久保田は唐突に立ち止まった。
雪混じりの風が横殴りに吹き付けてくる。
雪が狂い風が悶えている。
久保田は立ち止まったまま、吹雪の奥を見つめ続けた。
目を凝らしても何も見えない。
白い闇。
こんな吹雪の中、一歩外に出ることすら危険なのに、意味もなくただ歩き回るなどそれこそ自殺行為だった。
だが久保田には、家を――時任のいる場所を見失わないという妙な確信があった。
実際、何度となく一寸先も見えない白一色の中、家路を辿ったが不思議と迷うことはなかった。雪に、助けられているが如く。
「 」
名前を呼ぶ。
しかし言葉にはならない。
その名前を確かに聞いた筈なのに、心に届いた筈なのに、記憶のどこを掻き分けても霞のように掴むことは叶わない。
名前の主の顔すらも、覚えていない。
名前も。
顔も。
声も。
白く塗りつぶされている。
辛うじて記憶に残っているのは、白く美しいたおやかな手と、それが触れた時の魂が凍り付くような温度。
逢ったことを誰にも話すな、忘れろという言葉。
約束した。
あれはきっと、雪の化身だったのだ。
美貌で男を虜にし、身も心も凍らせ殺す雪女。
美しく無慈悲な。
俺は命を救われたけど。
しかし命の代わりに心を奪われた。
心臓に氷の如く突き刺さっている約束。
その約束が少しずつ時任と久保田の距離を遠くしている。
何度も忘れようとした。
時任だけを愛したくて。
だが時任の白く玲瓏たる相貌が否応無しにあの日の面影を思い出させる。
縛られている。
吹雪けば家を飛び出して当ても無く放浪してしまう足を止められないし、一年中雪に閉ざされたこの地から離れることも出来ない。
ただ、会いたくて。
もう一度。
そのことに時任は多分、薄々気付いている。
自分以外の誰かが久保田の心を握っていることに。
また一歩足を踏み出しかけ、顔に次々と突き刺さる雪の冷たさに久保田ははっと我に返った。
帰らなきゃ、ね。
踵を返して家路を辿る。
時任の待つ、温かい家に。
抱きしめる度に、愛しさと罪悪感と懐旧の情を生じさせる、細い身体を抱き締める為に。
幸せも安らぎも時任の傍にしかないこともまた、消えない約束と同じくらい、久保田にとって確かなことだった。