みに漣一つ起こすことはない。
「俺はずっと見てた。俺が死んだ後、稔がどんな目にあったのか。見てただけだ。何もできない。稔が苦しんで、痛がって、泣いて、叫んで、すがっても救われない様を側でずっとただ見てた。やっと逃げ出せて、それで拾われたのがあんたにとか。なかなかお兄ちゃん泣かせだぜ、稔」
ポツリ、と呟く。
「人間はなんで運命を選べないんだろうな」
それは時任のことか。彼のことか。
後から思えば、仕草や振舞いは似ていないようでいて、自ら運命を変えたいと願い強い思いでやり遂げる所は時任と同じだった。
彼は時任の兄だった。
身体を起こし此方を見た彼の表情は既にいつものものに戻っていた。
「稔を見るあんたの目が嫌い。太陽見てるみたいな目付きしやがって」
自覚があるから言い返せない。
眩しく明るい、圧倒的な熱と光の塊。
俺は時任をそう見てるし、そうであれと信仰している。
「太陽に焼かれて死ねれば満足か?焼かれんのも、一人残すのもロクなもんじゃねーぞ。先輩からの忠告な」
時任と同じ顔で、時任と違う様に笑う。
「稔が太陽ならあんたはさしずめ、氷か雪かな。吹雪の夜は脅威だけど、日差しには滅法弱い。あっという間に溶けてなくなる。溶ける前に凍らせる位の気概見せろよ。それで太陽が太陽じゃなくなっても、一人にするよりはよっぽどいいぞ」
「詩人だね」
「誤魔化すな」
「君は俺と時任の邪魔をしたいの?それとも実はくっつけたいの?」
「からかってるだけ!俺の可愛い稔とあんたをくっつけたいワケないだろ」
少し考える素振りを見せてから此方を伺うようにして、
「あんた、稔の為なら何でもできる?」
そう言った彼の目は猫の目の様に光る時任の目と違って深く、底が見えない色をしていた。
「割と何でもできるつもりだけど」
それは腹の底からの本心だったが、恐らく俺は罠にかかったのだろう。
全ての言葉はこの為の布石だった。
俺が彼の周波数に合ったのではない、彼が俺のチャンネルに合わせて現れたのだ。
彼は天使のように微笑んで、悪魔のように囁いた。
「じゃ、体貸して」